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百五、 女の内緒話その二
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「でも知識があっても、逆に冷めてしまうことがあるかもしれませんね」
「どういうことです」
「いえね、わちきが熱を上げていたお武家さま、なかなか色よい文を返してくださらないものだから催促したことがあるの。ある雨の日、梨花の枝に文を結んで届けさせたの」
「はあ」
「次に会ったときに、『梨の花だなんて、あんなつまらないものしかなかったんですか』って、嘲笑されたの」
「はあ」
「白楽天の長恨歌をご存じなかったのよ。『梨花一枝、春、雨を帯びたり』って、有名じゃないこと? 会いに来てくださらなかったら、泣き濡れた白い花、つまり死んだ楊貴妃になってもいいの、早くいらしてと意味を込めたのに。ああ、このかたは尊敬できないかもと思ったらすっと消えたわ、胸の熱が」
「……」
お照だけでなく、女将と千代もきょとんとなっていた。
そのときの光景を思い出しているらしき高月の眉根には深い皺が寄っている。
「武家の男子はすべからく教養を、といっても向き不向きはあるでしょうし、いま思い起こせば、あのかたは漢学の知識はなくとも莫迦ではなかった。朝顔の掛け合わせや盆栽の手入れが得意で、主家に重宝されていたようだし。わちきが自分より無教養な男がいやだっただけで……。藤原為時は息子を漢学者にしたくて漢詩文を教えたけれど、吸収したのは隣で聞いていた娘のほう。その娘が源氏物語を書いた紫式部なの。この本のなかには漢学の知識が溢れているのよね。あのかたは読んでいなかったけれど……」
武士というものはやることが多くてたいへんだ、とお照は同情した。そして高月が口で言うほどあっさりと決別したわけではなくて、いまでも未練の裾をずるずると引きずっていることも伝わった。だが口出すことでもない。
喋りすぎて喉が渇いたのか、高月は茶碗をまたも空にした。
「わちきなんて、しょせんは百姓生まれの口減らしにすぎないのに、廓でちっと教わったくらいで偉そうなことを口にして……。赦してくんなまし」
お照は高月の茶碗に温めの茶を注いだ。
茶の水面に女将が映る。その上品な口がふわりと開く。花が咲くようだ。お照は思わず見とれた。
「イバショに合わせなければ生きる価値がないと、長い宮廷暮らしでわたくしはナットクしておりましたが、高月さんの場合はイバショに合わせなければ生きることさえできなかったのですわね。それでも生まれ持ったフィエルテ(自尊心)を高月さんは誇るべきものよ」
お照が考えていたことと同じ心の内を女将が言葉にしてくれた。凝っていたなにかがほぐれて楽になった気がした。
「さあてね、苦労して身につけても、驕るだけなら害悪でしかないのでは」
高月が自嘲気味に笑う。
「そうね、気をつけなくては。ねえ、お照さん」
「は?」
なぜここで自分の名前が呼ばれるのか。
「フランスで困らないようにフランスのジジョーをお話ししておくわ」
フランスに行く気は毛頭ないのだが。お照の戸惑いにかまわず女将は続けた。
「以前、この国には女の絵師がいないのかと聞いたことがあったでしょう。フランスでは珍しくなかったわ。わたくしのお気に入りのショーゾー画家は女でしたの」
以前に聞いた話である。絵師の才は性別と関係あるのだろうか。
「女の絵師はいるけれど、でもアカデミーに入れないと格調高い絵は描いてはいけないとかではなかったですか」
「歴史画や宗教画などは高いキョーヨーが必要だと思われていたからなの。でもね、女には高いキョーヨーがないと断じられたら腹が立つわよね。ただ機会を奪われただけなら」
千代がふんふんと鼻で答えた。
「機会を与えないのには理由があんだろ」
「そうなのよ!」
女将はぽんと膝を打つ。
「これをご覧になって」
女将は一冊の書物をターブルに置いた。
舶来の洋書である。小紋の小花柄のような文字。お照にはちんぷんかんぷんである。
「前にシャルルに見せてもらったやつだね」千代がぺらりと捲って苦笑した。「これ、こども向けじゃないんじゃないかい。文字ばっかり」
