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二十、 家斉対女将
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小姓が飛ぶように近寄り、家斉になにごとか耳打ちした。家斉はぽんと膝を叩いて立ちあがる。
「あちらの縁台に行こう。庭に能舞台があるのだ。神君(家康公)は観るだけでなくみずからも舞うほどに能を愛好されていた。よっていまは武士のたしなみでもある。ついてまいれ」
家斉は先を行く。女将は大小をお照に手渡した。
「あなたが持っていなさい」
「は、はい」
直接手で触れぬよう、袖で包むようにして受け取った。
「緊張します……」
「つまらない贈り物でも喜んで受け取ってあげねばなりません。上に立つ者はカンヨーであらねば」
女将の自負心の高さに、お照は何度ぎょっとなればいいのか。
庭に能舞台があるようすはどこか浮き世離れしている。
滑るように能役者があらわれ、演目を語っていたようだが、むろんお照にはよくわからない。ただ、そのうちのひとりが目立っていた。初夏の空を切り抜いてきたように、若々しくすっきりとした佇まいの青年がいた。
彼らは将軍お抱えではなく、各藩の選りすぐりだという。お照は鬼頭に指定されるまま、女将のそばに腰を落ち着けた。
能面をつけた者とつけてない者、まったく動かない者、鼓や笛に合わせて跳んだりはねたりしている者。そして「見事じゃ!」と家斉公がときおり膝を叩く。
とてもうつつのこととは思えない。女将や将軍と縁台に並んで能を観ているなんて。
女将はというと、
「……あれはなんと言っているのです、お照。どんなスジダテなのです?」
翁の面をつけた白い装束の役者がふたり、舞台で唸っている。
「さ、さあ。能は難しくて……」
ふと目を落とすと、女将に寄っかかってシャルルは夢の中。
「ふぁ……いつまで続くのかしら。お芝居だと聞いたから楽しみにしていたのですけど」
女将は扇子の裏で大あくび。
家斉に気づかれてはたいへんだ。なにか退屈が吹き飛ぶ話題はないだろうか。お照はたずねてみたかったことを思い出した。
「あの、さきほど将軍さまからいただいた小箱はなんですか?」
「ああ、これ」
女将は腰のあたりの隙間から小箱を取り出して開いた。細長い豆のさやのようなものが入っている。ふわりと、濃密な香りが鼻をくすぐった。
「バニラよ。オランダ商人からバニラの実が手に入ったそうなの」
クレームキャラメルにバニラを加えるともっと美味しくなる。女将はたしか、そう言っていた。
作るのが待ち遠しい。
「楽しみですね」
「そうね、もう帰りましょうか」
女将はもぞもぞと腰を動かした。背後に控えた鬼頭が、慌てたようすで小声でたしなめる。
「誰の招待だと心得ておるのか。途中で帰るなど許されもうさん」
「あとどれくらいで終わるのかしら。宮廷人にタイクツはつきもの。とはいえ、終わりが見えないとシンボウもできないわ」
ふと舞台に目を戻すと、さきほど目を引いた若者が太鼓に合わせて舞っている。筋立ては知らずとも、足先から脳天まで、ピンと張り詰めた気が伝わってくる。
家斉は腿をぽんと叩き、扇で舞台を指す。
「妃殿下、いかがかな。なかなかのものであろう。……うむ、この尊称は早晩失うことになるかもしれないな。そのさいはどうお呼びすべきかな」
「やはり、なにか新しい知らせがもたらされていたのですね。前のときは、夫と娘が塔の中に幽閉されたとおっしゃっていましたけれど。ヨーロッパの国々はフランスに攻め入るかもしれないとも。とうとうイクサでも始まりましたか」
女将の家族が幽閉されている。遠い祖国が戦乱のふちにある。不安を煽るような話題を出すのは、家斉にとってはちょっとした意趣返しのつもりだろうか。
