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百九、 恩ねずみの再来
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「ほほほ、カエルみたいね、みなさん」
笑う女将の隣に腰をおろした家斉はにやりと笑い返す。
「フランスではカエルやかたつむりを食すそうだな。女将の口に合いそうな酒と酒肴を用意しておいた」
「日本のカエルやかたつむりは美味しくないわ」
小姓が恭しく捧げもってきたものはギヤマン杯と焼いた貝。
「ブール(バター)の香りがしますね。かたつむりをブールで焼いたもの?」
朝餉を食べてこなかったせいで、かたつむりが妙に美味しそうに見えた。
「遠慮せず食べなさい」
この場にいる人間のなかでだれかが毒味をするならば自分しかないだろう。お照は箸でかたつむりを摘まんで、えいやと口に放り込んだ。こりこりした貝肉とバターの風味、香草の香りが胸一杯に広がる。
「かたつむりじゃなくて、さざえですね」
「そうだ。ほのかな苦みと磯臭さがたまらないだろう。アントワネットどのが帰国する前に良い思い出をと思ってな、日本の味を堪能してもらおうといろいろ工夫を凝らしてみた」
なまずの蒲焼きと天ぷら、寿司、豆腐とこんにゃくの田楽。次々と料理が運ばれてくる。家斉の朝餉も兼ねているのだろう。贅を尽くしたとは言いがたい、どちらかといえば庶民の味だが、お照にとってはご馳走だった。
ご馳走でもてなされながら祭見物できるなんて、なんという幸せ者だろう。女将に奉公して本当に良かったとお照は思った。
最初の山車が田安御門をくぐったとの知らせが入るや、側仕えたちはそわそわと落ち着きがなくなった。庭に佇立している番士も笑顔だ。今か今かと待ちわびているようすが伝わる。
ざわざわと大勢の人間が近づく気配がした。
緊張と期待で、ごくりと喉が鳴った。
「おお、来た来た」
家斉が扇で指した。
九月十五日夜明け前、最初の山車が神田明神前を出発する。神田祭、山王祭ともに山車巡行の一番目は大伝馬町の諫鼓鶏である。それに続くのは南伝馬町の猿人形。そのあとも各町自慢の山車が練り歩く。
城内だからといって山車を牽く町民が遠慮するようすはない。ただ上覧台の前を通るとき、頭を軽く下げるくらいである。
「お照さん、あれはナンデスの?」
「三河町は牛若丸と天狗みたいですね。岩井町は安宅弁慶」
「ウシワカマル、ベンケイ……?」
三十を優に超える山車人形が次々に現れる。
お照はシャルルと一緒に高欄から身を乗り出して見入った。
山車を警固するのは揃いの祭袢纏を着た町の氏子たち。踊ったり、山車人形を自慢したり、喧嘩したりしながら人形の載った山車を牽いていく。
「佐久間町の素戔嗚尊、永富町は龍神。あ……!」
山車人形に守られるようにして、神輿がやってきた。神田明神の二柱が乗った二基の神輿。
神輿を目にするや、家斉は飲み食いの手を止めて、控えめに跪拝した。
「あら、ご気分でも悪くなったのですか。飲み過ぎたのかしら」
女将が家斉の肩に手を置いた。
ふたりのやり取りは年長の姉と末の弟がからかいあっているようにも見える。
「いや、神君家康公が戦勝を祈願されたのが神田明神なのだ」
「神田明神さまは霊験あらたかな江戸総鎮守なんですよ」
お照が言い足すと、女将は大袈裟に驚いた表情になった。
「あの小さな家の中に神さまがいるの?」
「まあそうです」
「あんなに乱暴に扱われて腹が立たないのかしらねえ」
「そんなに少食で、よく腹がもちますねえ」家斉は口調を真似つつ女将の皿を見て首をひねる。「毒をお疑いかな」
「祭はまだまだ続きますでしょう。お照さんが教えてくれたのだけど、附祭というのが面白いらしいじゃないの。それを見る前に眠くなったらいやだわ」
お腹いっぱいになったら眠くなる、だから食べないという。だけど女将はもともと少食気味であることはお照はよく知っている。
気づけば高欄にもたれて眠るシャルルがいる。
「あらら。寝不足だもの、仕方ないですねえ」
お照はシャルルを背もたれのある椅子に座らせた。附祭が来たら起こしてあげればいい。と思っていたが、「わあ」という声に驚いてシャルルが跳ね起きた。
「あらあらあら」
