江戸のアントワネット

あかいかかぽ

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八十七、 半鐘

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「わたしがいけないんです。侍女と護衛の仕事を甘く考えていたんです。わたしがもっとしっかりしていたらシャルルは行方不明にならなかったし、女将を危険なところに出向くことはなかったし」

 土間に連なる板の間におとなが三人ごろごろと横たわっている。
 女将、トラ、鬼頭。まるで行き倒れの様相である。

「……お照、そんなことより、水をくれ」

「はい、鬼頭さま。さっきも名前を呼んでくれましたね」

 やっと覚えてくれたのかと思うと不思議なもので、親切を返したくなるのが人情というものだ。
 鬼頭の上体を起こして茶碗の水を飲ませる。
 ごくごくと喉を鳴らして飲み干し、鬼頭は手の甲で口を拭うと、ようやく人心地ついた顔を見せた。
 だが余計な一言がついてくる。

「名など便宜のためにある。覚えておかねばならぬ者に格上げしてやったのよ」

「それは光栄でございますッ」

 女将とトラにも水を飲ませる。
 飲み終えたトラが口を開いた。

「だけどあんたは鬼頭鮫衛門ではない、そうだろ」

「……なんのことだ」

 来たか。
 お照は身構えた。鬼頭の名前を耳にしてからずっとトラは神経を尖らせていたにちがいない。お照は鬼頭がどう答えるか、息を凝らして待った。
 しかし鬼頭はトラではなくお照に目を向けた。

「半兵衛が喋ったのか」

「は、半兵衛さん?」

「ちがうのか。半兵衛が口を滑らせたのかと思ったが」

「半兵衛さんも知っていたのですか」

 思わず声が裏返ってしまったが、そんなことはどうでもよかった。

「半兵衛さんまで一緒になって嘘をついていたのですか。お、女将さんは知っていたのですか」

 女将は目を瞬かせてお照を見つめた。

「オニさんの名前のこと? あら、地位のある人間はいくつも名前があるのは珍しくないでしょう」

「そんなことありませんよ」

「あら、なんとか大納言とかなんとかのかみとかいろいろくっつくじゃない。町人だって俳号とか画名とかいろいろ持ってるでしょ。わたくしなんて、マリー・アントワネット・ジョゼフ・ジャンヌ・ド・アプスブール・ロレーヌですわ。生まれ故郷のオーストリアではマリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ・フォン・ハプスブルグ・ロートリンゲンと音が多少違いましたの。お役目に合わせて使い分けるものだと思っていたから、とくに気にしてはおりませんでしたわ」

 お照は裏切られた気分になって、ついトラと目を見交わしてしまった。
 トラはおそるおそる口を開く。

「あんた、本当は何者なんだい」

「幕府に伺候するただの武士である」

「真の名は?」

「名など聞いてどうする」

 名などどうでもいい。お照が気になるのは鬼頭の行動だ。

「シャルルをさらったのは鬼頭さまではないのですか」

「誤解するな。わしは敵ではな……ぐえ」

 鬼頭の首を女将が締め上げた。

「あなたなの!? わたくしからシャルルを奪ったのは。返しなさい、いますぐに!」

「お、落ち着け。いつもの冷静な女将にはどうした。おい、お照、止めろ」

 女将の細い指が鬼頭の首にくい込む。
 トラが加勢して鬼頭の両腕を抑え込んだせいで身動きを封じられた鬼頭は必死の形相でお照に目配せを送ってくる。
 お照は手を出さなかったが代わりに口を出した。

「ですがあまりに偶然が過ぎます。鬼頭さまはなぜ今日いらっしゃったのですか。鬼頭さまは将軍の御庭番なんですか。女将とシャルルを始末しろとでも命じられたのですか」

「ば、莫迦なことを言うな。わしが来たのは……」鬼頭はトラを見やって言いよどんだ。「この大女は何者なんだ? なぜわしに憎悪を向けてくるのだ……まさか……」

 鬼頭の唇が「白蓮教」と形作った直後、半鐘が鳴った。

 シャルルが見つかったのだ。

「迎えに行かなくては……!」

 女将は鬼頭を突き飛ばして立ちあがった。
 鬼頭は土間に転がり、喉を押さえて咳込んでいる。
 お照は鬼頭の上をぴょんと飛び越えた。

「わたしが行きます。女将さんはここで待っていてください」

「いいえ、じっとしてなんていられないわ。わたくしもまいります」

「ま、待て」鬼頭が呼び止める。「半鐘の音をよく聞け」

 シャルルが見つかったらお囃子の鉦のように鳴らすという取り決めだった。だが、あの忙しない連打音はごく近くで火事が起こったことを示している。

 吉原の中で火事が起こったのだ。

 外に出ると、西の方角に煙が立ち昇っているのが見えた。
 白牛の女郎屋、火玉屋がある方角ではないか。
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