「いつ始まってもおかしくはないようだ。領土を奪われる気持ちは、余にはわからん。そのときは元妃殿下と呼ぶべきかな」
一瞬、女将の身体がぐらりと揺れたように見えた。だがそれは見間違いだったようだ。
おねむのシャルルを抱きしめるように引き寄せた女将は、将軍に目を据えた。
「そうしましたら、尊称はやめて、ただのアントワネットとお呼びください」
「いや、それは」
「マリー・アントワネット・ジョゼフ・ジャンヌ・ド・アプスブール・ロレーヌ、またはベルサイユの女将、どちらで呼んでいただいてもけっこうですわ」
女将の堂々とした物言いに、家斉は圧倒されたのか、押し黙った。
「でもキユーですわ。わたくしは夫を信じております。たとえ革命政府に政権を奪われても、かならずや最後はシミンの支持を得て玉座に復帰します。ヨーロッパのハイエナ国家も彼にひれ伏します。彼こそがフランスなのですから!」
家斉は今度は眩しそうに女将を見た。
「……余は革命に関心がある。日の本では起こりえぬと思うが、隣国はたびたび王朝が変わる。アメリカという国も独立したというし。危険な思想に民草がかぶれては困るからな」
「フランスの革命とはオモムキが異なりますわ」
「警戒しておきたいのだ」
「キユーでしょう。あなたはデジマでしか外国船を受け入れていないのですから」
お照の右耳は家斉と女将の会話を拾い、左耳は能舞台を拾っている。頭がぐるぐるする。『革命』とはなんだろう。
シャルルが目をあけた。家斉公にくるりと振り向く。
「でも、あなたは征夷大将軍。朝廷が任じた武力の長でしょう。でも朝廷は名ばかりでないがしろにされている。この国はちょっと変わってるよ。軍事政権なんだもん」
「それならば、朝廷は塔に幽閉されたわたくしの夫と変わらないのかもしれませんわね」
女将がとんでもないことを言い出した。
いつか朝廷が徳川を覆して、玉座に返り咲く日を願っていると、聞こえなくもない。
お照は大小を抱えたまま気を失いそうになった。
「お照さん、しっかりしなさい」
「お照、気分が悪いの?」
「……はい、もう死にそうでございます」
次に目を開けたときは、お照は鬼頭に抱えられて、城門近くにいた。
「あちらの縁台に行こう。庭に能舞台があるのだ。神君(家康公)は観るだけでなくみずからも舞うほどに能を愛好されていた。よっていまは武士のたしなみでもある。ついてまいれ」
家斉は先を行く。女将は大小をお照に手渡した。
「あなたが持っていなさい」
「は、はい」
直接手で触れぬよう、袖で包むようにして受け取った。
「緊張します……」
「つまらない贈り物でも喜んで受け取ってあげねばなりません。上に立つ者はカンヨーであらねば」
女将の自負心の高さに、お照は何度ぎょっとなればいいのか。
庭に能舞台があるようすはどこか浮き世離れしている。
滑るように能役者があらわれ、演目を語っていたようだが、むろんお照にはよくわからない。ただ、そのうちのひとりが目立っていた。初夏の空を切り抜いてきたように、若々しくすっきりとした佇まいの青年がいた。
彼らは将軍お抱えではなく、各藩の選りすぐりだという。お照は鬼頭に指定されるまま、女将のそばに腰を落ち着けた。
能面をつけた者とつけてない者、まったく動かない者、鼓や笛に合わせて跳んだりはねたりしている者。そして「見事じゃ!」と家斉公がときおり膝を叩く。
とてもうつつのこととは思えない。女将や将軍と縁台に並んで能を観ているなんて。
女将はというと、
「……あれはなんと言っているのです、お照。どんなスジダテなのです?」
翁の面をつけた白い装束の役者がふたり、舞台で唸っている。
「さ、さあ。能は難しくて……」
ふと目を落とすと、女将に寄っかかってシャルルは夢の中。
「ふぁ……いつまで続くのかしら。お芝居だと聞いたから楽しみにしていたのですけど」
女将は扇子の裏で大あくび。
