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百、 楽日のタコ
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「今日が楽日ですわ。みなさま、楽しんでまいりましょう」
女将の鼓舞に応えるように舞台は順調に進んでいった。
半兵衛や鬼頭に演じてもらう予定だった男役は、彼らの不在でどうなるかと危ぶまれたが、お照の父や会所の忘八、堕胎医、千代の亭主などが穴埋めをしてくれたのでなんとか格好はついた。
それでも半兵衛の将軍役は見たかったとお照は思う。
「半兵衛さん、いつ帰ってくるんだろう」
嫁取りのために帰郷したのだとしたら、そのまま故郷に腰を据えてもおかしくない。もう二度と会うことはないのかもしれない。
日が暮れてから始まった舞台はたくさんの提灯と大きな篝火で照らされている。これまでとはまったく違った幽玄な雰囲気と高月の妖艶さに観客はすっかり酩酊していた。
胸元で輝く首飾りはまるで天上の星をすべて集めたようにきらきらと、いや、ぎらりぎらりと異様な輝きを放つ。
高月は弥勒菩薩そのものに見えた。
無実の罪で獄死寸前だったやんごとなき貴婦人は弥勒の力を得て英雄になった。親の仇を追ううちに国家転覆の企みに辿り着いたやんごとなき貴婦人が視力を奪われるところから本日の舞台は始まる。
敵役を演じるのは蔦屋重三郎である。楽日になってとうとう真の姿を現した、という筋書きである。
「いよ、待ってました!」
観客が囃したてる。
この役は最初は鬼頭にやってもらおうと女将は考えていたそうだ。当然のこと、あっさりと断られた。あの堅物が芝居など、ましてや国家転覆を謀る悪役などやるわけがない。
というわけで蔦屋の出番である。
最初、二の足を踏んでいた蔦屋に「吉原のためなのだから吉原者のあなたは一肌も二肌も脱ぎなさい」と斉藤十郎兵衛が背中を押した。
「いいですか。この場面は錦絵にして後日売り出しますから、みなさん、どうぞよろしく、お買い求め願いますよ」
などとそつなく宣伝を挟みながら、蔦屋は高月と対峙する。
このあと、高月は蔦屋を斬ろうとするが叶わず、失明してしまうのである。
「幕を!」
女将が指示を出した。
高月の刃が跳ね返された直後である。
指示通りに、黒子に扮した白牛とお照が動いた。
提灯に暗幕がかけられ、篝火にはすっぽりと蓋が被さった。舞台を照らしていた灯りが消える。
とはいえ、吉原は四方八方が明るい。屋根で月明かりを遮られた舞台だけが場違いのように暗く沈むが、高月と蔦屋の姿はぼんやりと見えている。
薄闇に浮かびあがるのは蔦屋の首回りだ。緑がかった白い光。
「おい、なんだあの怪しい首飾りは」
高月の刃を跳ね返したものの正体である。
お照は蔦屋に近寄り、背後から龕灯で高月を照らす。怪しい首飾りから光線が出たという演出だ。
「ああああ」
高月が両手で目を押さえて舞台上を転げる。提灯の幕を取り、篝火の蓋をはずすと舞台が明るくなる。そのときにはもう高月の首には首飾りはない。黒子のお照が持って楽屋に戻る。
「忙しい忙しい」
タコに着替えていると、白牛がやってきた。
「あの怪しく光る首飾りはなんだい。幽魂みたいじゃないか」
「女将さんが作ったんですよ。夜光石で」
白蓮教の地下室から女将が勝手に持って帰ってきたと知ったときは、何を考えているのかと思った。
「金剛石と違って加工しやすいわ」
と女将は錐で穴を開け、紐で結んで、実に雑な首飾りを作り上げた。
二十万両の首飾りとは雲泥の差だった。だがその粗雑さがかえって不気味に見えるのだから不思議なものだ。
お照の護衛の藤堂も入ってきた。タコの着ぐるみ姿のお照を見て、ぷっと吹き出す。
「なんだい、その格好は。祭の山車みたいじゃないか」
「笑わないでください、藤堂さん。これでも死者の国の帝王なんですよ」
弥勒菩薩の庇護を失って尋常な女に戻ってしまったやんごとなき貴婦人はやんごとなき若君と出会い、恋をして、ふたたび悪を倒すために夫婦で立ちあがる。
悪人を死者の国に蹴落とすタコが最期に登場する。お照が演じるタコである。悪人を成敗すると言えば聞こえはいいが、その実は国家転覆を企てたりする。女将は「タコの革命」と言っていた。最期はやんごとなき貴婦人に斬り殺される。