「ええ、そうなのですけど、フランスでは身分の高いものにとってのキョーヨーなのです。ジャン・ジャック・ルソーが書いた『エミール』といって、いまから三十年前に出版された教育哲学の書、わかりやすく言えば子育て論ですの」
「じゃん……じゃ……」
あいかわらず覚えにくい長い名前だ。
「フランスにいたときは読む機会がありませんでした。ですが革命の下支えをした思想のひとつと聞いたものですからショーグンへの献上品の中から貰い受けたのですけれど」
そこで浮かんだ女将の顔の陰りが、お照は妙に気になった。
「もしや、こどものために金持ちを殺せとか米蔵を襲えとか書いてあるんですか」
革命思想を下支えしたと聞けば、不穏な想像しか浮かんでこない。
「いいえ、『自然に帰れ』と書いてあるのよ」
「自然に帰れ?」
「こどもは自然という偉大な師に従って育てるのがよいと」
「はあ」
なんともあいまいで、お照はどう応えていいかわからなかった。
「無為自然、ですかしら。老荘?」
高月が首を傾げると、女将は具体例を語った。
「こどもは本ばかり読んでいてはいけない。農夫のように働き、哲学者のように考えなくてはならない。推奨する職業は指物師であると。お照さんはどう思う」
「はあ」
農夫のように働き、哲学者のように考える。それは悪くない。指物師がその典型だとは思えないけれど。世の中が指物師でいっぱいになったら暮らしにくいだろうな、とお照は考えたが口には出さなかった。
「指物師はお嫌いですか?」
手先が器用なシャルルなら職人は天職かもしれない。
「シャルルは国王なの。職業を選ぶ自由はないわ」
「ありゃあ、そうだった」千代が同情を滲ませる。「本ばかり読んでいてはいけない。自然に帰れ。その教えが男女に関係ないとしたら、フランスは莫迦しかいないのかい?」
「まあ、失礼ね。女の教育についても書かれているわ。要約すると、女は男のために教育されねばならない。女が男に服従するのは自然である。服従するように生まれついている」
お照は呆れた。
「それはおかしいですッ。そんな本、シャルルは読んじゃだめ!」
高月は茶碗のふちを指先で軽くはじいた。
「貝原益軒も似たようなものよ。夫を絶対なる天として服従せよ」
「どういうことです」
「いえね、わちきが熱を上げていたお武家さま、なかなか色よい文を返してくださらないものだから催促したことがあるの。ある雨の日、梨花の枝に文を結んで届けさせたの」
「はあ」
「次に会ったときに、『梨の花だなんて、あんなつまらないものしかなかったんですか』って、嘲笑されたの」
「はあ」
「白楽天の長恨歌をご存じなかったのよ。『梨花一枝、春、雨を帯びたり』って、有名じゃないこと? 会いに来てくださらなかったら、泣き濡れた白い花、つまり死んだ楊貴妃になってもいいの、早くいらしてと意味を込めたのに。ああ、このかたは尊敬できないかもと思ったらすっと消えたわ、胸の熱が」
「……」
お照だけでなく、女将と千代もきょとんとなっていた。
そのときの光景を思い出しているらしき高月の眉根には深い皺が寄っている。
「武家の男子はすべからく教養を、といっても向き不向きはあるでしょうし、いま思い起こせば、あのかたは漢学の知識はなくとも莫迦ではなかった。朝顔の掛け合わせや盆栽の手入れが得意で、主家に重宝されていたようだし。わちきが自分より無教養な男がいやだっただけで……。藤原為時は息子を漢学者にしたくて漢詩文を教えたけれど、吸収したのは隣で聞いていた娘のほう。その娘が源氏物語を書いた紫式部なの。この本のなかには漢学の知識が溢れているのよね。あのかたは読んでいなかったけれど……」
武士というものはやることが多くてたいへんだ、とお照は同情した。そして高月が口で言うほどあっさりと決別したわけではなくて、いまでも未練の裾をずるずると引きずっていることも伝わった。だが口出すことでもない。
喋りすぎて喉が渇いたのか、高月は茶碗をまたも空にした。
「わちきなんて、しょせんは百姓生まれの口減らしにすぎないのに、廓でちっと教わったくらいで偉そうなことを口にして……。赦してくんなまし」
