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百七、 神田祭
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それからの二十日余りはあっという間に過ぎた。
フランス菓子やフランス料理の作り方を女将にみっちりと仕込んでもらったからだ。みっちりとはいっても、女将が作れるのはごく簡単なものだけだから初歩の初歩であるらしい。それでも覚えることはたくさんあった。
「コンフィはね、たっぷりの油で鶏肉をじっくりと低温で煮込むのよ。鶏肉の代わりにお魚を使いましょう。このよくわからない魚に下味をつけて……」
「秋刀魚です、女将さん」
「ちなみに魚はフランス語でポワソンと言うの。鶏肉はプーレ、牛肉はブフ、豚肉はポルクよ」
女将はついでとばかりにフランス語を教えてくれる。覚えることの過半はフランス語だ。
いつか武器になればいい。なければ作ればいい。
「ココットのポワソンをプラットに移して。メルシー。あら、ちょっとセレが効きすぎたかしら。ううん、そうでもないわ。セボン。トレビアン」
箸が触れると身がほろりと崩れるほど柔らかく煮上がった秋刀魚のコンフィは生臭さがなくて美味しかった。
神田祭の日がやってきた。
夜が明けるずっと前から女将は登城の支度をしている。
「……本当にその頭で行くんですか」
女将の頭の上にはあの帆船が載っている。俄芝居のときと同じ、珍妙な姿で将軍の招待を受けてよいのだろうかとお照は心配になった。
「ショーグンに見せて差し上げたいのですわ、わたくしの本領を。フランスでは競り合ったものです。高さ三尺ほどに結い上げたこともあるのよ。常に中心に居続けること、人の口に我が名を乗せること、それがわたくしの役割でしたの。千代田の城もフランス宮廷のようなもの。着飾るのは礼儀でしょう」
「はあ、そうですか」
「お照さんはこれをお召しなさい」
「え、これは……?」
女将がターブルに載せたのは風呂敷包み。中身は異国の服だった。
「お照さんのローブよ。呉服屋に作らせたの」
「ええ……!?」
そう言われれば、いつだったか、女将が呉服屋を呼んだことがあった。窮屈になったシャルルの礼服を新調するために。
あのとき、呉服屋の手代が妙にじろじろ眺めてくるなと不審に思っていた。それどころかあの場でくるりと回ってみてくれと言われた意味がいまようやくわかった。
「女将さんが頼んだのですか、どうして」
「あら、おほほほ。お照さんはわたくしの首席侍女。それは侍女のお仕着せですわ。わたくしとシャルルが礼服を身につけるのですもの、あなたもそうなさって」
「お仕着せ……」
ルイ十七世とその母后に侍るには相応しい格好がある、しかもや訪う先は千代田城だ。と言われれば、たしかにと納得するしかない。
だが着るのは一苦労だった。
上半身は体にぴったりと張りつくようでありながら、下半身は風鈴のように膨らんでいる。首回りに布が少なくて妙にすーすーとする。そして生地の手触りは極上だった。
「き、絹じゃないですか、女将さん。わたしが着たらお咎めを受けます」
質素倹約の奨励は、松平定信が表舞台から消えてもまだ尾を引いている。
「これもおつけなさいな」
女将が首にかけてくれたのは俄での小道具、金剛石の首飾りだった。
二十万両。
お照の胸がどきどきとするたびに、金剛石がきらきらと光を放った。
「あれ、でもこれ……」
少し丈が短くなっている。丈という言い回しが合っているかはわからないけれど。
「シャルルが余計な金剛石を減らしたのよ」
高月花魁がつけていたときは首飾りを見せるために襟を大きく寛げていたが、自分は豊かではない胸を誇示しなくてよいということか。
「それからこれも……」
女将がそっとターブルに置いたものを見て、お照ははっと息を飲んだ。
「女将さん、これは……」
「身につけておきなさい。だれにも見られないよう、気をつけて」
お照はごくりと喉を鳴らし、長くて硬いものを手に取った。
「そういえばシャルルは着替え終わったのかしら。シャルル~?」
「はーい」
二階から鞠が転がるようにシャルルが駆け下りてきた。新しい服を身につけている。白い絹地に銀色の百合の刺繍が眩い。
「大きめに作ってもらったのだけれど、どうかしら」
「すごく動きやすいよ。千代田のお城でお祭りを見学するんだよね」
「そうよ。特別のお席ですって。楽しみね」
「女将さん、いいですかい」
玄関戸が控えめに開き、半兵衛が顔を覗かせた。
久しぶりだ。慣れない格好を見られるのが照れくさくて、お照は奥に隠れた。
「大門の外に駕籠が来ました」
「わかりました。いままいります」
お照の胸はばくばくと高鳴った。南蛮のローブと首飾りでは鼓動は隠せそうにない。
喉を圧迫する苦しさは、初めて身につけた南蛮服と半兵衛の出現のせいだけではない。
江戸っ子は祭と聞けば血が騒ぐ。
お照も例外ではないのだった。しかも千代田城の上覧席で見物なんて一生一度、いや、何度生まれ変わったってありつけない僥倖。
神田祭の山車は田安御門から入って常盤橋御門に抜ける。特別にしつらえた上覧席から、将軍は山車や神輿を迎える。そのため天下祭とも呼ばれている。
山車や神輿も見事だが、あとに続く附祭はことのほか人気がある。踊りやお囃子が賑やかで、山車よりも大きな張り子のなまずや鬼の首などの練り物は見応えがあるのだ。