家斉に気づかれてはたいへんだ。なにか退屈が吹き飛ぶ話題はないだろうか。お照はたずねてみたかったことを思い出した。
「あの、さきほど将軍さまからいただいた小箱はなんですか?」
「ああ、これ」
女将は腰のあたりの隙間から小箱を取り出して開いた。細長い豆のさやのようなものが入っている。ふわりと、濃密な香りが鼻をくすぐった。
「バニラよ。オランダ商人からバニラの実が手に入ったそうなの」
クレームキャラメルにバニラを加えるともっと美味しくなる。女将はたしか、そう言っていた。
作るのが待ち遠しい。
「楽しみですね」
「そうね、もう帰りましょうか」
女将はもぞもぞと腰を動かした。背後に控えた鬼頭が、慌てたようすで小声でたしなめる。
「誰の招待だと心得ておるのか。途中で帰るなど許されもうさん」
「あとどれくらいで終わるのかしら。宮廷人にタイクツはつきもの。とはいえ、終わりが見えないとシンボウもできないわ」
ふと舞台に目を戻すと、さきほど目を引いた若者が太鼓に合わせて舞っている。筋立ては知らずとも、足先から脳天まで、ピンと張り詰めた気が伝わってくる。
家斉は腿をぽんと叩き、扇で舞台を指す。
「妃殿下、いかがかな。なかなかのものであろう。……うむ、この尊称は早晩失うことになるかもしれないな。そのさいはどうお呼びすべきかな」
「やはり、なにか新しい知らせがもたらされていたのですね。前のときは、夫と娘が塔の中に幽閉されたとおっしゃっていましたけれど。ヨーロッパの国々はフランスに攻め入るかもしれないとも。とうとうイクサでも始まりましたか」
女将の家族が幽閉されている。遠い祖国が戦乱のふちにある。不安を煽るような話題を出すのは、家斉にとってはちょっとした意趣返しのつもりだろうか。
「いつ始まってもおかしくはないようだ。領土を奪われる気持ちは、余にはわからん。そのときは元妃殿下と呼ぶべきかな」
一瞬、女将の身体がぐらりと揺れたように見えた。だがそれは見間違いだったようだ。
おねむのシャルルを抱きしめるように引き寄せた女将は、将軍に目を据えた。
「そうしましたら、尊称はやめて、ただのアントワネットとお呼びください」
「いや、それは」
「マリー・アントワネット・ジョゼフ・ジャンヌ・ド・アプスブール・ロレーヌ、またはベルサイユの女将、どちらで呼んでいただいてもけっこうですわ」
女将の堂々とした物言いに、家斉は圧倒されたのか、押し黙った。
「でもキユーですわ。わたくしは夫を信じております。たとえ革命政府に政権を奪われても、かならずや最後はシミンの支持を得て玉座に復帰します。ヨーロッパのハイエナ国家も彼にひれ伏します。彼こそがフランスなのですから!」
家斉は今度は眩しそうに女将を見た。
「……余は革命に関心がある。日の本では起こりえぬと思うが、隣国はたびたび王朝が変わる。アメリカという国も独立したというし。危険な思想に民草がかぶれては困るからな」
「フランスの革命とはオモムキが異なりますわ」
「警戒しておきたいのだ」
「キユーでしょう。あなたはデジマでしか外国船を受け入れていないのですから」
お照の右耳は家斉と女将の会話を拾い、左耳は能舞台を拾っている。頭がぐるぐるする。『革命』とはなんだろう。
シャルルが目をあけた。家斉公にくるりと振り向く。
「でも、あなたは征夷大将軍。朝廷が任じた武力の長でしょう。でも朝廷は名ばかりでないがしろにされている。この国はちょっと変わってるよ。軍事政権なんだもん」
「それならば、朝廷は塔に幽閉されたわたくしの夫と変わらないのかもしれませんわね」
女将がとんでもないことを言い出した。
いつか朝廷が徳川を覆して、玉座に返り咲く日を願っていると、聞こえなくもない。
お照は大小を抱えたまま気を失いそうになった。
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