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百六、 女の内緒話その三(終)
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「子を持つ母として教育論に耳を傾ける姿勢はあるつもりですけれど、ルソーの言説にはほかにもどうしても素直になれない理由があって」
「なんですッ」
「実はルソー自身は子育てをせず、五人の子を手放してるの。身寄りのない子を面倒見てくれる施設に放り込んだのよ。それは自然なのかしら」
「なんだい、そのルソーってのは、口だけの甲斐性無しかい」
千代はバンバンとターブルを叩いた。
「娘はいたのかしら。子捨てが自然なら女郎は自然の産物になりんしょう」
千代と高月は眉間に皺を寄せた。
お照も憤慨した。
「ルソーが目の前にいたらわたしが説教してやります。犬や猫の仔じゃないんだから。わたし、我慢が嫌いなんです。結婚なんか一生しなくていいですッ」
女将は顔を手で覆った。お照のあまりの怒りっぷりに笑いが込み上げたのかと思ったがどうやらそうではないらしい。
指の隙間からきらりと光るものがあった。
「女将……?」
「なんでもないわ。故国に置いてゆかねばならなかった娘のことを思い出しただけよ。わたくしもルソーのことをとやかく言える立場ではないわ」
女将は夫と娘を残して国を去らねばならなかった。その後夫は処刑されたが、娘の安否はいまだわからない。
早くフランスに帰りたい。女将の願いは痛々しいほど伝わってきた。
「全然違いますよ。泣かないでください」
千代までもらい泣きを始める。お照は慰めの言葉を探しあぐねた。
「いつかフランスに帰ることができたら、真っ先に娘のところに行くわ。早く革命政府が転覆してくれるといいのだけど。ダメならわたくしが転覆させてやるわ。そしたらお照、あなたも姉妹ができるのよ」
「え、いえ、あの」
女将が慰めを求めているわけでも擁護を欲しているわけでもないとお照は気づいた。しかも希望を捨てていない。血を分けた娘に、ただ会いたいのだ。
「もう一度やり直したいわ。王家の子女は自然に従って育てるわけにはいきません。だからテレーズにも厳しく教育を施しました。厳しすぎて、テレーズには嫌われたけれど。いまならもっと優しくできるでしょう。従順なだけの、意志のない女にはさせないわ」
「もし本当に子捨て男の妄言があんたの国で受容されてんならさ」千代は腕を組んだ。「男ってだけで偉そうなやつと従順な女と野生児だらけになるよ。早く帰って国を立て直した方がいいね」
「我が日の本だって変わらないですよ。わたし、腹が立ったこと、思い出しました」
お照の口から不満が溢れ出た。
「女だからと道場に入れてもらえなかったんです。門人にしてもらえなかったんですよ。おかしいですよね」
千代が吹き出した。
「そりゃだって腕力が違うじゃないか。女の子を怪我させちゃいけないと気を遣ったのさ」
「ならば漢学の手習所はどうなのかしら」高月が問う。「寺子屋まではいい。けれどもっと学びたいと女が願っても、女郎屋以外で学べるところはあるのかしら」
「そ、そうですよ。手習いのあとは女は裁縫をやればいい、ですもん」
「漢学の手習い所なんか、よほど出来のいい子か武士の子しか通わないじゃないか。女は邪魔なんだよ。年頃の男の子ばかりだから、そばに女の子がいたら鍛錬や勉強どころじゃなくなるだろ」
千代の意見に、なるほど、そう言う理由もあるのか、とお照は気勢を削がれた。
「それに漢学ってのは儒学だろ。やめときな。女は男に従えって教わるだけだよ。お照さん、そんなに学問に興味があったのかい」
「ないけど……なんか悔しくて」
そう、悔しいのだ。おのれの未熟さが反発心を起こすのだ。心から望んで才を試したいと思うのは、お照にとっては剣術だけだった。
そろそろ昼見世の時間だと、高月は腰をあげ、ふと振り向いた。
「学んで武器にすればいいじゃない。男の武器を知り、女の武器に作り変えましょう。わちきはそうしてきたし、これからもそうするわ」
「かっこいいねえ」
去っていく高月を見送って千代が呟く。
