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八十八、 火事始末
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白煙がもうもうと立ちのぼる。
すわ、大火事かと怯んだが、幸いにもほどなくして鎮火された。昨日までの長雨のせいで家屋が湿気ていたせいもあるが、なにより近隣の尽力のおかげだった。町火消しは吉原の火事には頓着しないので、吉原内でなんとかするしかないのだ。
火元はまさに火玉屋であった。防火桶の水を汲んで消火に当たっていた者のなかに白牛を見つけた。消火に勤しむなかに体中煤まみれになって水桶を手渡すこどもがまじっていた。
お照は思わず悲鳴を上げていた。
「シャルルー! 無事だったのね」
幻ではないことを確かめたくてがっしりと抱きしめる。緊張が解けたせいか、涙がとまらない。
「怪我はない? 火傷してない?」
腕の中でシャルルが身じろぐ。
「お照、どうしよう、ぼく……火玉屋を燃やしちゃった」
「死傷者が出なかったのはなによりである。だが、なにをしたんだ」
鬼頭の声は掠れていた。
今日は鬼頭にとって散々な一日となった。重いトラを運び、消火に励んで煙を吸い込み、いまもなお衣服が煤だらけである。
心身共に疲弊しきっているはずだ。だが気力は衰えないものなのか、鬼頭はシャルルと白牛を睨み据える。
場所は俄芝居の舞台をしつらえた廃業した茶屋である。火玉屋の楼主と女郎は外に仮宅をせず、しばらくこちらに住むことになったのだった。
座敷にはシャルルと白牛だけでなく、火玉屋の女郎たち五人全員がたむろしていた。シャルルへの尋問を冷めたようすで、しかし怨みを含んだ目で眺めていた。
「誰かにさらわれたのではないのね、シャルル。あなたが家からいなくなって女将さんはすごく心配していたのよ」
「ごめんなさい。こっそり実験したくて、白牛のところに行ったんだけど……失敗して火の粉が飛んじゃって」
シャルルはちらちらと隣の白牛を見ながら言葉を紡ぐ。
「ほんとなの、白牛さん」
白牛は気まずそうに笑う。
「朝、急にやってきてね、場所貸してくれって。青空を映した清水みたいな目をきらっきらさせてさ。断れないだろ。まさか火事になるとは思ってなかったけどね」
「実験とはなんのことだ」
鬼頭がシャルルに顎をしゃくった。
「えと……顔料を……その……」
「いかん!」
鬼頭は畳を叩いた。あまりに強く叩いたせいで天井から埃が降ってきた。
「緑の顔料を作ることはお上が許さぬ! 二度とやってはならんぞ!」
「そんなに怒らなくてもいいじゃないですか。シャルルは無事だったんですよ。誘拐されたわけでもなかったんです。まずは喜びましょうよ」
だれかにさらわれたと早合点したことはもう忘れたい。
鬼頭を疑い、温操舵手を疑ったが、世の中に鬼はいなかったのだ。申し訳なさと安堵が、愛想笑いに似た歪んだ笑みになる。
「そんな悠長なことは言っておれんのだ。というのは……」
「シャルルー!!!」
「お母さま!!!」
女将とトラが連れ立って茶屋にやってきた。
女将はシャルルをひしと抱きしめたあと、がばっと引きはがした。
「両手を出しなさい!」
「はい」
なにをするのかと思ったら、父の大工道具から曲尺を持ってきてシャルルの掌を打擲し始めた。掌はみるみる赤く染まる。
痛みに耐えかねたのか、庇うように指を曲げたところに曲尺が当たり、桜貝のような繊細な爪が割れた。赤い飛沫はシャルルの顔にまで飛んだ。
「やめな」
お照が止めるより先にトラが女将の曲尺を掴んだ。
「手をお離しなさい。これは罰です。体に思い知らせなければなりません。シャルルのケイソツな行動で人が死んだかもしれないのですよ」
女将の躾は厳しい。
「だれも死んじゃいないだろうに」
トラは金物の曲尺を素手で楽々と丸めてしまった。怪力だ。
「それは吉原の人たちが頑張ってくださったからでしょう。カンタンに許すことなどありえません。シャルル、お尻を出しなさい。腫れ上がっても我慢するのですよ!」
着物の裾を捲り上げて打擲しようとした女将を囲んだのは、さっきまで恨みがましい視線を送っていた火玉屋の女郎たちだった。
「もうやめてあげな。怯えてるじゃないか」
「女郎屋の折檻みたいな真似はしなさんな。とても見ていられないよ」
「痛めつけたからって火玉屋が元に戻るわけじゃないだろ」
「みんな無事だったし、家財道具もあらかた運び出せたんだし」
「怖いね。あんた鬼婆の顔してるよ」
女郎たちは女将を責め立てる。
すっかり出遅れたお照は黙って成りゆきを見守るしかなかった。女将がとても恐ろしく、唖然となったせいもあった。
女将はひとりひとりの女郎を見やって、溜息をついた。
「あなたたちにはわかってもらわなくてけっこうです!」
女将の一発がシャルルの尻に響いた。
シャルルが悲鳴をあげると、我慢できないといったようすでトラがシャルルを奪いとった。高い高いの要領で掲げたらシャルルの頭が天井にぶつかって派手な音を立てる。
「いたーい」
「ああ、かわいそうに」
「いっそうちの子になるといいよ」
「氷屋呼んでこようか。冷やしたほうがいいね」
シャルルはすっかり女郎たちの同情を引いていた。