臆病な家斉の声に続くのは女将ののんきな声。その視線の先を見ると女将の皿があり、その皿の上ではねずみが鎮座している。しかも食べ物を選っていた。
「ねねねねずみだ。ね、ねずみ、ねずみいッ……!」
家斉は呆けたようにねずみを連呼した。体を弄られて以来、すっかりねずみ嫌いになっている。
「ねずみが毒味をしてくれるみたいね」
女将はにこにこと笑っている。
「はいはい。わたしが退治すればいいんでしょ」
お照はねずみを掬い上げた。見間違いようのない、あのねずみである。
「早く殺せ。首を折れ」
「お祭の日になんてこと言うんですか」
お照はねずみを手のひらに乗せて胸に抱くように持った。命の恩人、いや恩ねずみである、粗末には扱えない。
「庭に放してきますね」
「莫迦な。ねずみなど殺してしまえ」
家斉の言葉は聞こえないふりをしてその場を離れようとしたとき、女将が歓声をあげた。
「見てごらんなさい、お照さん。俄を思い出すわね」
お囃子にのってやってきたのは揃いの着物を着た二十人ばかりの女たち。女だけが山車を牽いていた。
「気分がとてもいいから聞いておこうかしら。ショーグン、わたくしたちが帰国する手筈はどうなっておりますの?」
お照はねずみを手に載せたまま、そっと聞き耳を立てた。
「その件は順調に進んでおる。松平から取り上げた船があってな。たいそう立派なものだ。だから安心していなさい」
「帰国のためにわざわざ用意してくださった船かしら」
女将が小首を傾げて訊ねる。
「……うん、まあそうだな」
言い淀んだあたり、怪しい。松平定信から取り上げたということは新造船ではなさそうだ。抜け荷の密貿易に益していた船に違いない。
「立派な船なのですか」
「ああ、もちろんだ。米や酒を運んでくる船より大きい」
「あんなような船でしょうか」
庭先を宝船が通りすぎていく。張り子の七福神が仲よく並んでいる。
「いや、もっと大きくて、……そうだな、女将の頭に載っている帆船とよく似ている」
「あんなに大きいんですか」
帆柱が三本も立っているそれは百福神は優に乗れそうだ。
すっかり目を覚ましたシャルルは帆船と聞いてそわそわしている。
「いつ乗れるの。早く乗りたい!」
笑う女将の隣に腰をおろした家斉はにやりと笑い返す。
「フランスではカエルやかたつむりを食すそうだな。女将の口に合いそうな酒と酒肴を用意しておいた」
「日本のカエルやかたつむりは美味しくないわ」
小姓が恭しく捧げもってきたものはギヤマン杯と焼いた貝。
「ブール(バター)の香りがしますね。かたつむりをブールで焼いたもの?」
朝餉を食べてこなかったせいで、かたつむりが妙に美味しそうに見えた。
「遠慮せず食べなさい」
この場にいる人間のなかでだれかが毒味をするならば自分しかないだろう。お照は箸でかたつむりを摘まんで、えいやと口に放り込んだ。こりこりした貝肉とバターの風味、香草の香りが胸一杯に広がる。
「かたつむりじゃなくて、さざえですね」
「そうだ。ほのかな苦みと磯臭さがたまらないだろう。アントワネットどのが帰国する前に良い思い出をと思ってな、日本の味を堪能してもらおうといろいろ工夫を凝らしてみた」
なまずの蒲焼きと天ぷら、寿司、豆腐とこんにゃくの田楽。次々と料理が運ばれてくる。家斉の朝餉も兼ねているのだろう。贅を尽くしたとは言いがたい、どちらかといえば庶民の味だが、お照にとってはご馳走だった。
ご馳走でもてなされながら祭見物できるなんて、なんという幸せ者だろう。女将に奉公して本当に良かったとお照は思った。
最初の山車が田安御門をくぐったとの知らせが入るや、側仕えたちはそわそわと落ち着きがなくなった。庭に佇立している番士も笑顔だ。今か今かと待ちわびているようすが伝わる。
ざわざわと大勢の人間が近づく気配がした。
緊張と期待で、ごくりと喉が鳴った。
「おお、来た来た」
家斉が扇で指した。
九月十五日夜明け前、最初の山車が神田明神前を出発する。神田祭、山王祭ともに山車巡行の一番目は大伝馬町の諫鼓鶏である。それに続くのは南伝馬町の猿人形。そのあとも各町自慢の山車が練り歩く。
城内だからといって山車を牽く町民が遠慮するようすはない。ただ上覧台の前を通るとき、頭を軽く下げるくらいである。
「お照さん、あれはナンデスの?」
