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二十二、 歌舞伎と浮世絵
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結句、曽我物を一幕だけ観ることになった。どの小屋にするかはお照が決めた。
江戸っ子は仇討ち物語が大好きだ。お照もよく知っている話なので女将とシャルルに教えてあげることもできた。
洋装の異人親子は目立つ。物見高い連中から女将を守るように、半兵衛は周囲に睨みを効かせる。板の上の役者よりも注目を集めていたかもしれない。
小屋を出たときには、女将とシャルルはどこかぼうっとしていた。
疲れたのだろうと思い、芝居茶屋で休んでから帰ることにした。奥の板の間に腰を落ち着けた女将にお照はどきどきしながらたずねた。
「歌舞伎はどうでした、女将さん。退屈ではありませんでしたか」
「……お照さん、わたくし、驚きましたわ」
「お照、刀貸して!」
「なんですか急に。駄目ですよ、危ないですから」
お照はシャルルの手が届かない壁際に刀を避難させた。
するとシャルルは見えない刀で半兵衛に斬りかかる。仇討ちの見せ場、大立回りを真似しているようだ。父の仇、にっくき工藤祐経役は半兵衛の役割となっている。
「なんでおれが。シャルルが曽我五郎なら、おれは曽我十郎だろうが」
「違うよ、曽我十郎はお照だよ」
「あら」
ちょっと嬉しいお照である。
「面白かった?」
シャルルは青い目をきらきらさせて何度もうなずいた。
「面白かったよね、お母さま」
「ほとばしるパシオン(情熱)。フレール(兄弟)のすばらしいリアン(絆)。父のカタキをメッタザシにしたとき、よくやったとフレールを褒めてさしあげたかったわ」
どの小屋も正月は曽我兄弟を演じるのが倣いとなっている。とくに仇討ち前の『寿曽我対面』という演目が人気だ。華やかな祝祭の場面が新しい年明けにふさわしいからである。
正月興行が一段落した今の時節は、派手な大立回りが大受けだ。
女将とシャルルが気に入ってくれてよかったと、お照は胸を撫で下ろす。久しぶりの芝居見物にお照の心も浮き立っている。
「あれはなんですの」
女将は他の客を指さした。客の手には役者絵がある。
「誰のショウゾウガです? ほほほ、面白い顔をしていますこと」
芝居町には役者絵を扱った店があると話すと、女将は関心を示した。
「思い出のよすがに、役者絵をお買いになりますか」
「もちろんよ」
女将が店に向かうと、半兵衛が慌ててついていく。
「女将さん、勝手に歩かないでくださいよ。あんたになにかあったら、おれの可愛い首が胴体とさようならしちまう。あ、そこのおめえ、出て行け。貸し切りだ、入ってくんな」
半兵衛は店の入口で仁王立ちするものだから、他の客は中に入れない。店の主人は困惑顔だ。
ずらりと並んだ浮世絵を女将はつぎつぎと手に取っていく。女将は役者の顔や名前は知らないので、色合いや衣装や表情が気に入ればそれで充分のようだ。
「そ、そんなに買い込むんですか」
「フランスの絵とはまったく異なっていて面白いわ。お照さんはほしいものはないの。わたくしがアガナッてさしあげますわ」
店の主人は揉み手で「こちらもいかかでしょう」と奥からいくつも出してきた。
お照は勝川春潮の二枚組『四代目岩井半四郎の七変化』に惹きつけられた。
半四郎は名女形だ。美人画を得意とする春潮が所作の七役をあでやかに描き出している。
「それだけ? もっと選びなさい」
女将はなんて気前がいいのだろう。
嬉しくなったお照は勝川春英の『三代目市川高麗蔵の斧定九郎』、勝川春好の『五代目市川團十郎の暫』も手に取った。どれも目を奪われる。
「たしか団十郎はいまは蝦蔵でしたよね」と店主に問うと、
「そうそう、雑魚蝦のほうのエビ。自分はザコですからって。しびれるねえ」
店主は鰕蔵贔屓らしい。
「役者絵はやっぱり勝川派が多いのでしょうか」
「ああ、役者絵といったら勝川一門だね」
他の絵師も役者絵は描いているが人気は段違いだという。そこへ女将が紙束を抱きしめてやってくる。三、四十枚はあるだろうか。
「これで足りるかしら」
女将は小判を十枚、腰の隙間から取り出した。
店の主人も半兵衛もぎょっとした顔になる。浮世絵一枚の値はだいたい蕎麦一杯か二杯ほどである。紙や摺りがいいものは高直で蕎麦五杯ほどだが、お照の分を入れても二分(一両の二分の一)もいかないはずだ。
「あら、それだけでいいの? では一両お支払いします。お釣りは取っておきなさいな」
「ちょ……ッ。いけません、女将さん」
気前がいいどころではない。
「あら、だって、じゃらじゃらあっても重いだけじゃありませんこと」
「わたしが預かります」
お照は店主からきっちりとお釣りをもらった。
相場を知らないのはしかたない。
将軍に呼ばれたら伺候するという外国諸事指南役にだって、吉原で暮らすには充分な禄は出ているはずだ。
そのうえ女将の作るお菓子は高価なのによく売れる。
女将はお金に困ったことがないのだろう。なんとも羨ましいものだと、うきうきと駕籠に乗る女将をお照は見つめた。
「さて、今度こそ本当に吉原に戻るぞ」
