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百二、 半兵衛の帰還
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「ところで、いいもん拾いました。これは使えそうだ」
蔦屋が懐から出したのは夜光石の欠片。
「どうするんですか」
「粉末にして顔料にしますよ。昼間は尋常な錦絵、夜になるとぼんやりと幽霊が浮かび上がるってのはどうです、面白くありませんか。で、こいつはどこで手に入れられるのかな。舶来みたいですが、まさか抜け荷?」
お照は思わず笑っていた。蔦屋はこうでなくちゃと思う。
「女将さんに聞いてくださいね」
万雷の拍手が聞こえてきた。芝居は終わったのだ。
蔦屋が腰を上げた。
「無事に終わったようだし、ちょっと出掛けて来ます」
「え、どちらへ」
「トラさんの行方が気になりますから。亭主に聞いても無駄だろうけど、まあ、これもご縁でしょう」
蔦屋には面倒見のいいところがある。番屋に行くなら自分もと連れ立って玄関口に降りていくと、そこに思わぬ顔があった。
「半兵衛さん……!」
日焼けして幾分逞しくなっている。髪も町人髷だ。
「やあ、お照。いまついたところだ。もう少し早く帰ってくればよかったよ。女将の俄芝居、見逃しちまった」
「あの……」
お元気でしたか。などと聞くのも間抜けだ。祝言を挙げたのですか。などと聞くのは野暮だ。
「あの、鬼頭さまは番屋におられますか」
「ついさっき罪人らしいのを連れて駕籠で小伝馬町に向かわれたが」
即入牢と聞いて蔦屋は落胆し、踵を返した。
「じゃあ、万寿屋に行って宴でしめましょうか。お照さんも、半兵衛さん……は同心の旦那ですよね、よかったらどうです」
「遠慮しておこう。おれは女将さんに用があるだけでね」
蔦屋を袖にした半兵衛は颯爽と階段を上っていく。
苦笑する蔦屋にもどかしい会釈をすますや、お照は半兵衛の背中を追った。
「いまごろ現れるなんて間抜けな人ね」
「面目ない。いろいろと忙しくて」
女将の第一声に頭を搔く半兵衛。女将は高月と白牛、秋馬をまじえて談笑しているところだった。
「で、なんの御用?」
「実はこちら、公儀から預かってきました」
半兵衛が差し出した文をに目を通した女将はそのまましばらく動かなかった。
なにが書いてあるのだろう。
「女将さん……?」
「お照さん、ちょっと読み上げていただけないかしら」
「あ……!」
女将は漢字が読めなかったのだ。ついきょろきょろと周囲を見てしまった。シャルルがいない。
「シャルルなら奥の間で真琴さんとすごろくで遊んでます。でもシャルルには無理よ。難しい字がたくさんあるもの。ねえ、お照さん、お願い」
ざっと文面を眺めた。達筆で目が滑る。文末に将軍家斉の名があった。
「おれが読もうか?」
半兵衛が文に手を伸ばした。親切にも代読をしてくれようとしたのに、半兵衛の手指がお照の手の甲に触れたせいで喉がひくっと痙攣した。声が勝手に出た。
「あ、あのう。家斉さまからのお招きで、来月の神田祭にお城に来いと……!」
高月がくすくすと笑う。
バレているとわかると、頭がかっと熱くなる。
「神田祭……?」
女将はきょとんとしている。
「今年は神田明神の祭があるんです。九月十五日の払暁から一日がかりで神輿と山車と附祭が町を練り歩いて、それで──」
二倍の早口で舌が動いた。半兵衛のほうに意識が向くのを懸命にこらえる。
「神田祭に招待ですって?」
「神田祭と山王祭はお城の中まで練り歩いちゃう特別なお祭りなんですよ。公方さまが上覧なさるんです。きっと女将さんも同じ上覧席で一緒に楽しみましょうってことだと思うんですけど……!」
息が切れてきた。もう一度文面に目をやる。女将だけではなく、シャルルとお照まで招くと書いてある。
「信じられない。また気絶してしまいそう」
女将は顔をしかめた。
「神田祭ですって。神田祭なんかどうだっていいわ。船のことは一言も書いてないのかしら」
「ああ……」
女将が不機嫌になった意味がわかった。
公儀からの文と聞いて、帰国の船が整ったという知らせだと思ったのだ。