女将はふと顔を上げた。
「おんなじね、フランスも日本もおんなじ。女は持てる武器が少ない」
千代も神妙な顔になった。
「強くあれ、賢くあれと強制されるのは男だって嫌かもしんないよ。否応なく国王をやらなきゃいけない幼児もいるし」
「あら、今度は男のリカイシャになったつもりなの?」
女将がくすりと笑う。
「たとえば、トラさんはどうかしら。本人が望んだように男に生まれていたとしても、好き勝手に生きられるわけじゃないわ。せいぜいが悪所の用心棒よ。心根が優しいから向いていたかどうか」
千代が頬杖をついた。
「しょせんはないものねだりと言いたいのかい」
「ないものを他人にねだってもしょうがないわ。なければ自分で作ればいいじゃない」
女将の言い分は高月に似ていた。似ていたがどこか異なっている。
「それはそれで……めんどくさいのよね。だからといって結婚しないってのも極端だよ、お照さん。好きな人はいないのかい?」
「え、な……」
千代の問いに顔を赤らめたお照を見て、女将は薄く笑った。
「自ら防衛のために武器を取るのはあらゆる人間の権利である。祖国防衛のために武装することはすべての市民の権利である」
「なんです、それ」
「革命家、憎っくきロベスピエールの言葉よ。はたして『あらゆる人間』や『すべての市民』に女は含まれていたのかしら。少しくギモンだわ」
「もちろんそうさ。暴力を振るわれそうになった女は男を殺してもいいって意味だよ」
千代の解釈を聞いて女将は笑い、そして宙を見上げた。
「……やはり武器はほしいわね」
ロベスピエールとやらが言った言葉は、革命を成し遂げるために、すべての民を奮い立たせんがためのものだったのだろう。
もし権利ではなく義務という言葉だったら奮い立つだろうか。強制されたらやはり反発心が湧く。権利というのは使っても使わなくてもいいのだから気楽だ。
おのれの反発心は、正当とは程遠いもの、未熟さの現れである。理由はわからないが焦りを感じていることも自覚している。
「言葉というのは難しいですねえ」
『なければ自分で作ればいいじゃない』
とりとめのない愚痴の言い合いはいつの間にか終息したが、なぜか女将のその言葉はいつまでもお照の耳のなかでこだました。
「なんですッ」
「実はルソー自身は子育てをせず、五人の子を手放してるの。身寄りのない子を面倒見てくれる施設に放り込んだのよ。それは自然なのかしら」
「なんだい、そのルソーってのは、口だけの甲斐性無しかい」
千代はバンバンとターブルを叩いた。
「娘はいたのかしら。子捨てが自然なら女郎は自然の産物になりんしょう」
千代と高月は眉間に皺を寄せた。
お照も憤慨した。
「ルソーが目の前にいたらわたしが説教してやります。犬や猫の仔じゃないんだから。わたし、我慢が嫌いなんです。結婚なんか一生しなくていいですッ」
女将は顔を手で覆った。お照のあまりの怒りっぷりに笑いが込み上げたのかと思ったがどうやらそうではないらしい。
指の隙間からきらりと光るものがあった。
「女将……?」
「なんでもないわ。故国に置いてゆかねばならなかった娘のことを思い出しただけよ。わたくしもルソーのことをとやかく言える立場ではないわ」
女将は夫と娘を残して国を去らねばならなかった。その後夫は処刑されたが、娘の安否はいまだわからない。
早くフランスに帰りたい。女将の願いは痛々しいほど伝わってきた。
「全然違いますよ。泣かないでください」
千代までもらい泣きを始める。お照は慰めの言葉を探しあぐねた。
「いつかフランスに帰ることができたら、真っ先に娘のところに行くわ。早く革命政府が転覆してくれるといいのだけど。ダメならわたくしが転覆させてやるわ。そしたらお照、あなたも姉妹ができるのよ」
「え、いえ、あの」
女将が慰めを求めているわけでも擁護を欲しているわけでもないとお照は気づいた。しかも希望を捨てていない。血を分けた娘に、ただ会いたいのだ。
「もう一度やり直したいわ。王家の子女は自然に従って育てるわけにはいきません。だからテレーズにも厳しく教育を施しました。厳しすぎて、テレーズには嫌われたけれど。いまならもっと優しくできるでしょう。従順なだけの、意志のない女にはさせないわ」