「三河町は牛若丸と天狗みたいですね。岩井町は安宅弁慶」
「ウシワカマル、ベンケイ……?」
三十を優に超える山車人形が次々に現れる。
お照はシャルルと一緒に高欄から身を乗り出して見入った。
山車を警固するのは揃いの祭袢纏を着た町の氏子たち。踊ったり、山車人形を自慢したり、喧嘩したりしながら人形の載った山車を牽いていく。
「佐久間町の素戔嗚尊、永富町は龍神。あ……!」
山車人形に守られるようにして、神輿がやってきた。神田明神の二柱が乗った二基の神輿。
神輿を目にするや、家斉は飲み食いの手を止めて、控えめに跪拝した。
「あら、ご気分でも悪くなったのですか。飲み過ぎたのかしら」
女将が家斉の肩に手を置いた。
ふたりのやり取りは年長の姉と末の弟がからかいあっているようにも見える。
「いや、神君家康公が戦勝を祈願されたのが神田明神なのだ」
「神田明神さまは霊験あらたかな江戸総鎮守なんですよ」
お照が言い足すと、女将は大袈裟に驚いた表情になった。
「あの小さな家の中に神さまがいるの?」
「まあそうです」
「あんなに乱暴に扱われて腹が立たないのかしらねえ」
「そんなに少食で、よく腹がもちますねえ」家斉は口調を真似つつ女将の皿を見て首をひねる。「毒をお疑いかな」
「祭はまだまだ続きますでしょう。お照さんが教えてくれたのだけど、附祭というのが面白いらしいじゃないの。それを見る前に眠くなったらいやだわ」
お腹いっぱいになったら眠くなる、だから食べないという。だけど女将はもともと少食気味であることはお照はよく知っている。
気づけば高欄にもたれて眠るシャルルがいる。
「あらら。寝不足だもの、仕方ないですねえ」
お照はシャルルを背もたれのある椅子に座らせた。附祭が来たら起こしてあげればいい。と思っていたが、「わあ」という声に驚いてシャルルが跳ね起きた。
「あらあらあら」
臆病な家斉の声に続くのは女将ののんきな声。その視線の先を見ると女将の皿があり、その皿の上ではねずみが鎮座している。しかも食べ物を選っていた。
「ねねねねずみだ。ね、ねずみ、ねずみいッ……!」
家斉は呆けたようにねずみを連呼した。体を弄られて以来、すっかりねずみ嫌いになっている。
「ねずみが毒味をしてくれるみたいね」
女将はにこにこと笑っている。
「はいはい。わたしが退治すればいいんでしょ」
お照はねずみを掬い上げた。見間違いようのない、あのねずみである。
「早く殺せ。首を折れ」
「お祭の日になんてこと言うんですか」
お照はねずみを手のひらに乗せて胸に抱くように持った。命の恩人、いや恩ねずみである、粗末には扱えない。
「庭に放してきますね」
「莫迦な。ねずみなど殺してしまえ」
家斉の言葉は聞こえないふりをしてその場を離れようとしたとき、女将が歓声をあげた。
「見てごらんなさい、お照さん。俄を思い出すわね」
お囃子にのってやってきたのは揃いの着物を着た二十人ばかりの女たち。女だけが山車を牽いていた。
「気分がとてもいいから聞いておこうかしら。ショーグン、わたくしたちが帰国する手筈はどうなっておりますの?」
お照はねずみを手に載せたまま、そっと聞き耳を立てた。
「その件は順調に進んでおる。松平から取り上げた船があってな。たいそう立派なものだ。だから安心していなさい」
「帰国のためにわざわざ用意してくださった船かしら」
女将が小首を傾げて訊ねる。
「……うん、まあそうだな」
言い淀んだあたり、怪しい。松平定信から取り上げたということは新造船ではなさそうだ。抜け荷の密貿易に益していた船に違いない。
「立派な船なのですか」
「ああ、もちろんだ。米や酒を運んでくる船より大きい」
「あんなような船でしょうか」
庭先を宝船が通りすぎていく。張り子の七福神が仲よく並んでいる。
「いや、もっと大きくて、……そうだな、女将の頭に載っている帆船とよく似ている」
「あんなに大きいんですか」
帆柱が三本も立っているそれは百福神は優に乗れそうだ。
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「いつ乗れるの。早く乗りたい!」
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