「……いえ、その件は一言も……。ご招待を考えたら、神田祭のあとになるのではないでしょうか。お手配の進み具合などは当日直截伺ってみてはいかがでしょうか」
女将は小さく息を吐いた。
「行くしかないわね。もしショーグンがわたくしたちをアシドメしようとしているなら……いいえ、なんでもないわ」
感情を押し殺すように、女将は笑顔を貼り付けて微笑む。
「招待は受けますよね、女将さん」
半兵衛が念を押すと、
「コクヒンとして伺うわ」
女将は頷いた。
「女将さん、お先に行ってますよ」
高月と白牛が腰をあげた。蔦屋が設けた宴に向かうという。
「かならず来てくださいね、女将さん」高月が念を押す。「組物にして売りたい錦絵があるんですって。見てもらいたい下絵があるとか」
「半兵衛さんと積もる話が済んだらうかがわせていただくわ。繰り返しになりますけど、今日まで三回の興行、成功したのは、怯まずに舞台に立ってくれたあなたたちのおかげよ。本当にありがとう。いい記念になりましたわ」
「それはこちらの台詞。女郎のわちきにやんごとない身分の役をありがとうございんした。たいへん楽しゅうございました」
女郎の高月がやんごとない身分の役を演じるのは一種のなりすましと言える。高月の言葉には吉原ありんす国に住む者の自負が滲んでいた。
高月たちを見送ると、女将は半兵衛に視線をめぐらした。
「ところで、ずいぶんとしばらくぶりですこと。ご病気でいらしたの?」
「いやあ、体だけは丈夫にできてまして。上から命令があって江戸を離れていました。しかし驚きましたよ。戻ってきたら松平定信さまが老中首座から転落していなさるとは」
お照は疑問に思った。
「半兵衛さんは松平さまの命令で動いていたのでしょう?」
抜け荷の首謀者たる松平定信に命じられて江戸を離れていたのだとしたら、その命令とは関係者の口封じではないかと恐ろしい考えが浮かんだ。
「抜け荷の件は多少関わっておりますがもう終わりました。それに今回の遠出は松平さまの命ではないので、気楽に羽を伸ばすことができましたよ」
どこか含みのある言い方と安心させるような微笑みがお照のなにかに触れた。
「お嫁さんをつれて戻ってらしたんですよね」
「嫁ですって?」
女将の琴線にも触れたようだ。
蔦屋が懐から出したのは夜光石の欠片。
「どうするんですか」
「粉末にして顔料にしますよ。昼間は尋常な錦絵、夜になるとぼんやりと幽霊が浮かび上がるってのはどうです、面白くありませんか。で、こいつはどこで手に入れられるのかな。舶来みたいですが、まさか抜け荷?」
お照は思わず笑っていた。蔦屋はこうでなくちゃと思う。
「女将さんに聞いてくださいね」
万雷の拍手が聞こえてきた。芝居は終わったのだ。
蔦屋が腰を上げた。
「無事に終わったようだし、ちょっと出掛けて来ます」
「え、どちらへ」
「トラさんの行方が気になりますから。亭主に聞いても無駄だろうけど、まあ、これもご縁でしょう」
蔦屋には面倒見のいいところがある。番屋に行くなら自分もと連れ立って玄関口に降りていくと、そこに思わぬ顔があった。
「半兵衛さん……!」
日焼けして幾分逞しくなっている。髪も町人髷だ。
「やあ、お照。いまついたところだ。もう少し早く帰ってくればよかったよ。女将の俄芝居、見逃しちまった」
「あの……」
お元気でしたか。などと聞くのも間抜けだ。祝言を挙げたのですか。などと聞くのは野暮だ。
「あの、鬼頭さまは番屋におられますか」
「ついさっき罪人らしいのを連れて駕籠で小伝馬町に向かわれたが」
即入牢と聞いて蔦屋は落胆し、踵を返した。
「じゃあ、万寿屋に行って宴でしめましょうか。お照さんも、半兵衛さん……は同心の旦那ですよね、よかったらどうです」
「遠慮しておこう。おれは女将さんに用があるだけでね」
蔦屋を袖にした半兵衛は颯爽と階段を上っていく。
苦笑する蔦屋にもどかしい会釈をすますや、お照は半兵衛の背中を追った。
「いまごろ現れるなんて間抜けな人ね」
「面目ない。いろいろと忙しくて」
女将の第一声に頭を搔く半兵衛。女将は高月と白牛、秋馬をまじえて談笑しているところだった。
「で、なんの御用?」
「実はこちら、公儀から預かってきました」
