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百一、 闖入者
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「いった!」
お照は尻餅をついた。舞台上の水溜まりで足を滑らせたのだ。自分が撒いた氷のせいなのだから腹を立てるわけにもいかない。
「なんだありゃ」
「飛び入りか」
観客の声がお照の含羞に爪を立てる。頬がかっと熱くなった。
冥界の帝王がかっこよく登場すべき場面で転んだのだから、とても恥ずかしい。顔も茹でだこのようになっていることだろう。
だがここで見事に演じ切らなければ女将の芝居を台無しにしてしまう。
すべては演出だったのだと思わせればいいのだ。堂々と立ちあがり、踏ん張ってやろうと観客を見やった。
「あれは敵か味方か」
しかし観客の視線はお照のほうを向いていなかった。すばやく視線を追う。
「あんたに恨みはない。だけどあんたが死ねばきっとあいつは戻ってくる!」
舞台の中央に、女将を睨みすえた男が鉈を構えていた。見覚えある顔だ。トラの亭主である。
「新しい悪役の登場か?」
「おい、秋馬は身投げしないのか」
海で死ぬどころではなくなった秋馬が女将を守るように両手を広げた。
「なんだおまえは。勝手に舞台に上がってくるな」
「トラの亭主ではないか。女房はどうしたのだ」
蔦屋は顔を覚えていたようだ。
トラの名前が出て一瞬動揺した亭主だが、すぐに鉈を構え直した。
「出て行っちまった。だから……」
「事件を起こせば女房が帰ってくるとでも? 莫迦なことを考えるな」
「えい」
お照は背後から亭主に体当たりした。タコの扮装をしたお照は全身を拘束しているようなものだ。木刀も持てない。だから体当たりするしかなかった。
「お照さん、危ないわ」
女将の声と高月の悲鳴、秋馬と蔦屋が飛びすさる気配がした。舞台の上には戦える者がいない。女将の護衛もお照の護衛の藤堂もそばにはいない。
わたしがやるしかないのだ。
「なんだ、このタコは」
怒った亭主は鉈をぶんぶんと振り回す。綿をみっちりと詰めた着ぐるみのおかげで刃は深く食い込まない。
だがお照から攻撃することもできない。
観客がざわつき始めた。筋がおかしいと気づいたようだ。
亭主はちっと舌打ちすると観客に向かって吠えた。
「うっせーな。もうこうなったら誰だってかまわねえ。鉈で頭をかち割ってやるぞ」
「させてたまるか」
お照は亭主の目の前でぐるぐると回転した。
「そんなものがなんにな……ぐあ」
八本の足が男に次々に直撃した。鉈を持った手に、肩に、額にぶつかって鈍い音がした。
最初着ぐるみを作ったとき、綿でふかふかにしたまではよかったが、歩く度にタコの足がぴょんぴょんと跳ねてしまい、帝王の威厳に欠けるのが不満だった。だから足の先端に石を詰めて重石がわりにしたていたのを思い出したのだ。
亭主は鼻血を吹きながら後退った。
近づこうと踏み出した。だがまっすぐ歩けない。視界が歪んだ。ぐるぐる回りすぎたせいだ。どたんと大きな音を立ててまた尻を打った。
「いったあ」
「お照さん!」
突然女将が覆い被さってきたので驚いた。
女将の肩越しに鉈を掲げた亭主が見える。
「女将さん、どいてください!」
このままでは女将が斬りつけられる。そのときだった。
「やんごとなき貴婦人を助けにまいった。我こそは鬼頭鮫衛門!」
舞台に颯爽と駆け上がったのは鬼頭だ。
勇敢にも素手で亭主に立ち向かい、目にもとまらぬ早業で亭主の肩と脾腹を打撃し、鉈を取りあげる。
やんごとなき貴婦人とは高月のことで女将は端役に過ぎないのだが、観衆はそんなことにはおかまいなしだ。英雄の登場に拍手喝采である。
「待ってました!」
「ありゃ、すげえ。秋馬とは比べもんになんねえ所作だぜ」
鬼頭は亭主の両腕を後ろ手にがっしりと掴んだ。
「この世の秩序を乱す奴は、許すわけにはいかねえな。だが手が足りぬ。そこのタコ、後は頼むぞ!」
うなだれた亭主を引きずるようにして鬼頭は退場した。
「なんだかよくわかんねえが、見事な荒事だったなあ」
