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十八、 謁見の間
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「ベルサイユでは空き部屋がたくさんあったから、お気に入りを住まわせていたのよ。すごくにぎやかだったわ」
「一階には商店がずらっと並んでいたよね」
女将とシャルルの話が本当なら、ベルサイユはずいぶんと開放的なところだったようだ。
女将が『一階の部屋に住む栄誉を与えます』と言っていたのを思い出す。部屋を貸し与えられることは特別なことだったのだろう。
ベルサイユがどういうところかは想像できない。とはいえ、天下の千代田城と比べるのは図々しすぎるのではないか、とお照は困惑した。
長い廊下を何回も曲がる。行き会った裃姿の男たちは鬼頭と女将に目を止めると、廊下の端に下がり、首を垂れる。そのたびにお照は緊張した。
襖の数を数え切れなくなって、お照はただ目の前を歩む鬼頭の背中だけを追うことにする。何十畳もの大広間が眼前にひろがる。さらに一段高くなった大広間が繋がっていて、そちらには松が描かれた金ぴかの床の間がある。
「お照はこちらに控えよ」
鬼頭はお照だけを廊下に残して奥に消えた。お照はその場に正座をした。
女将とシャルルは大広間の中央に進んで座す。
天井を仰ぎ見る。格子に区切られた絵があった。
細やかな花鳥画に見入っていると、ふと視界を横切るものがあった。鳥だ。鮮やかな色をしている。
吉原の空を自在に飛んでいた、あのときの異国の鳥だった。
驚くまもなく、将軍さまの到着を告げる声が響き、襖が開いた。鳥は吸い込まれるように中に入っていった。
次に現われたときは若者の肩にのっていた。その若者が将軍家斉だと気づいて、お照は慌てて手をついて顔を伏せた。
「おもてをあげよ」
側仕えの小姓の声が聞こえた。
女将とシャルルは端からおもてを伏せていない、ということは──
お照は仕掛け人形のように跳ね起きた。
家斉はお照より五つほど年かさだろうか。
いつのまにやら、裃姿になった鬼頭がお照の隣に来て座っている。
「公方さまを直視するのは不遜ぞ」
「……」
顔を上げ、視線だけは畳に落として、いっそ風になりたいとお照は思った。
かたや女将はいっさい物怖じせずににこやかに微笑んでいる。
「ごきげんよう、イエナリショーグン。なにか急報でもございましたの?」
「アントワネット妃殿下、シャルル殿下、二月ぶりであるな。息災だったか」
「しきたりでは」鬼頭はお照にささやく。「公方さまが直接に話しかけることはせぬ。常では取次役の小姓が入るものだ。だが女将には特別に許しを与えているのだ」
「アントワネットってのは」
「女将の名前である。……知らなかったのか?」
そういえば名前を聞きそびれていた。
「呼び出したのはきな臭い理由ではない。一緒に能狂言などいかがかと思うてな」
「ノウキョウゲンというのはなんでしょう」
「武家のたしなみ。市井では歌舞伎芝居が人気があるが、能狂言は芸術である」
「芸術テキな芝居……? 御役で呼び出したのではないの?」
家斉はうなずいた。
「御役というのはな」鬼頭は親切にもお照に説明をしてくれた。「外国諸事指南役というてな、まあ、形ばかりの御役を女将は引き受けておってな」
遠い長崎の出島というところが海外交易の唯一の窓口であることはお照も知っている。そこにはオランダ商館がある。実際にはオランダだけではなく、ポルトガルやスペインなどというほかの国の商船も多数入港している、と鬼頭は言う。
外国船がもたらすものは品物だけではない。三ヶ月から半年ほど遅れるが諸外国の詳細な情報も入ってくるそうだ。
「フランスがいま、どうなっているかもわかっているのですか」
女将とシャルルが逃げ出さなければならなかったフランス、旦那さんと娘さんが残っているフランス。
なにか急報でもあったのかと訊ねた女将は、家族を案じ、祖国を想っているのだ。
「呼んだのは、妃殿下が芝居好きだと耳にしたからだ。ほかにはない」
「さようですか」
新たな情報はない、ということだろう。
いい話も悪い話もないと知ったせいか、女将は息をついた。
いずれは帰国すると女将は言っていたが、祖国のようすがわからないのは不安だろう。
「出島からの急報があれば、必ず妃殿下にお伝えすると約束しよう」
将軍家斉は慰めるような笑みを見せた。
小姓が滑るように女将に近づき、盆にのせたものを目の前に置いた。螺鈿の小箱だ。