半兵衛はお照の背とシャルルの頭を駕籠のほうに押した。そのとき春らしい旋風がお照を巻き込んで、手に持っていた浮世絵を一枚奪っていった。
「いけない……!」
江戸っ子は仇討ち物語が大好きだ。お照もよく知っている話なので女将とシャルルに教えてあげることもできた。
洋装の異人親子は目立つ。物見高い連中から女将を守るように、半兵衛は周囲に睨みを効かせる。板の上の役者よりも注目を集めていたかもしれない。
小屋を出たときには、女将とシャルルはどこかぼうっとしていた。
疲れたのだろうと思い、芝居茶屋で休んでから帰ることにした。奥の板の間に腰を落ち着けた女将にお照はどきどきしながらたずねた。
「歌舞伎はどうでした、女将さん。退屈ではありませんでしたか」
「……お照さん、わたくし、驚きましたわ」
「お照、刀貸して!」
「なんですか急に。駄目ですよ、危ないですから」
お照はシャルルの手が届かない壁際に刀を避難させた。
するとシャルルは見えない刀で半兵衛に斬りかかる。仇討ちの見せ場、大立回りを真似しているようだ。父の仇、にっくき工藤祐経役は半兵衛の役割となっている。
「なんでおれが。シャルルが曽我五郎なら、おれは曽我十郎だろうが」
「違うよ、曽我十郎はお照だよ」
「あら」
ちょっと嬉しいお照である。
「面白かった?」
シャルルは青い目をきらきらさせて何度もうなずいた。
「面白かったよね、お母さま」
「ほとばしるパシオン(情熱)。フレール(兄弟)のすばらしいリアン(絆)。父のカタキをメッタザシにしたとき、よくやったとフレールを褒めてさしあげたかったわ」
どの小屋も正月は曽我兄弟を演じるのが倣いとなっている。とくに仇討ち前の『寿曽我対面』という演目が人気だ。華やかな祝祭の場面が新しい年明けにふさわしいからである。
正月興行が一段落した今の時節は、派手な大立回りが大受けだ。
女将とシャルルが気に入ってくれてよかったと、お照は胸を撫で下ろす。久しぶりの芝居見物にお照の心も浮き立っている。
「あれはなんですの」
女将は他の客を指さした。客の手には役者絵がある。
「誰のショウゾウガです? ほほほ、面白い顔をしていますこと」
芝居町には役者絵を扱った店があると話すと、女将は関心を示した。
「思い出のよすがに、役者絵をお買いになりますか」
「もちろんよ」
女将が店に向かうと、半兵衛が慌ててついていく。
「女将さん、勝手に歩かないでくださいよ。あんたになにかあったら、おれの可愛い首が胴体とさようならしちまう。あ、そこのおめえ、出て行け。貸し切りだ、入ってくんな」
半兵衛は店の入口で仁王立ちするものだから、他の客は中に入れない。店の主人は困惑顔だ。
ずらりと並んだ浮世絵を女将はつぎつぎと手に取っていく。女将は役者の顔や名前は知らないので、色合いや衣装や表情が気に入ればそれで充分のようだ。
「そ、そんなに買い込むんですか」
「フランスの絵とはまったく異なっていて面白いわ。お照さんはほしいものはないの。わたくしがアガナッてさしあげますわ」
店の主人は揉み手で「こちらもいかかでしょう」と奥からいくつも出してきた。
お照は勝川春潮の二枚組『四代目岩井半四郎の七変化』に惹きつけられた。
半四郎は名女形だ。美人画を得意とする春潮が所作の七役をあでやかに描き出している。
「それだけ? もっと選びなさい」
女将はなんて気前がいいのだろう。
嬉しくなったお照は勝川春英の『三代目市川高麗蔵の斧定九郎』、勝川春好の『五代目市川團十郎の暫』も手に取った。どれも目を奪われる。
「たしか団十郎はいまは蝦蔵でしたよね」と店主に問うと、
「そうそう、雑魚蝦のほうのエビ。自分はザコですからって。しびれるねえ」
店主は鰕蔵贔屓らしい。
「役者絵はやっぱり勝川派が多いのでしょうか」
「ああ、役者絵といったら勝川一門だね」
他の絵師も役者絵は描いているが人気は段違いだという。そこへ女将が紙束を抱きしめてやってくる。三、四十枚はあるだろうか。
「これで足りるかしら」
女将は小判を十枚、腰の隙間から取り出した。
店の主人も半兵衛もぎょっとした顔になる。浮世絵一枚の値はだいたい蕎麦一杯か二杯ほどである。紙や摺りがいいものは高直で蕎麦五杯ほどだが、お照の分を入れても二分(一両の二分の一)もいかないはずだ。
「あら、それだけでいいの? では一両お支払いします。お釣りは取っておきなさいな」
「ちょ……ッ。いけません、女将さん」
気前がいいどころではない。
「あら、だって、じゃらじゃらあっても重いだけじゃありませんこと」
「わたしが預かります」
お照は店主からきっちりとお釣りをもらった。
相場を知らないのはしかたない。
将軍に呼ばれたら伺候するという外国諸事指南役にだって、吉原で暮らすには充分な禄は出ているはずだ。
そのうえ女将の作るお菓子は高価なのによく売れる。
女将はお金に困ったことがないのだろう。なんとも羨ましいものだと、うきうきと駕籠に乗る女将をお照は見つめた。
「さて、今度こそ本当に吉原に戻るぞ」
半兵衛はお照の背とシャルルの頭を駕籠のほうに押した。そのとき春らしい旋風がお照を巻き込んで、手に持っていた浮世絵を一枚奪っていった。
「いけない……!」
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