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十九、 家斉と女将
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殺されるのだ。恐怖で喉が絞まった。言葉が出ない。
お照の手から力が抜けた。その場に伏せる。鳥は大慌てで羽をばたつかせて飛び、今度は女将の肩にとまった。
「あら、ごきげんよう」
「すごい。お母さま、ラ・ピラート(女海賊)みたい!」
這いつくばったお照の耳にのんきな会話が入り込む。
一方、家斉の憤懣は白刃の煌めきとなる。
そこに新たな闖入者が現れた。ねずみである。家斉の足下をくるくると走り回る。
「……おい、なんとかしろ」
「は」
鬼頭の奮戦むなしく、ねずみは右に左に逃げ回る。だがなぜか家斉のそばを離れない。あげくは家斉の袴に潜り込んだ。
「ひい、なんとかせいいッ」
と言われても、ここで家斉を丸裸にするわけにもいかず、鬼頭はおろおろ狼狽えるだけである。
とうとう家斉は刀を放り捨てて畳に仰向けに転がった。四肢をバタバタさせている姿はひっくり返った虫のようだ。
「あら、なにやら楽しそう。なにをしていらっしゃるの」
女将の注意が家斉に向くと、鳥は興味をもったのか、お照の頭に飛んできた。
やがてチュウと小さな鳴き声がして家斉の左の袖口からねずみが頭を出した。
「うわ」
家斉に振り払われたねずみは松の襖に跳ね返り、数歩離れたところに着地した。
「金剛! あのねずみを捕らえよ」
鬼頭が口を開いた。
「上様、金剛は鷹ではございません」
「余の命じゃ!」
家斉は立ちあがると刀を拾い、かまえた。金剛を斬れば、お照も両断される。
「ねずみを退治せい」
お照はねずみを見た。裏長屋や吉原で見かけるような、なんのへんてつもないねずみである。千代田のお城にもねずみはいるのだなと思ったら、なぜか心の臓は乱打をやめた。
ねずみはどこにいてもねずみなのだ。金剛もどこだって金剛のままだろう。でも人は場所が違うと振る舞いを問われる。
「金剛が無理なら、女、おぬしが代わりにねずみを捕らえよ。できぬなら殺す」
「できませぬ」
「なんだと」
「もう姿を消してございます」
ねずみはすでに逃げ去っていた。
「むう」
不服そうな家斉を見上げた。不敬とはわかっていたけれど、情動を抑えられない将軍がどんな顔をしているのか、じっくりと眺めてみたくなったのだ。
家斉が求めたのはねずみではなく、意のままに動く、おのれへの忠誠心だろう。
「もう我慢ならん、この……」
家斉が刀を振り上げるや、鬼頭はすかさず、
「お照はともかく、金剛は斬るにはもったいのうございます!」
「……鬼役の言うとおりだな。目をかけるほどではなかったわ」
「はい、刀の錆にする価値さえありません!」
家斉はふんと息を吐き、刀を鞘に戻した。
助かったのか。お照は横目で鬼頭を見た。快いやり方ではなかったとしても鬼頭がお照を救ってくれたのは間違いないだろう。
刃傷沙汰にならずにすんでほっとしているのは家斉も同様のようで、聞こえるか聞こえないかのかすかな溜息をついた気配を、お照は感じ取った。熱しやすいぶん、冷めやすいのだろう。
一時の憤りで殺されなくてよかったと心から思った。
そこへ乱入したのが女将だった。
「いまのはなんですの。まさか……わたくしの侍女を斬ろうとしたのですか、なんというヤバン!」
女将は信じられないものを見たという表情で首を左右に振る。とても大仰な仕草だった。
「やはりヨーロッパとはなにもかも違うわ。国王だからといって好き勝手やっていいわけではありませんのよ。不敬は不敬として咎めるのはけっこうです。でも、いきなり殺すなど、それはヤバンジンのやることですわ!!」
柳眉を逆立てて女将がまくしたてた。
「お照をいやらしい目で見るわ、殺そうとするわ、どうなってるの? 信じられない!」
シャルルがさらに高い声で抗議をした。
「侍女の不始末は主人であるわたくしの不始末です。斬るならわたくしをお斬りなさいな!」
「あ、いや……」
家斉はこういった反応には慣れていないのだろう、苦い顔になった。
「こ、これは芝居のようなものだ、本気ではない」
明らかな作り笑いでこの場を乗り切ろうとしている。
「芝居ですって?」
「これから能狂言を見るのだから、前座のようなものだ」
「シンケンを抜いたのですから、それに意味がないとは思えません」
女将はずいと膝を進めた。家斉は半歩下がる。
女将さん、もうやめて。お照は胸中で叫んだ。せっかく鬼頭が丸く収めてくれたのに、これでは台無しではないか。
家斉は人質である女将を斬るわけにはいかないのだろう。女将が膝行するたび家斉は後退る。が、床の間の段差にかかとをぶつけて、たたらを踏んだ。
「アントワネット妃殿下!」鬼頭は声を張りあげた。「上様はその太刀をお照に下賜くださるとおっしゃっているのだ。さあ、お照、ありがたく拝受するように」
「あら、そういうことでしたの」
女将はとたんに菩薩のような優しい表情になった。
「遠慮してはいけませんわ、お照さん。メルシー、わたくしからも感謝を。ついでに小さい方をシャルルにくださらないこと」
家斉はしぶしぶ了承する。
お照の顎は力を失い、はずれそうだ。
