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十一、 一碗一両
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お照が作ったものはブールといい、牛乳に含まれる脂肪が固まったものだった。
女将とシャルルのいたフランスという国では、ブールは食事にも菓子にも欠かせない材料なのだという。
ということで女将は「ノン」と言ってブールを譲るのは断った。
女将はお照に指示を出す。
「からになったオカモチに出来たてのクレームキャラメルを入れてあげて」
「はい、女将さん」
淡黄色に白紗の湯気をまとった出来たてほやほやの菓子を見てるだけで、愛嬌ではない本物の笑みが浮かんでしまう。
「昼に届けてもらったマカロンも大評判でした。またよろしくお願いします」
弥五郎は愛想を振りまく。
「ベルサイユのクレームキャラメルは大評判ですよ。これからも万寿屋だけに卸してくださいね」
ベルサイユとはなんだろう。また知らない言葉だ。覚えなくてはいけないことが山ほどある。
「安心なさい、たくさんは作れないから」
「そうですかねえ」そこで弥五郎がお照をちらりと見やる。「浮気を疑いたくありませんが、一碗一両の高値でも売れるのは数が限られているからなんですよ。将軍さま所縁の牛の恵みと異国美人のお手製を食べられるってえのが、江戸の旦那衆には自慢なんですから」
一碗一両──。
驚いたお照はクレームキャラメルが入ったおかもちを取り落としそうになった。
まさかそんなに高価な食べ物だったなんて。将軍さま所縁の牛の乳を使ったとはいっても、いくらなんでも高すぎる。
だが江戸は見栄の文化である。そうあってこそと納得する思いもある。とくに吉原の客は見栄と意地にべらぼうな大枚をはたく。
万寿屋としか取引をしないのも価値を下げないためだろう。新しくお照を雇った理由を弥五郎は疑っているに違いない。
「万寿屋さんを裏切るわけないじゃありませんか。いつもマゴコロのこもった美味しいお菜をありがとう。マゴコロにはマゴコロをお返しいたしますわ」
「……明日も真心をお持ちしましょう」
苦笑いの弥五郎が引き取ったあと、女将はお照に向き直った。
「お照さん、お菜を二階のターブル(テーブル)に運んでちょうだいな。食事にいたしましょう」
一人一人取り分けた箱膳ではなく、大きな作業台のようなターブルにお菜がずらりと並べられた。シャルルと女将がターブルを囲む。
「お照さんはそちらのシェーズ(椅子)にお座りになって」
「あの、わたしもここで一緒に食べてよろしいのですか」
奉公人が主人と同じターブルにつくなど畏れおおい。へっついの隣で残りものをかっこめれば上々だ。
「ベルサイユの看板娘になるのですもの。エンリョはいらないわ」
「ベルサイユ、というのは」
「うちの店の名前ですよ。ほら、エンリョせずお食べなさい。どのお菜も美味しいわ」
「はい、いただきます」
耕地屋という名前ではなかったか、とお照は内心で首をひねる。
だがお菜を頬張るのに忙しく重ねて問ういとまがなかった。白飯に味噌汁と香の物が定番食のお照にとって、初めてのご馳走と言ってよかった。
「お照、ベルサイユというのはね」
シャルルが箸を使って魚の骨と身を分けながら教えてくれた。小さな手なのにとても器用だ。
「耕地屋のこと。ベルサイユはフランス語で『土地を耕す』って意味なんだ。そしてベルサイユという場所に、お母さまとぼくは住んでたんだよ」
「耕地屋をベルサイユと読むんですね」
故郷の名前を屋号にすることはよくある。うっかり舌を噛みそうになる名前だけど。
「こちらも食べてごらんなさい」
白飯の代わりにパンという食べ物をすすめられた。女将の故郷では米ではなく小麦粉のパンが主食だという。
噛みしめると小麦の香りと甘みが口中に拡がった。
「これがフランスの味……! すごく美味しい」
「おほほ。お照さんはきっとフランスでも暮らしていけるわね」
