江戸のアントワネット

あかいかかぽ

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百十二、 混戦

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 ローブの左右腰部に張りだしたパニエの中に、大刀を隠すことはたしかにできた。

『隠しておきなさい』

 そう言って女将が差し出したのはバゲット。
 こういう場合、大刀ではないのか、とあのときお照は首を傾げた。下賜された立派な刀があるのに、なぜ失敗したバゲットなのか。
 塩を混ぜすぎたうえ熟成が足りず、かっちかちに焼きすぎた、直視するのも恥ずかしい失敗作。
 お照なりに理由は考えた。城内に武器を持ち込んだことが万が一バレたら、家斉暗殺を疑われて処刑を免れないかもしれない。護身用などという言い訳が通じるとは思えない。城内の警備は十全であるし、そもそも武士ではないお照は刀を帯びてはならないのである。
 女将はあらゆることを考慮したのだろう。城内で襲われることはないという楽観もあるだろうが、お照に人殺しをさせたくないという思いもあるに違いない。大刀でも木刀でもなく、バゲットは正しいのだ。
 お照はそう理解した。希望も含んでいる。
 だがこうなっては大刀が恋しくてたまらなかった。

 藤堂と戦っていた禿頭男が、家斉を指さした。

「まず将軍に死を。つぎにフランス女に死を。侍女に死を。ガキに死を」

 お照は女将のローブを縫い止めていた棒手裏剣に手を伸ばし、密かに引き抜いた。扱ったことのない武器だが、手の中にあるだけで心強い。せめて一人は仕留めてやる。
 一番厄介なのは棒手裏剣の男。だが温操舵手を止めないと家斉が殺される。

「だああああ!」

 奇声とともに唐突に上覧台に上がってきた大きな影があった。トラだ。大鉈を握っている。

「温操舵手、加勢に来ました!」

「トラさん、どうして……! ご亭主と穏やかな暮らしに戻るのだと信じていたのに」

「うちのが牢屋で世話になってるみたいだね。悪いと思ってるよ」

 トラは顔をくしゃりと歪めた。

「ほんとに悪いと思ってる。いろんなとこに迷惑かけちまって。思い残しがないように、悔いがないように、自分が命をかけるのはどうしたらいいのか、よく考えたらこうなったんだよ」

「トラさん……!」

 胸がきしんだ。お照はトラを思いとどまらせる言葉を持たない。空虚な非難などなんの役にも立たない。ただ、右手に握った棒手裏剣をトラに投げることはしたくなかった。
 トラが一歩前に出た。

「温操舵手、わいにやらせてくんな。将軍を殺すのは」

「なんだと」棒手裏剣男が唾を飛ばした。「おい、出しゃばるな。おれが遠慮して温操舵手に残しておいた獲物だぞ」

「これが将軍ってやつかい」

 ドスドスと床を踏みならしてトラは将軍に近寄った。
 家斉の目が恐怖で見開かれる。

「なんだ、この化け物は……」

「この将軍ってのが仲間を殺したやつなんだねえ。びっくりだよ、思ってたよりもちっぽけじゃないか」

 トラがまとう気迫に気圧されたのか、温操舵手が後退った。

「トラ、譲ってやる。そいつを殺せ」

「温操舵手が望むならもちろん殺すよ。でもさ、本当に望んでるかい」

「なに……?」

「将軍は悪の親玉で、女将さんやお照さんは裏切り者で、結社の掟では殺さなきゃいけないってわかってるけどさ、でも殺しちゃったら次はどうするのさ。物語は終わる。結社はバラバラになっちまうじゃないか」

「掟を守らねば、我らは存在する意義を失う」そこで温操舵手はふっと息を吐いた。「だがそのとおりだ。殺しても殺さなくても、我らは終わりだ。祖国に帰ることも叶わないなら、同じことだ。ならば……」

 物語が終わる。権力に迫害されて国外に逃れてきた秘密結社は組織を保つための物語が必要なのだ。結束するためには大いなる敵が必要なのだ。
 国を取り戻すために白蓮教徒は同志を募った。同志は温操舵手と教団に物語を見出したが、いつしか夢物語となったのだ。

「それで、嘉祥を森に捨てたのかい」

「なるほど。加勢は嘘か。文句を言いに来たのだな」

 棒手裏剣男が動いた。
 嘉祥というのがだれなのかはわからないが、トラが憤っているのはその人物のためらしい。トラの夢物語は破綻したのだ。

「あ……」

 纏足の娘のことだと悟った。
 武道場から逃走するときに連れて行ったのに、中途で捨てたのか。そこまで彼らは追い詰められているのだ。

「早く片付けてくれよ。足止めにも限界がある」手持ちの暗器が少なくなってきたのか、棒手裏剣男は庭の番士に向かって「近づくな。一歩でも動いたら将軍の心臓を射貫くぞ」と脅した。

「文句じゃない。……たしかめたくて……」

 それでもまだトラは躊躇っていた。
 ここぞとばかりにお照は声をふるった。

「仇討ちが終わってめでたしめでたしなんか、この世にはない! ふくれあがった憎悪は次の標的がほしくなる。憎む相手がいなくなると組織が保てなくなる。いつか白蓮教徒同士で殺し合いをすることになるよ!」

「そのとおりよ」女将も口を開いた。「西方弥勒が予言します。ショーグンをシイすればあなたたちは後戻りができなくなる。自滅よ。カイヒする方法はひとつ。温操舵手を殺すこと。そして新しい指導者を立てなさい」

 女将が一輪の百合のように立ちあがった。さりげなくシャルルを後ろにかばっていた。

「たとえば、わたくしのような者を!」

 お照は思わず悲鳴をあげそうになった。白蓮教の新しい指導者に名乗り出るなんて。
 案の定、温操舵手は憎しみに顔を歪め、女将に向かって駆けだした。わずか数歩の距離だ。
 お照は棒手裏剣を投げた。躊躇などしていられない。おのれのなかに、まぎれもない殺意があった。嫌悪と高揚感がないまぜに燃え上がる。温操舵手の胸に刺されと強く願った。

「あ……!」

 お照の殺意は容易に弾かれた。胸甲に防がれたのだ。お照の膂力はあっけないものだったのだ。

「殺してやる!」

 温操舵手の匕首がいまにも女将の喉を突くかと思われた。

「この距離なら……外さないわ」

 女将が呟いた。
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