「お照、似合ってるな」
視線をめぐらせると、半兵衛がこちらを見ていた。
フランス菓子やフランス料理の作り方を女将にみっちりと仕込んでもらったからだ。みっちりとはいっても、女将が作れるのはごく簡単なものだけだから初歩の初歩であるらしい。それでも覚えることはたくさんあった。
「コンフィはね、たっぷりの油で鶏肉をじっくりと低温で煮込むのよ。鶏肉の代わりにお魚を使いましょう。このよくわからない魚に下味をつけて……」
「秋刀魚です、女将さん」
「ちなみに魚はフランス語でポワソンと言うの。鶏肉はプーレ、牛肉はブフ、豚肉はポルクよ」
女将はついでとばかりにフランス語を教えてくれる。覚えることの過半はフランス語だ。
いつか武器になればいい。なければ作ればいい。
「ココットのポワソンをプラットに移して。メルシー。あら、ちょっとセレが効きすぎたかしら。ううん、そうでもないわ。セボン。トレビアン」
箸が触れると身がほろりと崩れるほど柔らかく煮上がった秋刀魚のコンフィは生臭さがなくて美味しかった。
神田祭の日がやってきた。
夜が明けるずっと前から女将は登城の支度をしている。
「……本当にその頭で行くんですか」
女将の頭の上にはあの帆船が載っている。俄芝居のときと同じ、珍妙な姿で将軍の招待を受けてよいのだろうかとお照は心配になった。
「ショーグンに見せて差し上げたいのですわ、わたくしの本領を。フランスでは競り合ったものです。高さ三尺ほどに結い上げたこともあるのよ。常に中心に居続けること、人の口に我が名を乗せること、それがわたくしの役割でしたの。千代田の城もフランス宮廷のようなもの。着飾るのは礼儀でしょう」
「はあ、そうですか」
「お照さんはこれをお召しなさい」
「え、これは……?」
女将がターブルに載せたのは風呂敷包み。中身は異国の服だった。
「お照さんのローブよ。呉服屋に作らせたの」
「ええ……!?」
そう言われれば、いつだったか、女将が呉服屋を呼んだことがあった。窮屈になったシャルルの礼服を新調するために。
あのとき、呉服屋の手代が妙にじろじろ眺めてくるなと不審に思っていた。それどころかあの場でくるりと回ってみてくれと言われた意味がいまようやくわかった。
「女将さんが頼んだのですか、どうして」
「あら、おほほほ。お照さんはわたくしの首席侍女。それは侍女のお仕着せですわ。わたくしとシャルルが礼服を身につけるのですもの、あなたもそうなさって」
「お仕着せ……」
ルイ十七世とその母后に侍るには相応しい格好がある、しかもや訪う先は千代田城だ。と言われれば、たしかにと納得するしかない。
だが着るのは一苦労だった。
上半身は体にぴったりと張りつくようでありながら、下半身は風鈴のように膨らんでいる。首回りに布が少なくて妙にすーすーとする。そして生地の手触りは極上だった。
「き、絹じゃないですか、女将さん。わたしが着たらお咎めを受けます」
質素倹約の奨励は、松平定信が表舞台から消えてもまだ尾を引いている。
「これもおつけなさいな」
女将が首にかけてくれたのは俄での小道具、金剛石の首飾りだった。
二十万両。
お照の胸がどきどきとするたびに、金剛石がきらきらと光を放った。
「あれ、でもこれ……」
少し丈が短くなっている。丈という言い回しが合っているかはわからないけれど。
「シャルルが余計な金剛石を減らしたのよ」
高月花魁がつけていたときは首飾りを見せるために襟を大きく寛げていたが、自分は豊かではない胸を誇示しなくてよいということか。
「それからこれも……」
女将がそっとターブルに置いたものを見て、お照ははっと息を飲んだ。
「女将さん、これは……」
「身につけておきなさい。だれにも見られないよう、気をつけて」
お照はごくりと喉を鳴らし、長くて硬いものを手に取った。
「そういえばシャルルは着替え終わったのかしら。シャルル~?」
「はーい」
二階から鞠が転がるようにシャルルが駆け下りてきた。新しい服を身につけている。白い絹地に銀色の百合の刺繍が眩い。
「大きめに作ってもらったのだけれど、どうかしら」
「すごく動きやすいよ。千代田のお城でお祭りを見学するんだよね」
「そうよ。特別のお席ですって。楽しみね」
「女将さん、いいですかい」
玄関戸が控えめに開き、半兵衛が顔を覗かせた。
久しぶりだ。慣れない格好を見られるのが照れくさくて、お照は奥に隠れた。
「大門の外に駕籠が来ました」
「わかりました。いままいります」
お照の胸はばくばくと高鳴った。南蛮のローブと首飾りでは鼓動は隠せそうにない。
喉を圧迫する苦しさは、初めて身につけた南蛮服と半兵衛の出現のせいだけではない。
江戸っ子は祭と聞けば血が騒ぐ。
お照も例外ではないのだった。しかも千代田城の上覧席で見物なんて一生一度、いや、何度生まれ変わったってありつけない僥倖。
神田祭の山車は田安御門から入って常盤橋御門に抜ける。特別にしつらえた上覧席から、将軍は山車や神輿を迎える。そのため天下祭とも呼ばれている。
山車や神輿も見事だが、あとに続く附祭はことのほか人気がある。踊りやお囃子が賑やかで、山車よりも大きな張り子のなまずや鬼の首などの練り物は見応えがあるのだ。
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