女将は小さくちぎったパンをつまんで、ゆっくりと品良く口に運ぶ。少量をよく噛んで食べるとすぐお腹いっぱいになる。女将は小食の質らしい。
「お照、それはブリオッシュっていうパンだよ。ブールと卵が入ってるんだ。こうやって食べてもいいんだよ」
シャルルはちぎったパンを煮付けの汁につけて食べた。
真似をしてみる。
口の中が福に満たされるだけでなく、皿が綺麗になる。無駄のない賢い食べ方だ、とお照は思った。
どこからか三味線の音が聞こえてきた。格子窓から外に目を凝らす。夕暮れとは思えないほど明るい。
「トレビアンな清掻きね。夜見世が始まったようだわ。お照さん、キョーミがあるならケンブツにいかれてけっこうよ」
「え、いいんですか」
「自分が住むところ、知っておいたほうがよろしいでしょう」
一日で千両の金が動く場所が江戸にはみっつある、と言われている。朝は日本橋の魚市場、昼は歌舞伎興行の芝居町、夜はここ吉原だ。
吉原の真骨頂は日が暮れてからだという。
見物に出たとしても、引手茶屋の豪奢な座敷で花魁と酒宴をともにはできないが、懐が寂しい男たちにまざって名物の花魁道中見物くらいはできるだろう。
裏長屋の住人たちが話していた噂が耳によみがえる。幾千万の高張提灯に照らされた花魁の打ち掛けの金糸銀糸のきらめきは目が潰れるほど眩しいのだとか。吉原は毎日が祭りのようだとか。
お照が想像を巡らしていると、
「ねえ、お母さま」
シャルルが遠慮がちに口を開いた。
「ぼくが道案内してあげてもいいでしょうか」
「さっき言いましたよね、シャルル」
「はい、でも……夜はお照が迷っちゃうかもしれないので……」
「お照が一人で出かけるのは許します。わたくしはわがままなシャルルを悲しく思います」
シャルルは女将から外出禁止を言い渡されている。お照は慌てて手を振った。
「えーと、今日はけっこう疲れちゃったから、洗いものをしたら早く寝たい、かな」
しゅんとなったシャルルを見たら一人でうきうき出かけることなどできない。
「エンリョしなくてもいいのですよ」
「いえ、お腹もいっぱいになりましたし、あらら、にわかに眠気が」
大口を開けてあくびの真似をしてみせた。
女将とシャルルのいたフランスという国では、ブールは食事にも菓子にも欠かせない材料なのだという。
ということで女将は「ノン」と言ってブールを譲るのは断った。
女将はお照に指示を出す。
「からになったオカモチに出来たてのクレームキャラメルを入れてあげて」
「はい、女将さん」
淡黄色に白紗の湯気をまとった出来たてほやほやの菓子を見てるだけで、愛嬌ではない本物の笑みが浮かんでしまう。
「昼に届けてもらったマカロンも大評判でした。またよろしくお願いします」
弥五郎は愛想を振りまく。
「ベルサイユのクレームキャラメルは大評判ですよ。これからも万寿屋だけに卸してくださいね」
ベルサイユとはなんだろう。また知らない言葉だ。覚えなくてはいけないことが山ほどある。
「安心なさい、たくさんは作れないから」
「そうですかねえ」そこで弥五郎がお照をちらりと見やる。「浮気を疑いたくありませんが、一碗一両の高値でも売れるのは数が限られているからなんですよ。将軍さま所縁の牛の恵みと異国美人のお手製を食べられるってえのが、江戸の旦那衆には自慢なんですから」
一碗一両──。
驚いたお照はクレームキャラメルが入ったおかもちを取り落としそうになった。
まさかそんなに高価な食べ物だったなんて。将軍さま所縁の牛の乳を使ったとはいっても、いくらなんでも高すぎる。
だが江戸は見栄の文化である。そうあってこそと納得する思いもある。とくに吉原の客は見栄と意地にべらぼうな大枚をはたく。
万寿屋としか取引をしないのも価値を下げないためだろう。新しくお照を雇った理由を弥五郎は疑っているに違いない。
「万寿屋さんを裏切るわけないじゃありませんか。いつもマゴコロのこもった美味しいお菜をありがとう。マゴコロにはマゴコロをお返しいたしますわ」
「……明日も真心をお持ちしましょう」
苦笑いの弥五郎が引き取ったあと、女将はお照に向き直った。
