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百八、 おろし髪
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「それはどうも」
ぶっきらぼうな口調になってしまうが、しょうがない。
「どうせだったらこのほうが」
「え」
半兵衛の手が髪の根に伸びた。顔が近づく。必死に視線を下げていると目の前に髪がばさりと落ちた。髪を結っていた根を切られたのだ。
「なにするんです」
お照の髪は癖が強くて結いあげるのも一苦労なのだ。一度解くと、結っていたときの二倍にも三倍にも膨らんでしまう。
「短い髪がぴんぴんと立ってるから気になってな。ちょっと後ろを向きな」
「なんなんです、勝手に」
「お任せしてみたらいいんじゃない」
女将はにこにこと笑っている。
半兵衛はお照の前髪と左右の髪を掬って後頭部でなにやら弄っていたが、まもなく「できた」と言って手鏡をお照に手渡してきた。合わせ鏡で見てみると、自分では見えない真後ろに三つ編みが垂れていた。
「残りの髪はどうするんです」
上と左右は抑えが効いているとはいえ、下方に垂らした髪はまるで土砂降りの雨が濁流となった川のようだ。だらしなくうねっている。
「このままでいい。ぴんぴん髪が目立たないぞ」
「みっともないです」
それに、手鏡に映る、髪をおろした姿は幼く見える。
「似合わないですよね、女将さん」
「そんなことないわよ。豊かな黒髪なのだから自慢なさい」
似合っているかどうかなんてもはやどうでもよかった。女将に恥をかかせないように堂々としていようと思った。女将を見たものは、誰も彼も一人残らず釘付けになる。どうせ自分はそえものなのだから。
「なんですか、お照さん。そんなにしげしげと眺めて。あなたも頭に船をのせたかったの?」
慌ててお照は手を振った。
「フランスではいつもそのようなかっこうを? いえ、とてもよく似合っております。ですがやはり女将さんのようなかたでないと着こなせないというかなんというか……」
「おほほほ。思い出しますわ。キューデンに集う夫人たちはこぞってわたくしの真似をしたものです。衆目のセンボーを集めてしまいますわね。もっとも帆船は海軍キョーカ政策を推す夫のエンゴのためだったのですけれど」
家斉が寄越した駕籠は大名が乗るような大きな箱形だった。女将とお照とシャルル用にと三挺、それに護衛が大門外に待機していた。
「なんて仰々しい……」
「このくらいでないとコクヒン待遇とは言えませんものね。お照さんは次の駕籠にお乗りなさいな」
女将は至極当然といったようすで最初の駕籠に乗り込む。
裃姿でも窮屈しないよう大きく作られている駕籠のおかげでローブの腰のでっぱりが駕籠からはみ出すこともない。高さもあるので女将の頭上の帆船が引っかかることもなかった。
「ぼくひとりで乗っていいの?」
シャルルの嬉しそうな声が聞こえる。
「ねえねえ、半兵衛も一緒に乗ろうよ」
半兵衛を駕籠に押し込めようとするのを、護衛が止める。
「あなたはルイ十七世という立派なかたなのでしょう」半兵衛の声には笑いが滲んでいる。「お一人で駕籠に乗るのが淋しいのですか」
「そんなことない!」
「城まではおれもお供しますよ。駕籠の横にいますから」
いつのまにかシャルルに対する半兵衛の口調が変わっている。言葉の端々、動作のいちいちに敬意が滲む。
「ようし、出発しよう」
神田明神から千代田城までの道は混雑しているようだ。混雑どころか身動きが出来ないほど江戸っ子がひしめいているに違いない。夜間は木戸を閉めるのが原則だから普段は往来はほぼない。だが祭の日は特別に開放される。まだ暗いなか、外を歩くだけで特別な気分になれる。眠気なんか吹き飛ばして出歩かない江戸っ子はいない。
お照たちを乗せた駕籠は人混みを避けて少しく遠回りをしたようで、もうs出発しているはずの山車は遠目にも見えなかった。
東の空が白くなりかけたころ千代田城についた。道中、白蓮教の残党に狙われないかと密かに心配していたが、無事に門をくぐれてほっと胸を撫で下ろす。城内に入ってしまえば安心だ。
「奇抜な格好ですな」
門の内側で待っていたのは裃姿の厳めしい顔。おそらくは相当に地位がある人物なのだろう。鬼頭はもうここにいないのだ。振り返ってみたが半兵衛の姿はすでに消えていた。
「ついてきなさい」
頭に帆船を乗せた女将は堂々と歩く。
眠そうに目を擦るシャルルと手をつなぎ、お照はあとに続いた。
最前を進む男は肩がぴんと張った裃姿。女将とお照は腰がぴんと横に張ったパニエのローブ。奇抜な格好といえばどちらも似たようなものである。張りだした部分には目に見えない権威が詰まってる。
「上様は大奥におられる。しばらくここで待つように」
庭を見下ろせるように設けられた上覧台。洋装のお照たちが座りやすいように椅子が用意されていた。
「あら、いなくてもよろしくてよ。ショーグンは大奥から観ればいいじゃないの」
祭の山車や神輿は大奥の庭も練り歩く。大奥の女たちも祭は楽しみにしていると聞く。
お照は庭に目を移す。まだ山車がやって来る気配はない。
「大奥で大切なお仕事もあるでしょうから」
「いえ……」
将軍家斉公は無類の女好きという噂がある。
ばさばさと羽音がしたかと思うと、上覧台の手すりに鮮やかな色の鳥が止まった。
家斉の飼鳥、金剛だ。お照をじっと見つめている。
「わたしのこと、覚えているのかしら」
「よう、いらしたのう。待っていたぞ」
