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十四、 侍女に任命される
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体を売ることとお菓子を売ること、売り物は違えどもどちらも商売だ、などと言ったら女将は憤怒するかもしれない。
「さっきの夕餉はとても美味しかったです。生まれて初めて、お腹がいっぱいで苦しくなりました。たくさん食べられて嬉しいとも思いました。でも女将さんは、お腹が空いてひもじい、明日も明後日の食べ物にありつけないかもしれないっていう絶望的な暮らしは経験したことがないでしょう。わたしも父がいるおかげで、そこまで悲惨な生活は送ってこなかったですけど……」
裏長屋の狭い一室に父を置いてきたことを思い出して胸がちくりと痛む。
「女郎は貧農出が多いんです。仕事も居場所も選べない。生きるために必死な姿が卑しいと言うなら、言う人の心根が卑しいんです」
女将は黙ってお照の言うことを聞いていた。
「もし卑しさを探すのなら、吉原はご公儀が唯一認可した遊里ですから、忘八の楼主から冥加金を絞り取るご公儀がもっとも卑しいと言えるかもしれませんね。……なんて、半兵衛さんに聞かれたら怒られそうだけれど」
むきになって女郎を擁護していることにお照自身、気づいていた。
同情はするが自分はなりたくはない、そう思っている。
過酷な勤めだ。畜生のように折檻される。死んだら寺に投げ込まれて終わりだ。
だからまだ仕事を選べたり居場所を選べたりする自分は、女郎よりマシだと安堵している。
心の奥底では女郎を見下しているのかもしれない。
女将に憤るのは、自分の中身を見せられている気分になるからだ。
「わたしも下々のものですが。おそばにいてよろしいので?」
おそるおそる、お照はたずねた。
「わたくしのお気に入りは別ですわ。ひとに自慢してもよろしくてよ」
女将に気に入られることは名誉のようだ。お照の反撃にもまるで動揺せず、表情に曇りはない。
「かつて女将さんは将軍さまと匹敵するぐらい裕福な暮らしをされていたのですね。そうとなれば吉原での暮らしは惨めな心持ちになりましょう。シャルルに厳しいしつけをするのも、過去への憧憬がさせているのでは」
「あら、おほほ」
女将は笑い出した。
「お照さんはショージキね。思ったことをショージキに表すのはよいことです」
「だったらシャルルも──」
「あの子にはそれが許されていないのよ。あなたに理解してもらうのはきっと難しい」
女将は目を細めた。悲しげ、というより、諦めた顔に見えた。
「お照さんのお話は、わかるわ。飢えた民衆が生き延びるために何でもするのはわたくしも目の当たりにしましたもの。ひとは追い詰められるとチクショーになるのです」
シャルルの話を思い出した。怒れる民衆が槍の先に生首を刺したという恐ろしい話。
あれはフランスの米騒動だったのか。
「わたくしとシャルルはいずれはフランスに戻るのですから、ニホンの考え方に染まらないほうがよいのです。身分の上下を別にしてもニホンは……こどもに甘い国だと思いますし。にもかかわらず不思議ですね、民のほとんどが言葉を書いたり読んだりできるのですから。そこは素晴らしいと思いますわ。男の子も女の子も区別しませんし」
「女将さんの国では区別するのですか」
「オナゴは家庭生活にヒツヨーなチシキがあればよいのです。嫁に行ってこどもを産むことが一番ですから。それ以上を学ぶことは良くないと言われていますのよ」
なんとなく話がかみ合っていないような気がしたが、
「女将さんもですか。女将さんもそのような考えですか」
「おほほ。わたくしは身分が違うので、それなりに。なにしろ故郷の母は誰より賢い人でしたもの」
「そういえば日本に来て一年ですよね。たった一年。なのに通詞もなくしゃべれるなんて。異国の言葉を覚えるのはたいへんだったのでは?」
女将は誇らしげに微笑んだ。
「わたくしの故郷はオーストリアというの。その国はオーストリア語を話します。教養としてイタリア語も学びました。フランス語は当時のヨーロッパ宮廷の公用語でしたので学んではおりましたが、結婚が決まってからシンケンに取り組み、およそ一年で覚えました。十五歳のときです。言語をシュートクするのは得意なのです。といいますか、高貴な人間は数カ国語を話せるものです。トクベツなことではありません。でも、わたくしよりシャルルのほうが得意ですわね。シャルルは仮名文字なら読めますから。いまは筆の扱いかたにシクハックしています。お照さんに教えてもらいたいと思います」
お照は何度もうなずいた。
「わたしにできることならなんなりと」
「おほほ」
女将の笑声は鈴が転がるようで耳に快い。シャルルを叱る声よりずっと美しい。女将さんは朗らかでいるほうが魅力的だ。
「お照さんには菓子作りの手伝いをしてもらうほかに、わたくしの侍女を務めていただきたいわ。なにか気がついたことがあれば、必ずわたくしに報告すること。お照さんの知見は興味深いの。約束できるかしら」