「お照さん、お菜を二階のターブル(テーブル)に運んでちょうだいな。食事にいたしましょう」
一人一人取り分けた箱膳ではなく、大きな作業台のようなターブルにお菜がずらりと並べられた。シャルルと女将がターブルを囲む。
「お照さんはそちらのシェーズ(椅子)にお座りになって」
「あの、わたしもここで一緒に食べてよろしいのですか」
奉公人が主人と同じターブルにつくなど畏れおおい。へっついの隣で残りものをかっこめれば上々だ。
「ベルサイユの看板娘になるのですもの。エンリョはいらないわ」
「ベルサイユ、というのは」
「うちの店の名前ですよ。ほら、エンリョせずお食べなさい。どのお菜も美味しいわ」
「はい、いただきます」
耕地屋という名前ではなかったか、とお照は内心で首をひねる。
だがお菜を頬張るのに忙しく重ねて問ういとまがなかった。白飯に味噌汁と香の物が定番食のお照にとって、初めてのご馳走と言ってよかった。
「お照、ベルサイユというのはね」
シャルルが箸を使って魚の骨と身を分けながら教えてくれた。小さな手なのにとても器用だ。
「耕地屋のこと。ベルサイユはフランス語で『土地を耕す』って意味なんだ。そしてベルサイユという場所に、お母さまとぼくは住んでたんだよ」
「耕地屋をベルサイユと読むんですね」
故郷の名前を屋号にすることはよくある。うっかり舌を噛みそうになる名前だけど。
「こちらも食べてごらんなさい」
白飯の代わりにパンという食べ物をすすめられた。女将の故郷では米ではなく小麦粉のパンが主食だという。
噛みしめると小麦の香りと甘みが口中に拡がった。
「これがフランスの味……! すごく美味しい」
「おほほ。お照さんはきっとフランスでも暮らしていけるわね」
女将は小さくちぎったパンをつまんで、ゆっくりと品良く口に運ぶ。少量をよく噛んで食べるとすぐお腹いっぱいになる。女将は小食の質らしい。
「お照、それはブリオッシュっていうパンだよ。ブールと卵が入ってるんだ。こうやって食べてもいいんだよ」
シャルルはちぎったパンを煮付けの汁につけて食べた。
真似をしてみる。
口の中が福に満たされるだけでなく、皿が綺麗になる。無駄のない賢い食べ方だ、とお照は思った。
どこからか三味線の音が聞こえてきた。格子窓から外に目を凝らす。夕暮れとは思えないほど明るい。
「トレビアンな清掻きね。夜見世が始まったようだわ。お照さん、キョーミがあるならケンブツにいかれてけっこうよ」
「え、いいんですか」
「自分が住むところ、知っておいたほうがよろしいでしょう」
一日で千両の金が動く場所が江戸にはみっつある、と言われている。朝は日本橋の魚市場、昼は歌舞伎興行の芝居町、夜はここ吉原だ。
吉原の真骨頂は日が暮れてからだという。
見物に出たとしても、引手茶屋の豪奢な座敷で花魁と酒宴をともにはできないが、懐が寂しい男たちにまざって名物の花魁道中見物くらいはできるだろう。
裏長屋の住人たちが話していた噂が耳によみがえる。幾千万の高張提灯に照らされた花魁の打ち掛けの金糸銀糸のきらめきは目が潰れるほど眩しいのだとか。吉原は毎日が祭りのようだとか。
お照が想像を巡らしていると、
「ねえ、お母さま」
シャルルが遠慮がちに口を開いた。
「ぼくが道案内してあげてもいいでしょうか」
「さっき言いましたよね、シャルル」
「はい、でも……夜はお照が迷っちゃうかもしれないので……」
「お照が一人で出かけるのは許します。わたくしはわがままなシャルルを悲しく思います」
シャルルは女将から外出禁止を言い渡されている。お照は慌てて手を振った。
「えーと、今日はけっこう疲れちゃったから、洗いものをしたら早く寝たい、かな」
しゅんとなったシャルルを見たら一人でうきうき出かけることなどできない。
「エンリョしなくてもいいのですよ」
「いえ、お腹もいっぱいになりましたし、あらら、にわかに眠気が」
大口を開けてあくびの真似をしてみせた。
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