江戸のアントワネット

あかいかかぽ

文字の大きさ
102 / 127

百二、 半兵衛の帰還

しおりを挟む
「ところで、いいもん拾いました。これは使えそうだ」

 蔦屋が懐から出したのは夜光石の欠片。

「どうするんですか」

「粉末にして顔料にしますよ。昼間は尋常な錦絵、夜になるとぼんやりと幽霊が浮かび上がるってのはどうです、面白くありませんか。で、こいつはどこで手に入れられるのかな。舶来みたいですが、まさか抜け荷?」

 お照は思わず笑っていた。蔦屋はこうでなくちゃと思う。

「女将さんに聞いてくださいね」

 万雷の拍手が聞こえてきた。芝居は終わったのだ。
 蔦屋が腰を上げた。

「無事に終わったようだし、ちょっと出掛けて来ます」

「え、どちらへ」

「トラさんの行方が気になりますから。亭主に聞いても無駄だろうけど、まあ、これもご縁でしょう」

 蔦屋には面倒見のいいところがある。番屋に行くなら自分もと連れ立って玄関口に降りていくと、そこに思わぬ顔があった。

「半兵衛さん……!」

 日焼けして幾分逞しくなっている。髪も町人髷だ。

「やあ、お照。いまついたところだ。もう少し早く帰ってくればよかったよ。女将の俄芝居、見逃しちまった」

「あの……」

 お元気でしたか。などと聞くのも間抜けだ。祝言を挙げたのですか。などと聞くのは野暮だ。

「あの、鬼頭さまは番屋におられますか」

「ついさっき罪人らしいのを連れて駕籠で小伝馬町に向かわれたが」

 即入牢と聞いて蔦屋は落胆し、踵を返した。

「じゃあ、万寿屋に行って宴でしめましょうか。お照さんも、半兵衛さん……は同心の旦那ですよね、よかったらどうです」

「遠慮しておこう。おれは女将さんに用があるだけでね」

 蔦屋を袖にした半兵衛は颯爽と階段を上っていく。
 苦笑する蔦屋にもどかしい会釈をすますや、お照は半兵衛の背中を追った。

「いまごろ現れるなんて間抜けな人ね」

「面目ない。いろいろと忙しくて」

 女将の第一声に頭を搔く半兵衛。女将は高月と白牛、秋馬をまじえて談笑しているところだった。

「で、なんの御用?」

「実はこちら、公儀から預かってきました」

 半兵衛が差し出した文をに目を通した女将はそのまましばらく動かなかった。
 なにが書いてあるのだろう。

「女将さん……?」

「お照さん、ちょっと読み上げていただけないかしら」

「あ……!」

 女将は漢字が読めなかったのだ。ついきょろきょろと周囲を見てしまった。シャルルがいない。

「シャルルなら奥の間で真琴さんとすごろくで遊んでます。でもシャルルには無理よ。難しい字がたくさんあるもの。ねえ、お照さん、お願い」
 
 ざっと文面を眺めた。達筆で目が滑る。文末に将軍家斉の名があった。

「おれが読もうか?」

 半兵衛が文に手を伸ばした。親切にも代読をしてくれようとしたのに、半兵衛の手指がお照の手の甲に触れたせいで喉がひくっと痙攣した。声が勝手に出た。

「あ、あのう。家斉さまからのお招きで、来月の神田祭にお城に来いと……!」

 高月がくすくすと笑う。
 バレているとわかると、頭がかっと熱くなる。

「神田祭……?」

 女将はきょとんとしている。

「今年は神田明神の祭があるんです。九月十五日の払暁ふつぎょうから一日がかりで神輿みこし山車だし附祭つけまつりが町を練り歩いて、それで──」

 二倍の早口で舌が動いた。半兵衛のほうに意識が向くのを懸命にこらえる。

「神田祭に招待ですって?」

「神田祭と山王祭はお城の中まで練り歩いちゃう特別なお祭りなんですよ。公方さまが上覧なさるんです。きっと女将さんも同じ上覧席で一緒に楽しみましょうってことだと思うんですけど……!」

 息が切れてきた。もう一度文面に目をやる。女将だけではなく、シャルルとお照まで招くと書いてある。

「信じられない。また気絶してしまいそう」

 女将は顔をしかめた。

「神田祭ですって。神田祭なんかどうだっていいわ。船のことは一言も書いてないのかしら」

「ああ……」

 女将が不機嫌になった意味がわかった。
 公儀からの文と聞いて、帰国の船が整ったという知らせだと思ったのだ。

「……いえ、その件は一言も……。ご招待を考えたら、神田祭のあとになるのではないでしょうか。お手配の進み具合などは当日直截伺ってみてはいかがでしょうか」

 女将は小さく息を吐いた。

「行くしかないわね。もしショーグンがわたくしたちをアシドメしようとしているなら……いいえ、なんでもないわ」

 感情を押し殺すように、女将は笑顔を貼り付けて微笑む。

「招待は受けますよね、女将さん」

 半兵衛が念を押すと、

「コクヒンとして伺うわ」

 女将は頷いた。

「女将さん、お先に行ってますよ」

 高月と白牛が腰をあげた。蔦屋が設けた宴に向かうという。

「かならず来てくださいね、女将さん」高月が念を押す。「組物くみものにして売りたい錦絵があるんですって。見てもらいたい下絵があるとか」

「半兵衛さんと積もる話が済んだらうかがわせていただくわ。繰り返しになりますけど、今日まで三回の興行、成功したのは、怯まずに舞台に立ってくれたあなたたちのおかげよ。本当にありがとう。いい記念になりましたわ」

「それはこちらの台詞。女郎のわちきにやんごとない身分の役をありがとうございんした。たいへん楽しゅうございました」

 女郎の高月がやんごとない身分の役を演じるのは一種のなりすましと言える。高月の言葉には吉原ありんす国に住む者の自負が滲んでいた。

 高月たちを見送ると、女将は半兵衛に視線をめぐらした。

「ところで、ずいぶんとしばらくぶりですこと。ご病気でいらしたの?」

「いやあ、体だけは丈夫にできてまして。上から命令があって江戸を離れていました。しかし驚きましたよ。戻ってきたら松平定信さまが老中首座から転落していなさるとは」

 お照は疑問に思った。

「半兵衛さんは松平さまの命令で動いていたのでしょう?」

 抜け荷の首謀者たる松平定信に命じられて江戸を離れていたのだとしたら、その命令とは関係者の口封じではないかと恐ろしい考えが浮かんだ。

「抜け荷の件は多少関わっておりますがもう終わりました。それに今回の遠出は松平さまの命ではないので、気楽に羽を伸ばすことができましたよ」

 どこか含みのある言い方と安心させるような微笑みがお照のなにかに触れた。

「お嫁さんをつれて戻ってらしたんですよね」

「嫁ですって?」

 女将の琴線にも触れたようだ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~

bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

処理中です...