江戸のアントワネット

あかいかかぽ

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二十三、 斉藤十郎兵衛

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 それは数歩先を歩いていた粋人の顔にはりついた。

「すみません」

「おや、岩井半四郎ですか」

 その男は芝居見物に来た客のようだ。浮世絵を手に取り笑顔を浮かべた。端正な顔はどこかで会ったことがある気がした。

「これはいい絵だ。風に盗まれないよう、気をつけて」

 男はお照に絵を返すと、滑るような足取りで芝居小屋の小さな木戸口に声をかける。

「いまはなにを演ってるんだい」

「あの」お照は男の背後から声をかけた。「間違っていたら申し訳ありません。あなたはどこぞの藩お抱えの能役者のお方ではございませんか」

 男は振り返ってお照をしげしげと眺めた。

「……なぜそれを」

 怪訝な顔でお照を見下ろした男は「ああ」と合点がいったと声をあげた。

「さきほどの。ご気分はよくなりましたか」

 よくよく思い返せば、家斉公陪覧ばいらんの席で、しかも演目の途中で気を失ったのだった。急に恥ずかしくなり、お照の顔が火照った。

「お照と申します。あのときは、たいへんな失礼を……」

阿波藩あわはん蜂須賀家はちすかけに仕える斉藤十郎兵衛さいとうじゅうろべえです。芝居がお好きなのですか」

「はい。斉藤さまもご興味が?」

 斉藤は苦笑した。目尻に皺が寄る。よく見ると、耳の上に白い髪が混じっていた。お照が思っていたよりずっと年嵩なようだ。舞台の上では十も二十も若く見えていたとは、役者とは不思議なものだ。

「敵情視察のようなものです。歌舞伎なんぞ河原者かわらもののこけおどしと侮っておりましたが、これほど盛況とは。猿楽さるがく(能狂言)も人形浄瑠璃も歌舞伎も、題材は似たり寄ったりなのですけどねえ。わたしもうかうかしていられません」

「おい、お照、なにやってるんだ」

 半兵衛が痺れを切らしてやってきた。何者だ、おまえ、と斉藤をにらみあげる。

「猿楽もんか。町人を気にしてもしかたあるめえ」


「ああ、そうですね。猿楽は無駄を削ぎ落とした所作が特徴ですから、庶民からしたら面白味がない」

「厳格に様式を守るだけだろ」

「権力におもねると芸は腐りますからね。歌舞伎だって油断してたらそうなりますよ。では……」

 斉藤は軽やかな身のこなしで木戸口に入っていった。

「ふん、すかしてやがる」

 半兵衛にはいい印象を残さなかったようだが、斉藤は斜に構えているようでいて偉ぶったところがない、実は素直な気質のお方なのではないかとお照には思えた。


 吉原の大門を潜るなりシャルルは、

さむらいごっこしよう」

 と、お照の手を引っ張った。
 下賜された大小で遊びたいことは明白だったから、お照は「いけません」とねめつけた。真剣を振り回して怪我でもしたらたいへんだ。

「お芝居とは違うのですよ、シャルル」

「でも、ぼくにくれたものなのに」

「ボウリョクはいけません。どうしてもというならレイピアを覚えてほしいわ」

「はい……」

 シャルルが黙ったのは、納得したからというよりも、悲しそうに眉をくもらせた女将の表情を見たせいだろう。
 女将は、お照の手から大小を受け取ると、

「これはわたくしがホカンいたしましょう」

 と言って、耕地屋にさっさと入っていってしまった。
 半兵衛がシャルルの頭をぽんと叩く。

「しかたないさ。吉原の中で抜刀されたら、おれだって困る。番所の人間として黙っていられない」

 日が暮れて、ちょうど遊客で賑わってきた頃合いだ。どのみち剣術ごっこなどしていたら、近所迷惑になってしまう。
 いまだって、ほら、四方八方から視線を感じる。あの異人の親子はなにか問題を起こすのではないかと面白がるような意地悪な視線を。

「わかりました」

 しゅんとなったシャルルに半兵衛は苦笑した。

「異国の剣は手に入らないが、木刀でよかったら明日持ってきてあげよう。二振りあればお照と遊べるだろう」

「余計なことは言わないでください」

 お照は半兵衛の肘を叩いた。

「お照にはぴんとこないかもしれないが、このくらいの歳の童は剣術ごっこが好きなんだ。なんならおれが相手してやってもいい」

 ぴんとこないどころかわかりすぎて、お照は胸が痛い。
 こどもらしい振る舞いをさせてあげたい、とお照も思う。だが怪我をしたりさせたりはもちろんのこと、乱暴な性格に育ってほしくないという女将の心配もよくわかるのだ。
 シャルルはまるでお照の困惑を読んだかのように、

「ありがとう、でも遠慮しときます。勝手な外出はまだお母さまに許してもらえないと思うから。でも……うん、ありがとう。いけない、ぼく、吉牛の世話をしなきゃ」

 言葉を飲み込んだシャルルはにこっと笑うと、吹っ切るように駆けだして、玄関に消えた。

「ちっと可哀想だな。他人のガキの育て方に文句を言うのもあれだが」

 半兵衛は口をとがらせる。

「女将さんに惚れていらっしゃるかと思ってましたが」

 お照は半兵衛の顔を覗きこんだ。
 半兵衛はむっとした顔を作る。

「そのように見せていただけだ。演技である」

「おや、そうでしたか」

「女将に言い寄る輩も追い払えるし、そう思わせとけば、おれがまとわりついていても誰も変だとは思わん。良策であろうが」

 半兵衛はますますムキになって言い募る。

「わたしが留守にしていた間、代わりに万寿屋にクレームキャラメルを届けてくださいましたか」

「むろんだ」

 あのときの女将と半兵衛のやり取りを思い出す。
『誰もいないほうが都合がいいのではないか』
 半兵衛が家探しでもすると女将は考えていたのだろうか。お照がじっと見つめていると、半兵衛は顔をしかめた。

「おれは見惚れるほどいい男か」

「頬が真っ赤ですよ」

「な……やましいことは何もしておらん!」

「しもやけかしら。春とはいえ、日暮れは寒いですからねえ。お風邪を召さないように」

「む」

 仲之町の提灯の灯りは遠く、半兵衛の頬は逆光で、真っ赤になっているかはお照にはわからない。寒い寒いと白々しく口に出し、それではと、お照は頭を下げた。

 酔っ払いが喧嘩してるよ、と人を呼ぶ声が聞こえてきて、半兵衛は舌打ちをしてそっちに向かっていった。その背が小さくなっていく。

 鬼頭が隠密だとしたら、半兵衛は下っ端の見張り役だろうか。

 女将とシャルルを守ることができるのは自分しかいないのかもしれない。
 お照は誰もいない土間で、心張り棒を両手でしっかりと握ると、気合いを込めて、見えない敵に幾度も振り下ろした。
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