江戸のアントワネット

あかいかかぽ

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百三、 能役者の絵

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「あらまあ。そういうことでしたの、お嫁さんを……まああ」

 今年一番うれしいことを耳にしたと言わんばかりに、女将は目を輝かせる。

「いえ、あの、……まあ、嫁と言ったら嫁なんですが」

 半兵衛は気まずそうに笑った。

 それはそうだろう。ずっと女将に気がある素振りをしていたくせに、ある日突然姿を消して田舎で祝言をあげて、何食わぬ顔で戻ってきたのだから。

「お祝いはどういったものがよいのかしら、ねえ、お照さん」

 女将は半兵衛の幸せを手放しで祝福できる善性を持ち合わせている。

「お屋敷を一軒建てて差し上げたいけれど、いまは無理ね。フランスを奪還したアカツキにはロレーヌ地方にコテージを……」

「外国に屋敷があってもしょうがないや」

 半兵衛は照れ臭そうに頭を掻いた。
 見ていられない。お照はぷいと横を向いた。女将のように優しい気持ちにはなれそうもない。

「今度、お嫁さんを連れて耕地屋にいらっしゃいな。桃のタルトとマドレーヌを作って差し上げますわ。お照さんはだいぶ腕をあげましたのよ」

 どうやら女将はわたしに作らせる気のようだ。

「ええ、そのうちに。今夜はこれで」

 半兵衛は逃げるように席を立った。
 見送りに出ると、茶屋の前にはものものしい数の護衛が立っている。
 蔦屋の宴席においても護衛が座敷の四隅で目を光らせ、廊下に立ち、万寿屋のおもてを見張っていたが、女将に言わせると「しばらくすれば気にならなくなるものよ。だんだんと樹木や家具のように見えてくるわ」なのだが、それもどうかと思う。

 蔦屋が見せてくれた組絵の下絵は二種類。
 ひとつは秋馬の筆によるもので『美人揃踏』と題がついている。女将と高月と白牛が描かれていて三枚を合わせるとひとつの大きな絵になる。
 なかなかの力作だったが女将が気に入ったのはもうひとつのほうだった。

「こちらはどなたがお描きになったの」

 蔦屋はにこやかに答える。

「これから売り出そうと考えてる絵師なんですがね。どうです、面白いでしょう」

 構図はよく似ている。女将と高月と白牛という題材も一緒だ。だが秋馬と決定的に異なる特徴があった。
 秋馬は美人を美人の型に押し込めて描く。だから三人の顔つきはそっくりだった。髪型や衣装で個性を出そうとしていた。
 だがもうひとつのほうは、これを美人と称してよいものかと首を捻ってしまう。
 秋馬も黙っていられなかったようだ。

「でも女将さん、こんな描かれ方をしたら嫌じゃないですか。目が垂れてるし顎が少し前に出てるし」

 白牛はというと実物の二倍は肥えている。高月はそっくりではあるが、どこか人形のようだ。
 シャルルは覗きこんでくすくすと笑った。

「お母さまはこんなに不細工じゃないけど、でも特徴は掴んでるよね。風刺絵みたいだ」

「ええ、面白いわ。高月花魁を引き立てるためにわたくしと白牛さんが左右にいるのね」

「いやあ、そう言われちまうと。わかりやした。これはなかったことに」

 蔦屋は下絵をそそくさと引っ込めた。相当の自信をもって披露したようで、その肩が落ちていた。
 お照は思わず声を出していた。

「美人画には向かないかもしれませんが役者絵ならいいかもしれませんね」

「役者絵」

 蔦屋がはっと顔を上げた。

「役どころを誇張して描いたらこうなるんじゃないでしょうか。ただの美人画にはおさまらなくなりますもん」

「耕書堂さんは役者絵は出さないんですよ」

 秋馬が口を尖らせる。嫉妬しているようだ。

「出さないと決めてるわけじゃないが。そうですねえ。いいかもしんねえ」

「……その絵師のために役者絵にまで手を広げるんですかい」

「秋馬さん、いい画ならなんでもかまわないんですよ」

 蔦屋がにやりと笑む。

「なんでも、はないでしょう。悪い癖だ、あんたの。そうやって反骨を気取るから公儀に目を付けられるんだ。おれは蔦重さんが心配だよ」

 秋馬が言うとおり、蔦屋は幕府への反骨を出版という形で表現してきた。そのせいで幾人かの戯作者や絵師が不幸になった。筆を折ったものから腹を切ったものまで。蔦屋自身も手鎖の上、家財半分を没収されたことがある。

「質素倹約なんてしみったれは江戸には無用だ。例の顔料が使えなくなった代わりに、漆入りのてかてかの墨に雲母を散らすのはどうだい。ぎらついた派手な役者絵でも考えましょうかね」

「松平定信さまがいなくなったらやりたい放題か」

「違います。祭りですよ。いや一種の儀礼かな」

「おれの絵でやってくれよ」

「検討しましょう」

 ようやく秋馬がほっとした顔つきになる。
 あの絵を描いたのは斉藤十郎兵衛だとお照は見当をつけた。
 阿波藩蜂須賀家お抱えの能役者。
 歌舞伎は教養のない庶民が楽しむもの、武家は神君家康公が愛した能楽を修めるものとされている。
 だが能役者の斉藤はみずから芝居小屋に足を運ぶほど歌舞伎を好んでいる。蔦屋に役者絵をと頼まれたら二つ返事で引き受けそうだ。

 このときお照は、かつて半兵衛から蜂須賀家の当主が厳格な性質だと聞いていたことを失念していた。
 蔦屋に役者絵を勧めたことを、のちのち後悔することになるのだった。
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