女将の思いを投影しているのだろうが、お照の脳裏には松平定信がちらつく。
かぶりを振って邪念を払い、藤堂に声をかけた。
「氷、砕いておいてくれました?」
「ああ、これでどうだい」
盥には氷の礫がいっぱいである。
「ありがとう。けっこうあるね」
「ぼくと真琴も手伝うよ」
シャルルと真琴が氷を摘まんでそっと口に入れていても見て見ぬふりをする。
お照は舞台の屋根にそっと移動した。能舞台とは異なり、傾斜のない屋根なので人が載ることも歩くこともできる。屋根から氷を撒くことも。
舞台に夢中になっている観客は屋根の上に大勢の人がいるなど考えもしない。
「さあ、肝を冷やしてもらいましょうか」
冥界からのタコが現れる先触れとして、氷を撒こうと言い出したのはお照だった。
夏に氷を求めると少しばかり高直である。だが衣装はすべて古着の寄せ集めで済ませ、火玉屋への弁償も終わらせた。白蓮教徒も霧散してしまったし、定信は失脚したし、秋か冬には女将親子は日本を去るのだ。
吝嗇なんか馬鹿馬鹿しい。
「えーい」
お照と藤堂、白牛とこどもたちは手分けをして氷の粒を観客の頭に降らせた。
「うわ、冷てえな」
「なんだなんだ」
「雪か?」
観客が驚いたのも初めだけだった。
「こりゃ、気持ちいいや。もっとくれ」
「蒸し暑いからちょうどいいな」
「よ、女将さん、待ってました!」
舞台上では、盲目の高月と夫婦役の秋馬が逃げた蔦屋を追って大海に船でこぎ出す。
そこに予言者役の女将が現れ、命を差し出せば蔦屋を倒す手段を教えてやろうと秋馬に持ちかける。
秋馬は大海に身を投じる決意をする。とても緊迫した場面のはずなのに、げらげらと笑い声が聞こえてくる。
「船宿の主人が船を捨てるのか」
「主人は女房のほうだよ!」
「万寿屋が暗礁に乗り上げちまうぞ」
「うっせーぞ。おまえらもう船に乗せねーからな!」
観客の冷やかしにいちいち反応するものだから、秋馬はなかなか身を投げることができない。秋馬の投身を待つことなく、囃子方による不気味な曲の演奏が始まった。死者の国の扉が開く。
「さて、出番だ」
屋根から大きなタコが飛び降りてきたら、観客は肝を潰すだろう。
お照はタコの着ぐるみ姿で、暗闇から明るい舞台に身をひるがえした。
女将の鼓舞に応えるように舞台は順調に進んでいった。
半兵衛や鬼頭に演じてもらう予定だった男役は、彼らの不在でどうなるかと危ぶまれたが、お照の父や会所の忘八、堕胎医、千代の亭主などが穴埋めをしてくれたのでなんとか格好はついた。
それでも半兵衛の将軍役は見たかったとお照は思う。
「半兵衛さん、いつ帰ってくるんだろう」
嫁取りのために帰郷したのだとしたら、そのまま故郷に腰を据えてもおかしくない。もう二度と会うことはないのかもしれない。
日が暮れてから始まった舞台はたくさんの提灯と大きな篝火で照らされている。これまでとはまったく違った幽玄な雰囲気と高月の妖艶さに観客はすっかり酩酊していた。
胸元で輝く首飾りはまるで天上の星をすべて集めたようにきらきらと、いや、ぎらりぎらりと異様な輝きを放つ。
高月は弥勒菩薩そのものに見えた。
無実の罪で獄死寸前だったやんごとなき貴婦人は弥勒の力を得て英雄になった。親の仇を追ううちに国家転覆の企みに辿り着いたやんごとなき貴婦人が視力を奪われるところから本日の舞台は始まる。
敵役を演じるのは蔦屋重三郎である。楽日になってとうとう真の姿を現した、という筋書きである。
「いよ、待ってました!」
観客が囃したてる。
この役は最初は鬼頭にやってもらおうと女将は考えていたそうだ。当然のこと、あっさりと断られた。あの堅物が芝居など、ましてや国家転覆を謀る悪役などやるわけがない。
というわけで蔦屋の出番である。
最初、二の足を踏んでいた蔦屋に「吉原のためなのだから吉原者のあなたは一肌も二肌も脱ぎなさい」と斉藤十郎兵衛が背中を押した。
「いいですか。この場面は錦絵にして後日売り出しますから、みなさん、どうぞよろしく、お買い求め願いますよ」
などとそつなく宣伝を挟みながら、蔦屋は高月と対峙する。
このあと、高月は蔦屋を斬ろうとするが叶わず、失明してしまうのである。
「幕を!」
女将が指示を出した。