観衆は満足げだ。その後は、死に損なった秋馬と高月が蔦屋に斬りかかり、蔦屋は大袈裟な演技で舞台上をのたうち回る。
紐が切れたのか夜光石の首飾りがばらばらに飛び散った。首飾りの呪縛が解けて蔦屋はまっとうな人間になったわけだが、ここで終幕にできるような空気ではない。観客は興奮している。
抗う蔦屋をお照が海に引きずり込んで溺死させると、やんやの喝采だ。国家転覆を謀ったタコなのに、いつのまにか正義の味方になっていた。そのままお照と蔦屋は舞台からはけた。
藤堂がやって来て、鬼頭たちは番所へ行ったと告げた。
「鬼頭さまに怒られ申した。目を離すなど、護衛としてあるまじきと。もしお照どのになにかあれば拙者は死んで詫びねばなりませぬ」
切腹も辞さず、と言うその目には一点の曇りもない。
「まったく、武士ってのは困ったものね。すぐ死ぬ死ぬ言うんだから」
「なんと言われましても、それが武士なのです」
藤堂は楽屋でお照がタコを脱ぐのを手伝った。
鉈で裂かれたタコは脱ぎにくかった。
なかに単衣は着ているものの、じろじろと見られるのは恥ずかしい。
「あの、藤堂さん……」
「よかった、怪我はありませんね」
本気で心配してくれていたようだ。
蔦屋が顔を覗かせてお照を認めると軽く頭を下げた。
「お疲れさまでした」
「蔦屋さんこそ忙しいところをありがとうございました」
「さきほどの飛び入りは驚きましたねえ」
「あ、飛び入りが松平定信さまだったというのは内緒でお願いしますね」
蔦屋はにやにやと笑っている。
「さあて、どうしましょうかねえ。錦絵にするならこの蔦屋重三郎、一世一代に張り込んで、空摺りや雲母摺りで松平どのの雄姿を世に出したいところですが」
奢侈禁止令で町人文化を締め付けてきた松平定信への皮肉だろう。蔦屋は多くの才ある戯作者や絵師が筆を折るのを見てきたのだ。みずからも身上半減の憂き目にあっていた。
藤堂は反論しようにもできず、苦虫をかみつぶしたような表情に変わる。
「まあ、よしときましょう。もったいないんでね。ほかにもっと金をかけたい絵師がいますんで、そっちに使いましょう」
藤堂が安堵の息を吐いた。
もっと金をかけたい絵師とは秋馬のことだろうか。
しかし秋馬なら共通の知人でもある。なにかを含んだような言い方が気になった。
お照は尻餅をついた。舞台上の水溜まりで足を滑らせたのだ。自分が撒いた氷のせいなのだから腹を立てるわけにもいかない。
「なんだありゃ」
「飛び入りか」
観客の声がお照の含羞に爪を立てる。頬がかっと熱くなった。
冥界の帝王がかっこよく登場すべき場面で転んだのだから、とても恥ずかしい。顔も茹でだこのようになっていることだろう。
だがここで見事に演じ切らなければ女将の芝居を台無しにしてしまう。
すべては演出だったのだと思わせればいいのだ。堂々と立ちあがり、踏ん張ってやろうと観客を見やった。
「あれは敵か味方か」
しかし観客の視線はお照のほうを向いていなかった。すばやく視線を追う。
「あんたに恨みはない。だけどあんたが死ねばきっとあいつは戻ってくる!」
舞台の中央に、女将を睨みすえた男が鉈を構えていた。見覚えある顔だ。トラの亭主である。
「新しい悪役の登場か?」
「おい、秋馬は身投げしないのか」
海で死ぬどころではなくなった秋馬が女将を守るように両手を広げた。
「なんだおまえは。勝手に舞台に上がってくるな」
「トラの亭主ではないか。女房はどうしたのだ」
蔦屋は顔を覚えていたようだ。
トラの名前が出て一瞬動揺した亭主だが、すぐに鉈を構え直した。
「出て行っちまった。だから……」
「事件を起こせば女房が帰ってくるとでも? 莫迦なことを考えるな」
「えい」
お照は背後から亭主に体当たりした。タコの扮装をしたお照は全身を拘束しているようなものだ。木刀も持てない。だから体当たりするしかなかった。
「お照さん、危ないわ」
女将の声と高月の悲鳴、秋馬と蔦屋が飛びすさる気配がした。舞台の上には戦える者がいない。女将の護衛もお照の護衛の藤堂もそばにはいない。
わたしがやるしかないのだ。
「なんだ、このタコは」
怒った亭主は鉈をぶんぶんと振り回す。綿をみっちりと詰めた着ぐるみのおかげで刃は深く食い込まない。