「もし本当に子捨て男の妄言があんたの国で受容されてんならさ」千代は腕を組んだ。「男ってだけで偉そうなやつと従順な女と野生児だらけになるよ。早く帰って国を立て直した方がいいね」
「我が日の本だって変わらないですよ。わたし、腹が立ったこと、思い出しました」
お照の口から不満が溢れ出た。
「女だからと道場に入れてもらえなかったんです。門人にしてもらえなかったんですよ。おかしいですよね」
千代が吹き出した。
「そりゃだって腕力が違うじゃないか。女の子を怪我させちゃいけないと気を遣ったのさ」
「ならば漢学の手習所はどうなのかしら」高月が問う。「寺子屋まではいい。けれどもっと学びたいと女が願っても、女郎屋以外で学べるところはあるのかしら」
「そ、そうですよ。手習いのあとは女は裁縫をやればいい、ですもん」
「漢学の手習い所なんか、よほど出来のいい子か武士の子しか通わないじゃないか。女は邪魔なんだよ。年頃の男の子ばかりだから、そばに女の子がいたら鍛錬や勉強どころじゃなくなるだろ」
千代の意見に、なるほど、そう言う理由もあるのか、とお照は気勢を削がれた。
「それに漢学ってのは儒学だろ。やめときな。女は男に従えって教わるだけだよ。お照さん、そんなに学問に興味があったのかい」
「ないけど……なんか悔しくて」
そう、悔しいのだ。おのれの未熟さが反発心を起こすのだ。心から望んで才を試したいと思うのは、お照にとっては剣術だけだった。
そろそろ昼見世の時間だと、高月は腰をあげ、ふと振り向いた。
「学んで武器にすればいいじゃない。男の武器を知り、女の武器に作り変えましょう。わちきはそうしてきたし、これからもそうするわ」
「かっこいいねえ」
去っていく高月を見送って千代が呟く。
女将はふと顔を上げた。
「おんなじね、フランスも日本もおんなじ。女は持てる武器が少ない」
千代も神妙な顔になった。
「強くあれ、賢くあれと強制されるのは男だって嫌かもしんないよ。否応なく国王をやらなきゃいけない幼児もいるし」
「あら、今度は男のリカイシャになったつもりなの?」
女将がくすりと笑う。
「たとえば、トラさんはどうかしら。本人が望んだように男に生まれていたとしても、好き勝手に生きられるわけじゃないわ。せいぜいが悪所の用心棒よ。心根が優しいから向いていたかどうか」
千代が頬杖をついた。
「しょせんはないものねだりと言いたいのかい」
「ないものを他人にねだってもしょうがないわ。なければ自分で作ればいいじゃない」
女将の言い分は高月に似ていた。似ていたがどこか異なっている。
「それはそれで……めんどくさいのよね。だからといって結婚しないってのも極端だよ、お照さん。好きな人はいないのかい?」
「え、な……」
千代の問いに顔を赤らめたお照を見て、女将は薄く笑った。
「自ら防衛のために武器を取るのはあらゆる人間の権利である。祖国防衛のために武装することはすべての市民の権利である」
「なんです、それ」
「革命家、憎っくきロベスピエールの言葉よ。はたして『あらゆる人間』や『すべての市民』に女は含まれていたのかしら。少しくギモンだわ」
「もちろんそうさ。暴力を振るわれそうになった女は男を殺してもいいって意味だよ」
千代の解釈を聞いて女将は笑い、そして宙を見上げた。
「……やはり武器はほしいわね」
ロベスピエールとやらが言った言葉は、革命を成し遂げるために、すべての民を奮い立たせんがためのものだったのだろう。
もし権利ではなく義務という言葉だったら奮い立つだろうか。強制されたらやはり反発心が湧く。権利というのは使っても使わなくてもいいのだから気楽だ。
おのれの反発心は、正当とは程遠いもの、未熟さの現れである。理由はわからないが焦りを感じていることも自覚している。
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とりとめのない愚痴の言い合いはいつの間にか終息したが、なぜか女将のその言葉はいつまでもお照の耳のなかでこだました。
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