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十二、 怪しい影
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洗い物を片付け、内風呂があることに驚き、割り当てられた四畳半に入るころになって、お照はほっと溜息をついた。
部屋はごくふつうである。二階の女将の居室とシャルルの勉強部屋だけが西洋風に誂えられているのだ。
隅に置かれた行灯が枕屏風を照らしていた。枕屏風の陰には新しい夜具。
いつもと違う布団の感触は、親元を離れたのだなあ、とお照をしみじみとさせた。
父はお松さんとうまくやっているだろうか。手前勝手なことばかり言って困らせていないだろうか。お照が出て行ったことでせいせいしているだろうか。
「娘に関心ないだけなのかな。女将さんに比べたら優しいのかしら」
どうして女将さんは息子にああも厳しいのだろうか。
こどもらしさを咎められるシャルルが不憫で仕方ない。
ふたりが遠い異国から逃げてきたというのは本当なのだろう。命を狙われることもあったのだろう。怖い思いをたくさんしてきたのだろう。家族ははなればなれになり、幼いシャルルが心細く思うのは当然のことだろう。
頼れるのは母親だけなのだ。
「もしわたしが母親だったら思い切り甘やかしてあげるんだけどなあ」
土壁を通してかすかに聞こえてくるのは子供の夜泣きではなく三味線や呼び込み、喧嘩のざわめき。さすがは不夜城吉原だ。
目を閉じて外の様子を想っていると、なにやら耳障りな音がした。
ゾリ、ゾリリと壁を擦るような低い音。気のせいではない。
お照はがばと身を起こした。
廊下の連子窓から外をうかがう。隣家とは人ひとり通れるかどうかのせまい隙間しかない。そこに黒い影がうごめいている。
泥棒だ。ぴんときたお照は音をたてないように土間に向かった。
心張り棒を片手にそっと玄関を出る。右隣との境界に人影がひそむ。お照は右に回り込んで暗闇に向かって叫んだ。
「そこにいるのは誰ですか。出てきなさい!」
闇はシンと息をひそめる。
幻聴だったのかと思った矢先、黒い影がもぞりと揺らぎ、突進してきた。
「はッ」
突き飛ばされる。お照は寸前で横によけ、振り上げた心張り棒を相手の背に叩きこんだ。続けてふくらはぎを打つ。
地に手をついたのは三十五、六の男。お照の攻撃をでんぐり返しでよけた男は、そのまま立ち上がると仲之町の方面に走って逃げた。
「待て!」
追いかけようとしたお照の背に「うるさいねえ」と声がした。隣家の玄関からだ。
振り返ると四十絡みの女がお照をにらんでいる。
「棒なんか振り回して、なにしてんだい」
「泥棒がいたんですよ」
「泥棒だって? どこさ」
仲之町のほうを指さしたが男の姿はとうに消えている。
「それよりあんた」女はお照を手招きした。「異人の家に奉公に来たんだって? 噂になってるよ。なんでそんな莫迦なこと」
「莫迦なこと?」
女は声をひそめた。
「……だってあの異人、外国の罪人だっていうじゃないか」
「え」
「かかわらないほうがいいよ。早く出て行ったほうがいい」
女は顔をくしゃりとしかめた。
「どんな罪を犯した罪人なんですか」
「そんなこと知らないよ。でもきっと相当のことさ。番所の役人がいつも監視してるくらいだからね」
「では、隣に住んでいて、なにか嫌な思いをしましたか」
「別にそんなんじゃないけど。ろくに近所づきあいもしないからみんな呆れてるんだよ。何考えてるかわかんなくて気味が悪いじゃないか。泥棒がいたのがほんとならさ、異人のせいで治安が悪くなってるんだよ。今日だって牛がうろついていたしさ。迷惑だよ」
女将が近所と仲よく暮らせていないことはよくわかった。
お照はにっこりと微笑んで女に一歩近寄った。
「お照ともうします。もうご存じみたいですけど、お隣で働くことになりました。女将さんに追い出されるまでは居座るつもりですのでよろしくお願いします」
「まったく……」
お照は丁寧に頭を下げた。その目線の先になにかが落ちている。
女も気がついたようだ。
「男ものの、煙草入れ……、あ、さっきの……」
でんぐり返ったときに泥棒が落としていったものに違いない。これを調べれば泥棒の正体がわかるかもしれない。
お照は手を伸ばした。
だが横から女がひったくるように拾った。
「これはあたしが預かるよ」
「それは泥棒のですよ。わたしが今から番所に届けてきます」
お照が言い募ると、女は口ごもった。
「これは……あれだよ」
「?」
「泥棒じゃないよ。……うちの、あれだよ」
「うちのあれ?」
「察しの悪い子だねえ。うちの亭主の持ちもんなんだよ。悋気の虫が騒いでちいと口げんかになっちまったのさ。それで閉め出したから……二階から忍び込もうとしたんだろ。だから……泥棒じゃなかったのさ。あんたの勘違い!」
女は恥ずかしくなったのか、伝法な口調になった。
「知らぬこととはいえ、すみません。ご亭主を泥棒呼ばわりして。しかも背中とすねを力一杯叩いてしまいました」
「なんて乱暴な娘なんだい。怪我でもしていたら許さないからね」
女は玄関に入ってぴしゃりと戸を閉めた。
「はあ」
嘆息がこぼれた。
春とはいえ夜分は吐く息は白くかすむ。
泥棒でなかったのは僥倖だと思うことにしよう。
あたりに目を向けると、周囲の家の窓からこちらを覗く視線を感じた。お照が見返すと気配が消える。興味津々でようすをうかがっていたのだろう。