将軍が現れると、女将とシャルル以外の全員がその場に平伏した。
ぶっきらぼうな口調になってしまうが、しょうがない。
「どうせだったらこのほうが」
「え」
半兵衛の手が髪の根に伸びた。顔が近づく。必死に視線を下げていると目の前に髪がばさりと落ちた。髪を結っていた根を切られたのだ。
「なにするんです」
お照の髪は癖が強くて結いあげるのも一苦労なのだ。一度解くと、結っていたときの二倍にも三倍にも膨らんでしまう。
「短い髪がぴんぴんと立ってるから気になってな。ちょっと後ろを向きな」
「なんなんです、勝手に」
「お任せしてみたらいいんじゃない」
女将はにこにこと笑っている。
半兵衛はお照の前髪と左右の髪を掬って後頭部でなにやら弄っていたが、まもなく「できた」と言って手鏡をお照に手渡してきた。合わせ鏡で見てみると、自分では見えない真後ろに三つ編みが垂れていた。
「残りの髪はどうするんです」
上と左右は抑えが効いているとはいえ、下方に垂らした髪はまるで土砂降りの雨が濁流となった川のようだ。だらしなくうねっている。
「このままでいい。ぴんぴん髪が目立たないぞ」
「みっともないです」
それに、手鏡に映る、髪をおろした姿は幼く見える。
「似合わないですよね、女将さん」
「そんなことないわよ。豊かな黒髪なのだから自慢なさい」
似合っているかどうかなんてもはやどうでもよかった。女将に恥をかかせないように堂々としていようと思った。女将を見たものは、誰も彼も一人残らず釘付けになる。どうせ自分はそえものなのだから。
「なんですか、お照さん。そんなにしげしげと眺めて。あなたも頭に船をのせたかったの?」
慌ててお照は手を振った。
「フランスではいつもそのようなかっこうを? いえ、とてもよく似合っております。ですがやはり女将さんのようなかたでないと着こなせないというかなんというか……」
「おほほほ。思い出しますわ。キューデンに集う夫人たちはこぞってわたくしの真似をしたものです。衆目のセンボーを集めてしまいますわね。もっとも帆船は海軍キョーカ政策を推す夫のエンゴのためだったのですけれど」
家斉が寄越した駕籠は大名が乗るような大きな箱形だった。女将とお照とシャルル用にと三挺、それに護衛が大門外に待機していた。
「なんて仰々しい……」
「このくらいでないとコクヒン待遇とは言えませんものね。お照さんは次の駕籠にお乗りなさいな」
女将は至極当然といったようすで最初の駕籠に乗り込む。
裃姿でも窮屈しないよう大きく作られている駕籠のおかげでローブの腰のでっぱりが駕籠からはみ出すこともない。高さもあるので女将の頭上の帆船が引っかかることもなかった。
「ぼくひとりで乗っていいの?」
シャルルの嬉しそうな声が聞こえる。
「ねえねえ、半兵衛も一緒に乗ろうよ」
半兵衛を駕籠に押し込めようとするのを、護衛が止める。
「あなたはルイ十七世という立派なかたなのでしょう」半兵衛の声には笑いが滲んでいる。「お一人で駕籠に乗るのが淋しいのですか」
「そんなことない!」
「城まではおれもお供しますよ。駕籠の横にいますから」
いつのまにかシャルルに対する半兵衛の口調が変わっている。言葉の端々、動作のいちいちに敬意が滲む。
「ようし、出発しよう」
神田明神から千代田城までの道は混雑しているようだ。混雑どころか身動きが出来ないほど江戸っ子がひしめいているに違いない。夜間は木戸を閉めるのが原則だから普段は往来はほぼない。だが祭の日は特別に開放される。まだ暗いなか、外を歩くだけで特別な気分になれる。眠気なんか吹き飛ばして出歩かない江戸っ子はいない。
お照たちを乗せた駕籠は人混みを避けて少しく遠回りをしたようで、もうs出発しているはずの山車は遠目にも見えなかった。
東の空が白くなりかけたころ千代田城についた。道中、白蓮教の残党に狙われないかと密かに心配していたが、無事に門をくぐれてほっと胸を撫で下ろす。城内に入ってしまえば安心だ。
「奇抜な格好ですな」
門の内側で待っていたのは裃姿の厳めしい顔。おそらくは相当に地位がある人物なのだろう。鬼頭はもうここにいないのだ。振り返ってみたが半兵衛の姿はすでに消えていた。
「ついてきなさい」
頭に帆船を乗せた女将は堂々と歩く。
眠そうに目を擦るシャルルと手をつなぎ、お照はあとに続いた。
最前を進む男は肩がぴんと張った裃姿。女将とお照は腰がぴんと横に張ったパニエのローブ。奇抜な格好といえばどちらも似たようなものである。張りだした部分には目に見えない権威が詰まってる。
「上様は大奥におられる。しばらくここで待つように」
庭を見下ろせるように設けられた上覧台。洋装のお照たちが座りやすいように椅子が用意されていた。
「あら、いなくてもよろしくてよ。ショーグンは大奥から観ればいいじゃないの」
祭の山車や神輿は大奥の庭も練り歩く。大奥の女たちも祭は楽しみにしていると聞く。
お照は庭に目を移す。まだ山車がやって来る気配はない。
「大奥で大切なお仕事もあるでしょうから」
「いえ……」
将軍家斉公は無類の女好きという噂がある。
ばさばさと羽音がしたかと思うと、上覧台の手すりに鮮やかな色の鳥が止まった。
家斉の飼鳥、金剛だ。お照をじっと見つめている。
「わたしのこと、覚えているのかしら」
「よう、いらしたのう。待っていたぞ」
将軍が現れると、女将とシャルル以外の全員がその場に平伏した。
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