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二十一、 仮初めの美しさ
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「お照さんの死んだふりは見事でしたわ。キテンがきかなくては侍女は務まらない。その点でお照さんには素晴らしいソシツがあるわ」
絶賛である。よほど退屈から逃げ出せたことが嬉しいのだろう。
お褒めにあずかり恐縮ですとおどける余裕もなく、お照はただひたすら刀を抱きしめる。
「わたくし、お芝居が大好きなのです。でもショーグンの趣味はわたくしには合いませんでしたわ。とてもとても残念だこと」
駕籠が待っている、と鬼頭が呼びに来た。
生きて城から出られるのだと実感するや、嬉しさに涙があふれてきた。
「あらまあ、どうかしたの、お照さん」
「お照、泣かないで」
「不思議です、女将さん」
お照は鼻を啜りあげながら空を見上げた。曇天と青天が混じったような、あるいは父親の頭髪のような、鈍色の空だ。
「すっきりしない空なのに、すごく美しく見えます。どうかしちゃったんですかね。ほら、足下の小石も、味わい深い形をしています。苔の深い緑色も神秘的です。どれも輝いています。なんでなんでしょう」
「あら、怖い思いをしていたのね。もう大丈夫よ」
女将はお照の肩を優しくさすった。
「わたくしもキュウシニイッショウをえたとき、名もなき道ばたの花の美しさや名もなき鳥の可愛さに気づかされました。気づかされるのだけど、なぜかすぐに忘れてしまうのよね。いっつも、そう。あなたが生きていることを世界が祝福してくれているのよ」
『美しいものを見て泣いたことはあるかしら』
かつて女将に問われたことがあった。女将はおそらく、死にそうな目に何度も遭ったのだろう。生き延びたことが美しいのであって、まわりの世界が反転して見えているだけかもしれない。
お照は手の甲で涙を拭った。
世の中に美しいものなんか、めったにない。
だから、美しいものだけを見て生きていけたら、幸せだろうと想像する。想像しつつも、だからこそ、それを望む者は、けして醜いものから目をそらしてはいけないのだ。
とはいえ醜さから女将とシャルルを遠ざけてさしあげたい、と願うのも本心である。女将が求める侍女になれるかはわからないが、お照には自分なりの奉公のあり方がわかった気がした。
「おい、早く駕籠に乗ってくれないか」
鬼頭の声がいら立っている。
「あとはおれが送りますよ」
そこに現れたのは半兵衛だった。
「あとは吉原に送り帰すだけ。こんなかんたんな役目なら阿呆なおれでもできます。鬼役どのは公方さまのおそばに、どうぞ。さあ、女将さん、乗って乗って。お照はシャルルと……どうしたんだ、その拵えは。家斉公からの下賜品だって。それは羨ましい。あ、最後はおれが乗りますんで、よいしょっと」
半兵衛はいつにない押しの強さで調子のいいことを並べ立てると、素早く駕籠に乗り込んだ。
どことなく疲れた顔の鬼頭はとくに反対せずに駕籠が去るのを黙って見送っていた。
「女将には歌舞伎のほうが楽しめるかもしれませんね」
喉が渇いたと女将が言い出したので、茶屋で休むことになった。茶と草だんごは陸尺(駕籠かき)にも振る舞われたので、茶屋の床几はぎゅうぎゅう詰めだ。
お照は草だんごをほおばりながら、ご無沙汰になってる芝居見物を舌で転がすような軽い心持ちで口に出した。
「カブキってなんですの?」
「庶民に人気のお芝居です。武士は能を愛好していて歌舞伎を下に見てますけど、町人はもっぱら歌舞伎。朝一番から日暮れまで、なにかしら演ってるはず」
「あら、それはぜひ見てみたいわ」
「ぼくも見てみたい」
「ようがす。芝居町までひとっ走りしやしょう」
だんごをぺろりと平らげた陸尺が床几から腰を上げた。
「それはならん。まもなく日が暮れる」
半兵衛は首を振る。
ご公儀はどうしてそんなに女将を吉原に閉じ込めておきたいのか。お照は茶を一気に飲み干し、喉を湿らせてから半兵衛に向き直った。
「暮れ六つまで、まだありますよ。一幕だけ一場だけ、ちょっとお芝居の端っこだけでも女将さんに味わってもらいましょうよ。女将さんがお芝居大好きだって知ってました?」
「わたくし、今日はとてもとても、残念な思いをしましたのよ」
女将が大仰に溜息をついた。
「あとで鬼頭どのに叱られるのはおれなのだ」
「鬼頭にへこへこしている半兵衛さん、本当にみっともない」
「うう……」
自覚があるのか、半兵衛は悔しそうに呻いた。
「鬼頭どのって本当にただの毒味役なんですか」
お照はずっと気がかりだったことを半兵衛にたずねてみた。ただの毒味役にしては妙な威圧感があるのだ。いま思い出してみても、家斉に畏まっているような言動はしていたものの、怯むような態度はなかった。
「もしかして隠密──」
「さあ、まいりましょうか。芝居を見に」