お照は隣家の玄関に手をかけた。亭主のために心張り棒をはずしているはずだ。
「なんだい、なんか用かい」
部屋はごくふつうである。二階の女将の居室とシャルルの勉強部屋だけが西洋風に誂えられているのだ。
隅に置かれた行灯が枕屏風を照らしていた。枕屏風の陰には新しい夜具。
いつもと違う布団の感触は、親元を離れたのだなあ、とお照をしみじみとさせた。
父はお松さんとうまくやっているだろうか。手前勝手なことばかり言って困らせていないだろうか。お照が出て行ったことでせいせいしているだろうか。
「娘に関心ないだけなのかな。女将さんに比べたら優しいのかしら」
どうして女将さんは息子にああも厳しいのだろうか。
こどもらしさを咎められるシャルルが不憫で仕方ない。
ふたりが遠い異国から逃げてきたというのは本当なのだろう。命を狙われることもあったのだろう。怖い思いをたくさんしてきたのだろう。家族ははなればなれになり、幼いシャルルが心細く思うのは当然のことだろう。
頼れるのは母親だけなのだ。
「もしわたしが母親だったら思い切り甘やかしてあげるんだけどなあ」
土壁を通してかすかに聞こえてくるのは子供の夜泣きではなく三味線や呼び込み、喧嘩のざわめき。さすがは不夜城吉原だ。
目を閉じて外の様子を想っていると、なにやら耳障りな音がした。
ゾリ、ゾリリと壁を擦るような低い音。気のせいではない。
お照はがばと身を起こした。
廊下の連子窓から外をうかがう。隣家とは人ひとり通れるかどうかのせまい隙間しかない。そこに黒い影がうごめいている。
泥棒だ。ぴんときたお照は音をたてないように土間に向かった。
心張り棒を片手にそっと玄関を出る。右隣との境界に人影がひそむ。お照は右に回り込んで暗闇に向かって叫んだ。
「そこにいるのは誰ですか。出てきなさい!」
闇はシンと息をひそめる。
幻聴だったのかと思った矢先、黒い影がもぞりと揺らぎ、突進してきた。
「はッ」
突き飛ばされる。お照は寸前で横によけ、振り上げた心張り棒を相手の背に叩きこんだ。続けてふくらはぎを打つ。
地に手をついたのは三十五、六の男。お照の攻撃をでんぐり返しでよけた男は、そのまま立ち上がると仲之町の方面に走って逃げた。
「待て!」
追いかけようとしたお照の背に「うるさいねえ」と声がした。隣家の玄関からだ。
振り返ると四十絡みの女がお照をにらんでいる。
「棒なんか振り回して、なにしてんだい」
「泥棒がいたんですよ」
「泥棒だって? どこさ」
仲之町のほうを指さしたが男の姿はとうに消えている。
「それよりあんた」女はお照を手招きした。「異人の家に奉公に来たんだって? 噂になってるよ。なんでそんな莫迦なこと」
「莫迦なこと?」
女は声をひそめた。
「……だってあの異人、外国の罪人だっていうじゃないか」
「え」
「かかわらないほうがいいよ。早く出て行ったほうがいい」
女は顔をくしゃりとしかめた。
「どんな罪を犯した罪人なんですか」
「そんなこと知らないよ。でもきっと相当のことさ。番所の役人がいつも監視してるくらいだからね」
「では、隣に住んでいて、なにか嫌な思いをしましたか」
「別にそんなんじゃないけど。ろくに近所づきあいもしないからみんな呆れてるんだよ。何考えてるかわかんなくて気味が悪いじゃないか。泥棒がいたのがほんとならさ、異人のせいで治安が悪くなってるんだよ。今日だって牛がうろついていたしさ。迷惑だよ」
女将が近所と仲よく暮らせていないことはよくわかった。
お照はにっこりと微笑んで女に一歩近寄った。
「お照ともうします。もうご存じみたいですけど、お隣で働くことになりました。女将さんに追い出されるまでは居座るつもりですのでよろしくお願いします」
「まったく……」
お照は丁寧に頭を下げた。その目線の先になにかが落ちている。
女も気がついたようだ。
「男ものの、煙草入れ……、あ、さっきの……」
でんぐり返ったときに泥棒が落としていったものに違いない。これを調べれば泥棒の正体がわかるかもしれない。
お照は手を伸ばした。
だが横から女がひったくるように拾った。
「これはあたしが預かるよ」
「それは泥棒のですよ。わたしが今から番所に届けてきます」
お照が言い募ると、女は口ごもった。
「これは……あれだよ」
「?」
「泥棒じゃないよ。……うちの、あれだよ」
「うちのあれ?」
「察しの悪い子だねえ。うちの亭主の持ちもんなんだよ。悋気の虫が騒いでちいと口げんかになっちまったのさ。それで閉め出したから……二階から忍び込もうとしたんだろ。だから……泥棒じゃなかったのさ。あんたの勘違い!」
女は恥ずかしくなったのか、伝法な口調になった。
「知らぬこととはいえ、すみません。ご亭主を泥棒呼ばわりして。しかも背中とすねを力一杯叩いてしまいました」
「なんて乱暴な娘なんだい。怪我でもしていたら許さないからね」
女は玄関に入ってぴしゃりと戸を閉めた。
「はあ」
嘆息がこぼれた。
春とはいえ夜分は吐く息は白くかすむ。
泥棒でなかったのは僥倖だと思うことにしよう。
あたりに目を向けると、周囲の家の窓からこちらを覗く視線を感じた。お照が見返すと気配が消える。興味津々でようすをうかがっていたのだろう。
お照は隣家の玄関に手をかけた。亭主のために心張り棒をはずしているはずだ。
「なんだい、なんか用かい」
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