半兵衛が差し出した文をに目を通した女将はそのまましばらく動かなかった。
なにが書いてあるのだろう。
「女将さん……?」
「お照さん、ちょっと読み上げていただけないかしら」
「あ……!」
女将は漢字が読めなかったのだ。ついきょろきょろと周囲を見てしまった。シャルルがいない。
「シャルルなら奥の間で真琴さんとすごろくで遊んでます。でもシャルルには無理よ。難しい字がたくさんあるもの。ねえ、お照さん、お願い」
ざっと文面を眺めた。達筆で目が滑る。文末に将軍家斉の名があった。
「おれが読もうか?」
半兵衛が文に手を伸ばした。親切にも代読をしてくれようとしたのに、半兵衛の手指がお照の手の甲に触れたせいで喉がひくっと痙攣した。声が勝手に出た。
「あ、あのう。家斉さまからのお招きで、来月の神田祭にお城に来いと……!」
高月がくすくすと笑う。
バレているとわかると、頭がかっと熱くなる。
「神田祭……?」
女将はきょとんとしている。
「今年は神田明神の祭があるんです。九月十五日の払暁から一日がかりで神輿と山車と附祭が町を練り歩いて、それで──」
二倍の早口で舌が動いた。半兵衛のほうに意識が向くのを懸命にこらえる。
「神田祭に招待ですって?」
「神田祭と山王祭はお城の中まで練り歩いちゃう特別なお祭りなんですよ。公方さまが上覧なさるんです。きっと女将さんも同じ上覧席で一緒に楽しみましょうってことだと思うんですけど……!」
息が切れてきた。もう一度文面に目をやる。女将だけではなく、シャルルとお照まで招くと書いてある。
「信じられない。また気絶してしまいそう」
女将は顔をしかめた。
「神田祭ですって。神田祭なんかどうだっていいわ。船のことは一言も書いてないのかしら」
「ああ……」
女将が不機嫌になった意味がわかった。
公儀からの文と聞いて、帰国の船が整ったという知らせだと思ったのだ。
「……いえ、その件は一言も……。ご招待を考えたら、神田祭のあとになるのではないでしょうか。お手配の進み具合などは当日直截伺ってみてはいかがでしょうか」
女将は小さく息を吐いた。
「行くしかないわね。もしショーグンがわたくしたちをアシドメしようとしているなら……いいえ、なんでもないわ」
感情を押し殺すように、女将は笑顔を貼り付けて微笑む。
「招待は受けますよね、女将さん」
半兵衛が念を押すと、
「コクヒンとして伺うわ」
女将は頷いた。
「女将さん、お先に行ってますよ」
高月と白牛が腰をあげた。蔦屋が設けた宴に向かうという。
「かならず来てくださいね、女将さん」高月が念を押す。「組物にして売りたい錦絵があるんですって。見てもらいたい下絵があるとか」
「半兵衛さんと積もる話が済んだらうかがわせていただくわ。繰り返しになりますけど、今日まで三回の興行、成功したのは、怯まずに舞台に立ってくれたあなたたちのおかげよ。本当にありがとう。いい記念になりましたわ」
「それはこちらの台詞。女郎のわちきにやんごとない身分の役をありがとうございんした。たいへん楽しゅうございました」
女郎の高月がやんごとない身分の役を演じるのは一種のなりすましと言える。高月の言葉には吉原ありんす国に住む者の自負が滲んでいた。
高月たちを見送ると、女将は半兵衛に視線をめぐらした。
「ところで、ずいぶんとしばらくぶりですこと。ご病気でいらしたの?」
「いやあ、体だけは丈夫にできてまして。上から命令があって江戸を離れていました。しかし驚きましたよ。戻ってきたら松平定信さまが老中首座から転落していなさるとは」
お照は疑問に思った。
「半兵衛さんは松平さまの命令で動いていたのでしょう?」
抜け荷の首謀者たる松平定信に命じられて江戸を離れていたのだとしたら、その命令とは関係者の口封じではないかと恐ろしい考えが浮かんだ。
「抜け荷の件は多少関わっておりますがもう終わりました。それに今回の遠出は松平さまの命ではないので、気楽に羽を伸ばすことができましたよ」
どこか含みのある言い方と安心させるような微笑みがお照のなにかに触れた。
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