お照は高月の茶碗に温めの茶を注いだ。
茶の水面に女将が映る。その上品な口がふわりと開く。花が咲くようだ。お照は思わず見とれた。
「イバショに合わせなければ生きる価値がないと、長い宮廷暮らしでわたくしはナットクしておりましたが、高月さんの場合はイバショに合わせなければ生きることさえできなかったのですわね。それでも生まれ持ったフィエルテ(自尊心)を高月さんは誇るべきものよ」
お照が考えていたことと同じ心の内を女将が言葉にしてくれた。凝っていたなにかがほぐれて楽になった気がした。
「さあてね、苦労して身につけても、驕るだけなら害悪でしかないのでは」
高月が自嘲気味に笑う。
「そうね、気をつけなくては。ねえ、お照さん」
「は?」
なぜここで自分の名前が呼ばれるのか。
「フランスで困らないようにフランスのジジョーをお話ししておくわ」
フランスに行く気は毛頭ないのだが。お照の戸惑いにかまわず女将は続けた。
「以前、この国には女の絵師がいないのかと聞いたことがあったでしょう。フランスでは珍しくなかったわ。わたくしのお気に入りのショーゾー画家は女でしたの」
以前に聞いた話である。絵師の才は性別と関係あるのだろうか。
「女の絵師はいるけれど、でもアカデミーに入れないと格調高い絵は描いてはいけないとかではなかったですか」
「歴史画や宗教画などは高いキョーヨーが必要だと思われていたからなの。でもね、女には高いキョーヨーがないと断じられたら腹が立つわよね。ただ機会を奪われただけなら」
千代がふんふんと鼻で答えた。
「機会を与えないのには理由があんだろ」
「そうなのよ!」
女将はぽんと膝を打つ。
「これをご覧になって」
女将は一冊の書物をターブルに置いた。
舶来の洋書である。小紋の小花柄のような文字。お照にはちんぷんかんぷんである。
「前にシャルルに見せてもらったやつだね」千代がぺらりと捲って苦笑した。「これ、こども向けじゃないんじゃないかい。文字ばっかり」
「ええ、そうなのですけど、フランスでは身分の高いものにとってのキョーヨーなのです。ジャン・ジャック・ルソーが書いた『エミール』といって、いまから三十年前に出版された教育哲学の書、わかりやすく言えば子育て論ですの」
「じゃん……じゃ……」
あいかわらず覚えにくい長い名前だ。
「フランスにいたときは読む機会がありませんでした。ですが革命の下支えをした思想のひとつと聞いたものですからショーグンへの献上品の中から貰い受けたのですけれど」
そこで浮かんだ女将の顔の陰りが、お照は妙に気になった。
「もしや、こどものために金持ちを殺せとか米蔵を襲えとか書いてあるんですか」
革命思想を下支えしたと聞けば、不穏な想像しか浮かんでこない。
「いいえ、『自然に帰れ』と書いてあるのよ」
「自然に帰れ?」
「こどもは自然という偉大な師に従って育てるのがよいと」
「はあ」
なんともあいまいで、お照はどう応えていいかわからなかった。
「無為自然、ですかしら。老荘?」
高月が首を傾げると、女将は具体例を語った。
「こどもは本ばかり読んでいてはいけない。農夫のように働き、哲学者のように考えなくてはならない。推奨する職業は指物師であると。お照さんはどう思う」
「はあ」
農夫のように働き、哲学者のように考える。それは悪くない。指物師がその典型だとは思えないけれど。世の中が指物師でいっぱいになったら暮らしにくいだろうな、とお照は考えたが口には出さなかった。
「指物師はお嫌いですか?」
手先が器用なシャルルなら職人は天職かもしれない。
「シャルルは国王なの。職業を選ぶ自由はないわ」
「ありゃあ、そうだった」千代が同情を滲ませる。「本ばかり読んでいてはいけない。自然に帰れ。その教えが男女に関係ないとしたら、フランスは莫迦しかいないのかい?」
「まあ、失礼ね。女の教育についても書かれているわ。要約すると、女は男のために教育されねばならない。女が男に服従するのは自然である。服従するように生まれついている」
お照は呆れた。
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