高月の刃が跳ね返された直後である。
指示通りに、黒子に扮した白牛とお照が動いた。
提灯に暗幕がかけられ、篝火にはすっぽりと蓋が被さった。舞台を照らしていた灯りが消える。
とはいえ、吉原は四方八方が明るい。屋根で月明かりを遮られた舞台だけが場違いのように暗く沈むが、高月と蔦屋の姿はぼんやりと見えている。
薄闇に浮かびあがるのは蔦屋の首回りだ。緑がかった白い光。
「おい、なんだあの怪しい首飾りは」
高月の刃を跳ね返したものの正体である。
お照は蔦屋に近寄り、背後から龕灯で高月を照らす。怪しい首飾りから光線が出たという演出だ。
「ああああ」
高月が両手で目を押さえて舞台上を転げる。提灯の幕を取り、篝火の蓋をはずすと舞台が明るくなる。そのときにはもう高月の首には首飾りはない。黒子のお照が持って楽屋に戻る。
「忙しい忙しい」
タコに着替えていると、白牛がやってきた。
「あの怪しく光る首飾りはなんだい。幽魂みたいじゃないか」
「女将さんが作ったんですよ。夜光石で」
白蓮教の地下室から女将が勝手に持って帰ってきたと知ったときは、何を考えているのかと思った。
「金剛石と違って加工しやすいわ」
と女将は錐で穴を開け、紐で結んで、実に雑な首飾りを作り上げた。
二十万両の首飾りとは雲泥の差だった。だがその粗雑さがかえって不気味に見えるのだから不思議なものだ。
お照の護衛の藤堂も入ってきた。タコの着ぐるみ姿のお照を見て、ぷっと吹き出す。
「なんだい、その格好は。祭の山車みたいじゃないか」
「笑わないでください、藤堂さん。これでも死者の国の帝王なんですよ」
弥勒菩薩の庇護を失って尋常な女に戻ってしまったやんごとなき貴婦人はやんごとなき若君と出会い、恋をして、ふたたび悪を倒すために夫婦で立ちあがる。
悪人を死者の国に蹴落とすタコが最期に登場する。お照が演じるタコである。悪人を成敗すると言えば聞こえはいいが、その実は国家転覆を企てたりする。女将は「タコの革命」と言っていた。最期はやんごとなき貴婦人に斬り殺される。
女将の思いを投影しているのだろうが、お照の脳裏には松平定信がちらつく。
かぶりを振って邪念を払い、藤堂に声をかけた。
「氷、砕いておいてくれました?」
「ああ、これでどうだい」
盥には氷の礫がいっぱいである。
「ありがとう。けっこうあるね」
「ぼくと真琴も手伝うよ」
シャルルと真琴が氷を摘まんでそっと口に入れていても見て見ぬふりをする。
お照は舞台の屋根にそっと移動した。能舞台とは異なり、傾斜のない屋根なので人が載ることも歩くこともできる。屋根から氷を撒くことも。
舞台に夢中になっている観客は屋根の上に大勢の人がいるなど考えもしない。
「さあ、肝を冷やしてもらいましょうか」
冥界からのタコが現れる先触れとして、氷を撒こうと言い出したのはお照だった。
夏に氷を求めると少しばかり高直である。だが衣装はすべて古着の寄せ集めで済ませ、火玉屋への弁償も終わらせた。白蓮教徒も霧散してしまったし、定信は失脚したし、秋か冬には女将親子は日本を去るのだ。
吝嗇なんか馬鹿馬鹿しい。
「えーい」
お照と藤堂、白牛とこどもたちは手分けをして氷の粒を観客の頭に降らせた。
「うわ、冷てえな」
「なんだなんだ」
「雪か?」
観客が驚いたのも初めだけだった。
「こりゃ、気持ちいいや。もっとくれ」
「蒸し暑いからちょうどいいな」
「よ、女将さん、待ってました!」
舞台上では、盲目の高月と夫婦役の秋馬が逃げた蔦屋を追って大海に船でこぎ出す。
そこに予言者役の女将が現れ、命を差し出せば蔦屋を倒す手段を教えてやろうと秋馬に持ちかける。
秋馬は大海に身を投じる決意をする。とても緊迫した場面のはずなのに、げらげらと笑い声が聞こえてくる。
「船宿の主人が船を捨てるのか」
「主人は女房のほうだよ!」
「万寿屋が暗礁に乗り上げちまうぞ」
「うっせーぞ。おまえらもう船に乗せねーからな!」
観客の冷やかしにいちいち反応するものだから、秋馬はなかなか身を投げることができない。秋馬の投身を待つことなく、囃子方による不気味な曲の演奏が始まった。死者の国の扉が開く。
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