江戸のアントワネット

あかいかかぽ

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百十三、 大乱戦

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 次の瞬間、なにかが弾けるような高い音がした。

「う……?」

 温操舵手は匕首を落とした。続いて床に跪く。まるで女将に拝礼するような体勢で。

「どうしました!?」

 棒手裏剣男は怪訝そうに顔をしかめた。
 トラが温操舵手に走り寄る。

「しっかりしてください!」

 トラが温操舵手の上体を抱きかかえた。温操舵手は苦しげにその身をそらす。深紅に染まった胸が露わになった。どくどくと血が噴き出している。

「温操舵手!」

 自分の身に起こったことが信じられないといった表情で、温操舵手は息を引き取った。

「トラさん。あなたの星を撃ち落としてごめんなさいね」

 女将は辛そうにうつむいた。

「なにしたんだい!?」

「てっ…ぽう……か?」

 家斉が問いかけた。

「そうよ」

 女将は頭上から帆船を取りはずした。しっかりと固定されていたらしく、結髪がほどけて、お照と同じようなおろし髪になる。張り子の部分を毟ると中から鉄砲が現れた。巣口すぐち(銃口)からか細い煙が出ている。
 引き金に紐を結び、結髪とローブの下をくぐらせて引っ張れるようにしていたのだ。そんなからくりよりも女将が温操舵手を殺した事実に驚いた。
 女将は鉄砲の巣口を棒手裏剣男に向けた。ためらいがない。うっすらと笑みさえ浮かべている。
 
「エモノを捨てて、両手をあげなさい。高く」

 棒手裏剣男は隠し持っていた暗器を投げ捨てて両手を高く上げた。
 上覧台を囲んでいた番士たちがわっと群がり、棒手裏剣男を引きずり下ろした。
 もう一人の禿頭男は慌ててトラのそばに寄った。番士がトラの威容に恐れをなして容易に近づけないでいることを察したのだろう。

「トラ、こうなったら、おれたちだけでも宿願を……」

 家斉だけでも殺そう。禿頭男はトラを促した。
 トラが大鉈を横凪ぎに振るった。鉈は禿頭男の脇腹にめりこんだ。刃が人体のほうを向いていたら即死だったろう。

「う、裏切るのか、トラ」

「信じたおいらが莫迦だった。いまは反省しとる」

 トラの両目から涙が溢れた。いや、涙ではないのかもしれない。真っ赤だ。

「正しいと信じ尽くせばいいのだ。おまえは亭主も裏切ったのだ。死ぬまで反省し続ける気か。将軍を殺し、西方弥勒を殺せ! 仇を討て!」

「心変わりは女にはよくあるのよ。いちいち反省なんてしなくてよろしいのよ」

「女将さん、余計なこと言わないで」

 お照は両手を広げて女将の前面に立ちはだかった。お照は武器を持っていない。この身を盾にして守るしかない。

「わたくしにはテッポウがあるから、大丈夫よ」

「そういうわけにはいきません」

「忠節は侮りがたいものね。無粋ですわ」

 どこかで聞いたような台詞だ。だがそんなことに気を取られている場合ではない。
 女将が自身のローブに手を入れて、なにかを引っ張り出す気配をお照は背中越しに感じた。嫌な予感がする。女将のローブからパニエの出っ張りが消えた。

「これをお使いなさいな」

 肩越しに手渡されたものをお照はしっかりと受け取った。女将のパニエに隠されていた武器。家斉から下賜された名刀だ。
 三寸ほど引き抜く。刀身に自身の顔貌が映った。まるで武士のような顔をしている。いや、もっと恐ろしい、鬼の顔だ。
 大切な者を守るために人間の心を捨てた顔だ。
 お照は心中で唸って、鞘を投げ捨てると、正眼に構えた。

「トラさん、下がってください。そのハゲはわたしが成敗します!」

 トラの返事を待たず、お照は斬りかかった。

「やあー!」

「む」

 男はギリギリのところで避けた。お照の太刀筋を正確に読んでいるのだろう。

「すばやい!」

 幾度も果敢に打ちかかるが、するりするりと避けられてしまう。
 お照の太刀筋に逃げはない。切先にぶれはない。もう迷いはない。
 だが町娘が片手間で習った剣技にすぎない。真剣を構えたこともない。膂力もない。
 勝てない。徐々に、お照の気力を殺がれていった。

「あ……!」

 禿頭男は卑怯にもお照のローブの裾を踏んだ。
 お照は這いつくばるような格好で倒れた。

「お照さん!」

 腹に衝撃があった。刺されたのではなく、蹴られたとわかった。

「邪魔立てしやがって!」

 お照が戦闘不能になったと見るや、禿頭男は家斉に標的をかえた。せめて家斉をやってやろう。温操舵手と仲間の仇として。
 その思いは倒れ伏したお照にも推量できた。
 その思いをぶった切ったのはトラだった。大鉈で禿頭男の小刀を弾き飛ばす。弾き飛ばしただけでなく、指の骨も砕いたようだ。禿頭男が苦痛にのたうった。

「生まれてくる赤ん坊のためにも、おいらは胸を張って堂々と生きてやる。そのためにあんたを殺す!」

 トラの剣幕に恐れをなしたのか、男はちらりと背後をうかがった。家斉の前にはすでに幾人かの近侍が大刀を構えている。その中には血まみれの藤堂もいた。

「ちっ……!」

 禿頭男は逃走を企て、高欄に足をかけて屋根に飛び上がろうとした。

「逃がさない」

 お照は禿頭男の胴にすがりついて引き下ろした。
 禿頭男の腕がお照の顔面を殴打する。
 絶対に手を離すものかと必死で男を押さえた。

「ひいい、いたた」

 男が悲鳴を上げた。
 見ると、ねずみが二匹、禿頭男の鼻と耳を囓っていた。なぜ二匹いるのかはわからなかったが、加勢に助けられた。
 すぐに番士らが殺到して禿頭男は取り押さえられた。
 なんとも不格好で泥臭い戦いであった。

「無駄だ。おれたちが死んでも、仲間がやってくる……!」

「仲間ってこいつらのことか」
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