刀架に残っていた脇差しまでいけしゃあしゃあと拝受するなんて。常日頃から望めば自分の物になると思い込んでいるのだ、この親子は。
わたしはなんとすさまじい主人に仕えているのか。
お照の手から力が抜けた。その場に伏せる。鳥は大慌てで羽をばたつかせて飛び、今度は女将の肩にとまった。
「あら、ごきげんよう」
「すごい。お母さま、ラ・ピラート(女海賊)みたい!」
這いつくばったお照の耳にのんきな会話が入り込む。
一方、家斉の憤懣は白刃の煌めきとなる。
そこに新たな闖入者が現れた。ねずみである。家斉の足下をくるくると走り回る。
「……おい、なんとかしろ」
「は」
鬼頭の奮戦むなしく、ねずみは右に左に逃げ回る。だがなぜか家斉のそばを離れない。あげくは家斉の袴に潜り込んだ。
「ひい、なんとかせいいッ」
と言われても、ここで家斉を丸裸にするわけにもいかず、鬼頭はおろおろ狼狽えるだけである。
とうとう家斉は刀を放り捨てて畳に仰向けに転がった。四肢をバタバタさせている姿はひっくり返った虫のようだ。
「あら、なにやら楽しそう。なにをしていらっしゃるの」
女将の注意が家斉に向くと、鳥は興味をもったのか、お照の頭に飛んできた。
やがてチュウと小さな鳴き声がして家斉の左の袖口からねずみが頭を出した。
「うわ」
家斉に振り払われたねずみは松の襖に跳ね返り、数歩離れたところに着地した。
「金剛! あのねずみを捕らえよ」
鬼頭が口を開いた。
「上様、金剛は鷹ではございません」
「余の命じゃ!」
家斉は立ちあがると刀を拾い、かまえた。金剛を斬れば、お照も両断される。
「ねずみを退治せい」
お照はねずみを見た。裏長屋や吉原で見かけるような、なんのへんてつもないねずみである。千代田のお城にもねずみはいるのだなと思ったら、なぜか心の臓は乱打をやめた。
ねずみはどこにいてもねずみなのだ。金剛もどこだって金剛のままだろう。でも人は場所が違うと振る舞いを問われる。
「金剛が無理なら、女、おぬしが代わりにねずみを捕らえよ。できぬなら殺す」
「できませぬ」
「なんだと」
「もう姿を消してございます」
ねずみはすでに逃げ去っていた。
「むう」
不服そうな家斉を見上げた。不敬とはわかっていたけれど、情動を抑えられない将軍がどんな顔をしているのか、じっくりと眺めてみたくなったのだ。
家斉が求めたのはねずみではなく、意のままに動く、おのれへの忠誠心だろう。
「もう我慢ならん、この……」
家斉が刀を振り上げるや、鬼頭はすかさず、
「お照はともかく、金剛は斬るにはもったいのうございます!」
「……鬼役の言うとおりだな。目をかけるほどではなかったわ」
「はい、刀の錆にする価値さえありません!」
家斉はふんと息を吐き、刀を鞘に戻した。
助かったのか。お照は横目で鬼頭を見た。快いやり方ではなかったとしても鬼頭がお照を救ってくれたのは間違いないだろう。
刃傷沙汰にならずにすんでほっとしているのは家斉も同様のようで、聞こえるか聞こえないかのかすかな溜息をついた気配を、お照は感じ取った。熱しやすいぶん、冷めやすいのだろう。
一時の憤りで殺されなくてよかったと心から思った。
そこへ乱入したのが女将だった。
「いまのはなんですの。まさか……わたくしの侍女を斬ろうとしたのですか、なんというヤバン!」
女将は信じられないものを見たという表情で首を左右に振る。とても大仰な仕草だった。
「やはりヨーロッパとはなにもかも違うわ。国王だからといって好き勝手やっていいわけではありませんのよ。不敬は不敬として咎めるのはけっこうです。でも、いきなり殺すなど、それはヤバンジンのやることですわ!!」
柳眉を逆立てて女将がまくしたてた。
「お照をいやらしい目で見るわ、殺そうとするわ、どうなってるの? 信じられない!」
シャルルがさらに高い声で抗議をした。
「侍女の不始末は主人であるわたくしの不始末です。斬るならわたくしをお斬りなさいな!」
「あ、いや……」
家斉はこういった反応には慣れていないのだろう、苦い顔になった。
「こ、これは芝居のようなものだ、本気ではない」
明らかな作り笑いでこの場を乗り切ろうとしている。
「芝居ですって?」
「これから能狂言を見るのだから、前座のようなものだ」
「シンケンを抜いたのですから、それに意味がないとは思えません」
女将はずいと膝を進めた。家斉は半歩下がる。
女将さん、もうやめて。お照は胸中で叫んだ。せっかく鬼頭が丸く収めてくれたのに、これでは台無しではないか。
家斉は人質である女将を斬るわけにはいかないのだろう。女将が膝行するたび家斉は後退る。が、床の間の段差にかかとをぶつけて、たたらを踏んだ。
「アントワネット妃殿下!」鬼頭は声を張りあげた。「上様はその太刀をお照に下賜くださるとおっしゃっているのだ。さあ、お照、ありがたく拝受するように」
「あら、そういうことでしたの」
女将はとたんに菩薩のような優しい表情になった。
「遠慮してはいけませんわ、お照さん。メルシー、わたくしからも感謝を。ついでに小さい方をシャルルにくださらないこと」
家斉はしぶしぶ了承する。
お照の顎は力を失い、はずれそうだ。
刀架に残っていた脇差しまでいけしゃあしゃあと拝受するなんて。常日頃から望めば自分の物になると思い込んでいるのだ、この親子は。
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