「は、はい」
侍女の役割がなんだかわからないまま、お照はうなずいた。
「あとシャルルのシンペンケイゴも」
「え……身辺警護?」
「さっきの夕餉はとても美味しかったです。生まれて初めて、お腹がいっぱいで苦しくなりました。たくさん食べられて嬉しいとも思いました。でも女将さんは、お腹が空いてひもじい、明日も明後日の食べ物にありつけないかもしれないっていう絶望的な暮らしは経験したことがないでしょう。わたしも父がいるおかげで、そこまで悲惨な生活は送ってこなかったですけど……」
裏長屋の狭い一室に父を置いてきたことを思い出して胸がちくりと痛む。
「女郎は貧農出が多いんです。仕事も居場所も選べない。生きるために必死な姿が卑しいと言うなら、言う人の心根が卑しいんです」
女将は黙ってお照の言うことを聞いていた。
「もし卑しさを探すのなら、吉原はご公儀が唯一認可した遊里ですから、忘八の楼主から冥加金を絞り取るご公儀がもっとも卑しいと言えるかもしれませんね。……なんて、半兵衛さんに聞かれたら怒られそうだけれど」
むきになって女郎を擁護していることにお照自身、気づいていた。
同情はするが自分はなりたくはない、そう思っている。
過酷な勤めだ。畜生のように折檻される。死んだら寺に投げ込まれて終わりだ。
だからまだ仕事を選べたり居場所を選べたりする自分は、女郎よりマシだと安堵している。
心の奥底では女郎を見下しているのかもしれない。
女将に憤るのは、自分の中身を見せられている気分になるからだ。
「わたしも下々のものですが。おそばにいてよろしいので?」
おそるおそる、お照はたずねた。
「わたくしのお気に入りは別ですわ。ひとに自慢してもよろしくてよ」
女将に気に入られることは名誉のようだ。お照の反撃にもまるで動揺せず、表情に曇りはない。
「かつて女将さんは将軍さまと匹敵するぐらい裕福な暮らしをされていたのですね。そうとなれば吉原での暮らしは惨めな心持ちになりましょう。シャルルに厳しいしつけをするのも、過去への憧憬がさせているのでは」
「あら、おほほ」
女将は笑い出した。
「お照さんはショージキね。思ったことをショージキに表すのはよいことです」
「だったらシャルルも──」
「あの子にはそれが許されていないのよ。あなたに理解してもらうのはきっと難しい」
女将は目を細めた。悲しげ、というより、諦めた顔に見えた。
「お照さんのお話は、わかるわ。飢えた民衆が生き延びるために何でもするのはわたくしも目の当たりにしましたもの。ひとは追い詰められるとチクショーになるのです」
シャルルの話を思い出した。怒れる民衆が槍の先に生首を刺したという恐ろしい話。
あれはフランスの米騒動だったのか。
「わたくしとシャルルはいずれはフランスに戻るのですから、ニホンの考え方に染まらないほうがよいのです。身分の上下を別にしてもニホンは……こどもに甘い国だと思いますし。にもかかわらず不思議ですね、民のほとんどが言葉を書いたり読んだりできるのですから。そこは素晴らしいと思いますわ。男の子も女の子も区別しませんし」
「女将さんの国では区別するのですか」
「オナゴは家庭生活にヒツヨーなチシキがあればよいのです。嫁に行ってこどもを産むことが一番ですから。それ以上を学ぶことは良くないと言われていますのよ」
なんとなく話がかみ合っていないような気がしたが、
「女将さんもですか。女将さんもそのような考えですか」
「おほほ。わたくしは身分が違うので、それなりに。なにしろ故郷の母は誰より賢い人でしたもの」
「そういえば日本に来て一年ですよね。たった一年。なのに通詞もなくしゃべれるなんて。異国の言葉を覚えるのはたいへんだったのでは?」
女将は誇らしげに微笑んだ。
「わたくしの故郷はオーストリアというの。その国はオーストリア語を話します。教養としてイタリア語も学びました。フランス語は当時のヨーロッパ宮廷の公用語でしたので学んではおりましたが、結婚が決まってからシンケンに取り組み、およそ一年で覚えました。十五歳のときです。言語をシュートクするのは得意なのです。といいますか、高貴な人間は数カ国語を話せるものです。トクベツなことではありません。でも、わたくしよりシャルルのほうが得意ですわね。シャルルは仮名文字なら読めますから。いまは筆の扱いかたにシクハックしています。お照さんに教えてもらいたいと思います」
お照は何度もうなずいた。
「わたしにできることならなんなりと」
「おほほ」
女将の笑声は鈴が転がるようで耳に快い。シャルルを叱る声よりずっと美しい。女将さんは朗らかでいるほうが魅力的だ。
「お照さんには菓子作りの手伝いをしてもらうほかに、わたくしの侍女を務めていただきたいわ。なにか気がついたことがあれば、必ずわたくしに報告すること。お照さんの知見は興味深いの。約束できるかしら」
「は、はい」
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