だがお照から攻撃することもできない。
観客がざわつき始めた。筋がおかしいと気づいたようだ。
亭主はちっと舌打ちすると観客に向かって吠えた。
「うっせーな。もうこうなったら誰だってかまわねえ。鉈で頭をかち割ってやるぞ」
「させてたまるか」
お照は亭主の目の前でぐるぐると回転した。
「そんなものがなんにな……ぐあ」
八本の足が男に次々に直撃した。鉈を持った手に、肩に、額にぶつかって鈍い音がした。
最初着ぐるみを作ったとき、綿でふかふかにしたまではよかったが、歩く度にタコの足がぴょんぴょんと跳ねてしまい、帝王の威厳に欠けるのが不満だった。だから足の先端に石を詰めて重石がわりにしたていたのを思い出したのだ。
亭主は鼻血を吹きながら後退った。
近づこうと踏み出した。だがまっすぐ歩けない。視界が歪んだ。ぐるぐる回りすぎたせいだ。どたんと大きな音を立ててまた尻を打った。
「いったあ」
「お照さん!」
突然女将が覆い被さってきたので驚いた。
女将の肩越しに鉈を掲げた亭主が見える。
「女将さん、どいてください!」
このままでは女将が斬りつけられる。そのときだった。
「やんごとなき貴婦人を助けにまいった。我こそは鬼頭鮫衛門!」
舞台に颯爽と駆け上がったのは鬼頭だ。
勇敢にも素手で亭主に立ち向かい、目にもとまらぬ早業で亭主の肩と脾腹を打撃し、鉈を取りあげる。
やんごとなき貴婦人とは高月のことで女将は端役に過ぎないのだが、観衆はそんなことにはおかまいなしだ。英雄の登場に拍手喝采である。
「待ってました!」
「ありゃ、すげえ。秋馬とは比べもんになんねえ所作だぜ」
鬼頭は亭主の両腕を後ろ手にがっしりと掴んだ。
「この世の秩序を乱す奴は、許すわけにはいかねえな。だが手が足りぬ。そこのタコ、後は頼むぞ!」
うなだれた亭主を引きずるようにして鬼頭は退場した。
「なんだかよくわかんねえが、見事な荒事だったなあ」
観衆は満足げだ。その後は、死に損なった秋馬と高月が蔦屋に斬りかかり、蔦屋は大袈裟な演技で舞台上をのたうち回る。
紐が切れたのか夜光石の首飾りがばらばらに飛び散った。首飾りの呪縛が解けて蔦屋はまっとうな人間になったわけだが、ここで終幕にできるような空気ではない。観客は興奮している。
抗う蔦屋をお照が海に引きずり込んで溺死させると、やんやの喝采だ。国家転覆を謀ったタコなのに、いつのまにか正義の味方になっていた。そのままお照と蔦屋は舞台からはけた。
藤堂がやって来て、鬼頭たちは番所へ行ったと告げた。
「鬼頭さまに怒られ申した。目を離すなど、護衛としてあるまじきと。もしお照どのになにかあれば拙者は死んで詫びねばなりませぬ」
切腹も辞さず、と言うその目には一点の曇りもない。
「まったく、武士ってのは困ったものね。すぐ死ぬ死ぬ言うんだから」
「なんと言われましても、それが武士なのです」
藤堂は楽屋でお照がタコを脱ぐのを手伝った。
鉈で裂かれたタコは脱ぎにくかった。
なかに単衣は着ているものの、じろじろと見られるのは恥ずかしい。
「あの、藤堂さん……」
「よかった、怪我はありませんね」
本気で心配してくれていたようだ。
蔦屋が顔を覗かせてお照を認めると軽く頭を下げた。
「お疲れさまでした」
「蔦屋さんこそ忙しいところをありがとうございました」
「さきほどの飛び入りは驚きましたねえ」
「あ、飛び入りが松平定信さまだったというのは内緒でお願いしますね」
蔦屋はにやにやと笑っている。
「さあて、どうしましょうかねえ。錦絵にするならこの蔦屋重三郎、一世一代に張り込んで、空摺りや雲母摺りで松平どのの雄姿を世に出したいところですが」
奢侈禁止令で町人文化を締め付けてきた松平定信への皮肉だろう。蔦屋は多くの才ある戯作者や絵師が筆を折るのを見てきたのだ。みずからも身上半減の憂き目にあっていた。
藤堂は反論しようにもできず、苦虫をかみつぶしたような表情に変わる。
「まあ、よしときましょう。もったいないんでね。ほかにもっと金をかけたい絵師がいますんで、そっちに使いましょう」
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