半兵衛は遮るようにすっくと立ちあがった。
女将とシャルルはちょうど食べ終わったところで、「よもぎのおだんご、けっこうなお味でした。トレビアン!」と茶屋の主人に声をかけて驚かせていた。
絶賛である。よほど退屈から逃げ出せたことが嬉しいのだろう。
お褒めにあずかり恐縮ですとおどける余裕もなく、お照はただひたすら刀を抱きしめる。
「わたくし、お芝居が大好きなのです。でもショーグンの趣味はわたくしには合いませんでしたわ。とてもとても残念だこと」
駕籠が待っている、と鬼頭が呼びに来た。
生きて城から出られるのだと実感するや、嬉しさに涙があふれてきた。
「あらまあ、どうかしたの、お照さん」
「お照、泣かないで」
「不思議です、女将さん」
お照は鼻を啜りあげながら空を見上げた。曇天と青天が混じったような、あるいは父親の頭髪のような、鈍色の空だ。
「すっきりしない空なのに、すごく美しく見えます。どうかしちゃったんですかね。ほら、足下の小石も、味わい深い形をしています。苔の深い緑色も神秘的です。どれも輝いています。なんでなんでしょう」
「あら、怖い思いをしていたのね。もう大丈夫よ」
女将はお照の肩を優しくさすった。
「わたくしもキュウシニイッショウをえたとき、名もなき道ばたの花の美しさや名もなき鳥の可愛さに気づかされました。気づかされるのだけど、なぜかすぐに忘れてしまうのよね。いっつも、そう。あなたが生きていることを世界が祝福してくれているのよ」
『美しいものを見て泣いたことはあるかしら』
かつて女将に問われたことがあった。女将はおそらく、死にそうな目に何度も遭ったのだろう。生き延びたことが美しいのであって、まわりの世界が反転して見えているだけかもしれない。
お照は手の甲で涙を拭った。
世の中に美しいものなんか、めったにない。
だから、美しいものだけを見て生きていけたら、幸せだろうと想像する。想像しつつも、だからこそ、それを望む者は、けして醜いものから目をそらしてはいけないのだ。
とはいえ醜さから女将とシャルルを遠ざけてさしあげたい、と願うのも本心である。女将が求める侍女になれるかはわからないが、お照には自分なりの奉公のあり方がわかった気がした。
「おい、早く駕籠に乗ってくれないか」
鬼頭の声がいら立っている。
「あとはおれが送りますよ」
そこに現れたのは半兵衛だった。
「あとは吉原に送り帰すだけ。こんなかんたんな役目なら阿呆なおれでもできます。鬼役どのは公方さまのおそばに、どうぞ。さあ、女将さん、乗って乗って。お照はシャルルと……どうしたんだ、その拵えは。家斉公からの下賜品だって。それは羨ましい。あ、最後はおれが乗りますんで、よいしょっと」
半兵衛はいつにない押しの強さで調子のいいことを並べ立てると、素早く駕籠に乗り込んだ。
どことなく疲れた顔の鬼頭はとくに反対せずに駕籠が去るのを黙って見送っていた。
「女将には歌舞伎のほうが楽しめるかもしれませんね」
喉が渇いたと女将が言い出したので、茶屋で休むことになった。茶と草だんごは陸尺(駕籠かき)にも振る舞われたので、茶屋の床几はぎゅうぎゅう詰めだ。
お照は草だんごをほおばりながら、ご無沙汰になってる芝居見物を舌で転がすような軽い心持ちで口に出した。
「カブキってなんですの?」
「庶民に人気のお芝居です。武士は能を愛好していて歌舞伎を下に見てますけど、町人はもっぱら歌舞伎。朝一番から日暮れまで、なにかしら演ってるはず」
「あら、それはぜひ見てみたいわ」
「ぼくも見てみたい」
「ようがす。芝居町までひとっ走りしやしょう」
だんごをぺろりと平らげた陸尺が床几から腰を上げた。
「それはならん。まもなく日が暮れる」
半兵衛は首を振る。
ご公儀はどうしてそんなに女将を吉原に閉じ込めておきたいのか。お照は茶を一気に飲み干し、喉を湿らせてから半兵衛に向き直った。
「暮れ六つまで、まだありますよ。一幕だけ一場だけ、ちょっとお芝居の端っこだけでも女将さんに味わってもらいましょうよ。女将さんがお芝居大好きだって知ってました?」
「わたくし、今日はとてもとても、残念な思いをしましたのよ」
女将が大仰に溜息をついた。
「あとで鬼頭どのに叱られるのはおれなのだ」
「鬼頭にへこへこしている半兵衛さん、本当にみっともない」
「うう……」
自覚があるのか、半兵衛は悔しそうに呻いた。
「鬼頭どのって本当にただの毒味役なんですか」
お照はずっと気がかりだったことを半兵衛にたずねてみた。ただの毒味役にしては妙な威圧感があるのだ。いま思い出してみても、家斉に畏まっているような言動はしていたものの、怯むような態度はなかった。
「もしかして隠密──」
「さあ、まいりましょうか。芝居を見に」
半兵衛は遮るようにすっくと立ちあがった。
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