江戸のアントワネット

あかいかかぽ

文字の大きさ
101 / 127

百一、 闖入者

しおりを挟む
「いった!」

 お照は尻餅をついた。舞台上の水溜まりで足を滑らせたのだ。自分が撒いた氷のせいなのだから腹を立てるわけにもいかない。

「なんだありゃ」

「飛び入りか」

 観客の声がお照の含羞に爪を立てる。頬がかっと熱くなった。
 冥界の帝王がかっこよく登場すべき場面で転んだのだから、とても恥ずかしい。顔も茹でだこのようになっていることだろう。
 だがここで見事に演じ切らなければ女将の芝居を台無しにしてしまう。
 すべては演出だったのだと思わせればいいのだ。堂々と立ちあがり、踏ん張ってやろうと観客を見やった。

「あれは敵か味方か」

 しかし観客の視線はお照のほうを向いていなかった。すばやく視線を追う。

「あんたに恨みはない。だけどあんたが死ねばきっとあいつは戻ってくる!」

 舞台の中央に、女将を睨みすえた男が鉈を構えていた。見覚えある顔だ。トラの亭主である。

「新しい悪役の登場か?」

「おい、秋馬は身投げしないのか」

 海で死ぬどころではなくなった秋馬が女将を守るように両手を広げた。

「なんだおまえは。勝手に舞台に上がってくるな」

「トラの亭主ではないか。女房はどうしたのだ」

 蔦屋は顔を覚えていたようだ。
 トラの名前が出て一瞬動揺した亭主だが、すぐに鉈を構え直した。

「出て行っちまった。だから……」

「事件を起こせば女房が帰ってくるとでも? 莫迦なことを考えるな」

「えい」

 お照は背後から亭主に体当たりした。タコの扮装をしたお照は全身を拘束しているようなものだ。木刀も持てない。だから体当たりするしかなかった。

「お照さん、危ないわ」

 女将の声と高月の悲鳴、秋馬と蔦屋が飛びすさる気配がした。舞台の上には戦える者がいない。女将の護衛もお照の護衛の藤堂もそばにはいない。
 わたしがやるしかないのだ。

「なんだ、このタコは」

 怒った亭主は鉈をぶんぶんと振り回す。綿をみっちりと詰めた着ぐるみのおかげで刃は深く食い込まない。
 だがお照から攻撃することもできない。
 観客がざわつき始めた。筋がおかしいと気づいたようだ。
 亭主はちっと舌打ちすると観客に向かって吠えた。

「うっせーな。もうこうなったら誰だってかまわねえ。鉈で頭をかち割ってやるぞ」

「させてたまるか」

 お照は亭主の目の前でぐるぐると回転した。

「そんなものがなんにな……ぐあ」

 八本の足が男に次々に直撃した。鉈を持った手に、肩に、額にぶつかって鈍い音がした。
 最初着ぐるみを作ったとき、綿でふかふかにしたまではよかったが、歩く度にタコの足がぴょんぴょんと跳ねてしまい、帝王の威厳に欠けるのが不満だった。だから足の先端に石を詰めて重石がわりにしたていたのを思い出したのだ。

 亭主は鼻血を吹きながら後退った。
 近づこうと踏み出した。だがまっすぐ歩けない。視界が歪んだ。ぐるぐる回りすぎたせいだ。どたんと大きな音を立ててまた尻を打った。

「いったあ」

「お照さん!」

 突然女将が覆い被さってきたので驚いた。
 女将の肩越しに鉈を掲げた亭主が見える。

「女将さん、どいてください!」

 このままでは女将が斬りつけられる。そのときだった。

「やんごとなき貴婦人を助けにまいった。我こそは鬼頭鮫衛門!」

 舞台に颯爽と駆け上がったのは鬼頭だ。
 勇敢にも素手で亭主に立ち向かい、目にもとまらぬ早業で亭主の肩と脾腹を打撃し、鉈を取りあげる。
 やんごとなき貴婦人とは高月のことで女将は端役に過ぎないのだが、観衆はそんなことにはおかまいなしだ。英雄の登場に拍手喝采である。

「待ってました!」

「ありゃ、すげえ。秋馬とは比べもんになんねえ所作だぜ」

 鬼頭は亭主の両腕を後ろ手にがっしりと掴んだ。

「この世の秩序を乱す奴は、許すわけにはいかねえな。だが手が足りぬ。そこのタコ、後は頼むぞ!」

 うなだれた亭主を引きずるようにして鬼頭は退場した。

「なんだかよくわかんねえが、見事な荒事だったなあ」

 観衆は満足げだ。その後は、死に損なった秋馬と高月が蔦屋に斬りかかり、蔦屋は大袈裟な演技で舞台上をのたうち回る。
 紐が切れたのか夜光石の首飾りがばらばらに飛び散った。首飾りの呪縛が解けて蔦屋はまっとうな人間になったわけだが、ここで終幕にできるような空気ではない。観客は興奮している。
 抗う蔦屋をお照が海に引きずり込んで溺死させると、やんやの喝采だ。国家転覆を謀ったタコなのに、いつのまにか正義の味方になっていた。そのままお照と蔦屋は舞台からはけた。
 藤堂がやって来て、鬼頭たちは番所へ行ったと告げた。

「鬼頭さまに怒られ申した。目を離すなど、護衛としてあるまじきと。もしお照どのになにかあれば拙者は死んで詫びねばなりませぬ」

 切腹も辞さず、と言うその目には一点の曇りもない。

「まったく、武士ってのは困ったものね。すぐ死ぬ死ぬ言うんだから」

「なんと言われましても、それが武士なのです」

 藤堂は楽屋でお照がタコを脱ぐのを手伝った。
 鉈で裂かれたタコは脱ぎにくかった。
 なかに単衣は着ているものの、じろじろと見られるのは恥ずかしい。

「あの、藤堂さん……」

「よかった、怪我はありませんね」

 本気で心配してくれていたようだ。
 蔦屋が顔を覗かせてお照を認めると軽く頭を下げた。

「お疲れさまでした」

「蔦屋さんこそ忙しいところをありがとうございました」

「さきほどの飛び入りは驚きましたねえ」

「あ、飛び入りが松平定信さまだったというのは内緒でお願いしますね」

 蔦屋はにやにやと笑っている。

「さあて、どうしましょうかねえ。錦絵にするならこの蔦屋重三郎、一世一代に張り込んで、空摺りや雲母摺りで松平どのの雄姿を世に出したいところですが」

 奢侈禁止令で町人文化を締め付けてきた松平定信への皮肉だろう。蔦屋は多くの才ある戯作者や絵師が筆を折るのを見てきたのだ。みずからも身上半減の憂き目にあっていた。
 藤堂は反論しようにもできず、苦虫をかみつぶしたような表情に変わる。

「まあ、よしときましょう。もったいないんでね。ほかにもっと金をかけたい絵師がいますんで、そっちに使いましょう」

 藤堂が安堵の息を吐いた。
 もっと金をかけたい絵師とは秋馬のことだろうか。
 しかし秋馬なら共通の知人でもある。なにかを含んだような言い方が気になった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~

bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

処理中です...