どことなく常より幼い仕草にも見えるが、気のせいだろうか。
女将は踵を返し「帰りますよ、お照さん」と言い放って、シャルルに背を向けた。
すわ、大火事かと怯んだが、幸いにもほどなくして鎮火された。昨日までの長雨のせいで家屋が湿気ていたせいもあるが、なにより近隣の尽力のおかげだった。町火消しは吉原の火事には頓着しないので、吉原内でなんとかするしかないのだ。
火元はまさに火玉屋であった。防火桶の水を汲んで消火に当たっていた者のなかに白牛を見つけた。消火に勤しむなかに体中煤まみれになって水桶を手渡すこどもがまじっていた。
お照は思わず悲鳴を上げていた。
「シャルルー! 無事だったのね」
幻ではないことを確かめたくてがっしりと抱きしめる。緊張が解けたせいか、涙がとまらない。
「怪我はない? 火傷してない?」
腕の中でシャルルが身じろぐ。
「お照、どうしよう、ぼく……火玉屋を燃やしちゃった」
「死傷者が出なかったのはなによりである。だが、なにをしたんだ」
鬼頭の声は掠れていた。
今日は鬼頭にとって散々な一日となった。重いトラを運び、消火に励んで煙を吸い込み、いまもなお衣服が煤だらけである。
心身共に疲弊しきっているはずだ。だが気力は衰えないものなのか、鬼頭はシャルルと白牛を睨み据える。
場所は俄芝居の舞台をしつらえた廃業した茶屋である。火玉屋の楼主と女郎は外に仮宅をせず、しばらくこちらに住むことになったのだった。
座敷にはシャルルと白牛だけでなく、火玉屋の女郎たち五人全員がたむろしていた。シャルルへの尋問を冷めたようすで、しかし怨みを含んだ目で眺めていた。
「誰かにさらわれたのではないのね、シャルル。あなたが家からいなくなって女将さんはすごく心配していたのよ」
「ごめんなさい。こっそり実験したくて、白牛のところに行ったんだけど……失敗して火の粉が飛んじゃって」
シャルルはちらちらと隣の白牛を見ながら言葉を紡ぐ。
「ほんとなの、白牛さん」
白牛は気まずそうに笑う。
「朝、急にやってきてね、場所貸してくれって。青空を映した清水みたいな目をきらっきらさせてさ。断れないだろ。まさか火事になるとは思ってなかったけどね」
「実験とはなんのことだ」
鬼頭がシャルルに顎をしゃくった。
「えと……顔料を……その……」
「いかん!」
鬼頭は畳を叩いた。あまりに強く叩いたせいで天井から埃が降ってきた。
「緑の顔料を作ることはお上が許さぬ! 二度とやってはならんぞ!」
「そんなに怒らなくてもいいじゃないですか。シャルルは無事だったんですよ。誘拐されたわけでもなかったんです。まずは喜びましょうよ」
だれかにさらわれたと早合点したことはもう忘れたい。
鬼頭を疑い、温操舵手を疑ったが、世の中に鬼はいなかったのだ。申し訳なさと安堵が、愛想笑いに似た歪んだ笑みになる。
「そんな悠長なことは言っておれんのだ。というのは……」
「シャルルー!!!」
「お母さま!!!」
女将とトラが連れ立って茶屋にやってきた。
女将はシャルルをひしと抱きしめたあと、がばっと引きはがした。
「両手を出しなさい!」
「はい」
なにをするのかと思ったら、父の大工道具から曲尺を持ってきてシャルルの掌を打擲し始めた。掌はみるみる赤く染まる。
痛みに耐えかねたのか、庇うように指を曲げたところに曲尺が当たり、桜貝のような繊細な爪が割れた。赤い飛沫はシャルルの顔にまで飛んだ。
「やめな」
お照が止めるより先にトラが女将の曲尺を掴んだ。
「手をお離しなさい。これは罰です。体に思い知らせなければなりません。シャルルのケイソツな行動で人が死んだかもしれないのですよ」
女将の躾は厳しい。
「だれも死んじゃいないだろうに」
トラは金物の曲尺を素手で楽々と丸めてしまった。怪力だ。
「それは吉原の人たちが頑張ってくださったからでしょう。カンタンに許すことなどありえません。シャルル、お尻を出しなさい。腫れ上がっても我慢するのですよ!」
着物の裾を捲り上げて打擲しようとした女将を囲んだのは、さっきまで恨みがましい視線を送っていた火玉屋の女郎たちだった。
「もうやめてあげな。怯えてるじゃないか」
「女郎屋の折檻みたいな真似はしなさんな。とても見ていられないよ」
「痛めつけたからって火玉屋が元に戻るわけじゃないだろ」
「みんな無事だったし、家財道具もあらかた運び出せたんだし」
「怖いね。あんた鬼婆の顔してるよ」
女郎たちは女将を責め立てる。
すっかり出遅れたお照は黙って成りゆきを見守るしかなかった。女将がとても恐ろしく、唖然となったせいもあった。
女将はひとりひとりの女郎を見やって、溜息をついた。
「あなたたちにはわかってもらわなくてけっこうです!」
女将の一発がシャルルの尻に響いた。
シャルルが悲鳴をあげると、我慢できないといったようすでトラがシャルルを奪いとった。高い高いの要領で掲げたらシャルルの頭が天井にぶつかって派手な音を立てる。
「いたーい」
「ああ、かわいそうに」
「いっそうちの子になるといいよ」
「氷屋呼んでこようか。冷やしたほうがいいね」
シャルルはすっかり女郎たちの同情を引いていた。
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