家斉は明るい声で、開けてみよ、とうながした。
中身を見た女将が「まあ」と感嘆を漏らす。
なにが入っているのだろう。中腰になるわけにもいかず、お照は目を凝らしたが当然見えるはずもない。注意が一点に集中していたため、赤くて黄色くて青いものがよちよちとお照に近寄っていることに気づかなかった。
「ひゃあ」
膝に重みを感じてお照は悲鳴を上げた。
鮮やかな鳥がお照の膝に乗っている。膝どころか、鈎状に曲がった大きな嘴と鷹のようながっしりした足を使って、お照の体をよじ登っていく。
家斉と女将とシャルルがこちらを見ているのがわかった。
「安心せい。金剛は人を襲ったりはしないぞ」
そうはいっても、とうのお照は怖くて仕方がない。
「お、鬼さん、こ、これをなんとか」
と鬼頭に助けを求めたが、金剛を捕まえてくれるどころか、見えていないふりをしてそっぽを向いている。
「いた、いたた」
肩にのぼった鳥は、お照の髪を嘴で引っこ抜こうとする。棘のようにつんつんと飛び出した跳ねっ毛が気に入らないようだ。
家斉は愉快げに笑っている。
「羽繕いをしてくれているのだぞ。気に入られたな。ところで、そなた、名は?」
「おそれながら」
ここでようやく鬼頭が口を開いた。
「上様がお目にとめるような女子ではありませぬ。粗忽で乱暴で性格はきわめて頑固なウニ頭でございます」
「なんですって!」
「ギャアーー」
お照は思わず金剛を鷲掴みにしていた。気づいたときにはもう遅い。
家斉は立ち上がりざまに刀架に手を伸ばした。
「なおりおれ、無礼者! 余の飼い鳥の首を絞めるとは!」
家斉は大喝し、抜刀した。
「一階には商店がずらっと並んでいたよね」
女将とシャルルの話が本当なら、ベルサイユはずいぶんと開放的なところだったようだ。
女将が『一階の部屋に住む栄誉を与えます』と言っていたのを思い出す。部屋を貸し与えられることは特別なことだったのだろう。
ベルサイユがどういうところかは想像できない。とはいえ、天下の千代田城と比べるのは図々しすぎるのではないか、とお照は困惑した。
長い廊下を何回も曲がる。行き会った裃姿の男たちは鬼頭と女将に目を止めると、廊下の端に下がり、首を垂れる。そのたびにお照は緊張した。
襖の数を数え切れなくなって、お照はただ目の前を歩む鬼頭の背中だけを追うことにする。何十畳もの大広間が眼前にひろがる。さらに一段高くなった大広間が繋がっていて、そちらには松が描かれた金ぴかの床の間がある。
「お照はこちらに控えよ」
鬼頭はお照だけを廊下に残して奥に消えた。お照はその場に正座をした。
女将とシャルルは大広間の中央に進んで座す。
天井を仰ぎ見る。格子に区切られた絵があった。
細やかな花鳥画に見入っていると、ふと視界を横切るものがあった。鳥だ。鮮やかな色をしている。
吉原の空を自在に飛んでいた、あのときの異国の鳥だった。
驚くまもなく、将軍さまの到着を告げる声が響き、襖が開いた。鳥は吸い込まれるように中に入っていった。
次に現われたときは若者の肩にのっていた。その若者が将軍家斉だと気づいて、お照は慌てて手をついて顔を伏せた。
「おもてをあげよ」
側仕えの小姓の声が聞こえた。
女将とシャルルは端からおもてを伏せていない、ということは──
お照は仕掛け人形のように跳ね起きた。
家斉はお照より五つほど年かさだろうか。
いつのまにやら、裃姿になった鬼頭がお照の隣に来て座っている。
「公方さまを直視するのは不遜ぞ」
「……」
顔を上げ、視線だけは畳に落として、いっそ風になりたいとお照は思った。
かたや女将はいっさい物怖じせずににこやかに微笑んでいる。
「ごきげんよう、イエナリショーグン。なにか急報でもございましたの?」
「アントワネット妃殿下、シャルル殿下、二月ぶりであるな。息災だったか」
「しきたりでは」鬼頭はお照にささやく。「公方さまが直接に話しかけることはせぬ。常では取次役の小姓が入るものだ。だが女将には特別に許しを与えているのだ」
「アントワネットってのは」
「女将の名前である。……知らなかったのか?」
そういえば名前を聞きそびれていた。
「呼び出したのはきな臭い理由ではない。一緒に能狂言などいかがかと思うてな」
「ノウキョウゲンというのはなんでしょう」
「武家のたしなみ。市井では歌舞伎芝居が人気があるが、能狂言は芸術である」
「芸術テキな芝居……? 御役で呼び出したのではないの?」
家斉はうなずいた。
「御役というのはな」鬼頭は親切にもお照に説明をしてくれた。「外国諸事指南役というてな、まあ、形ばかりの御役を女将は引き受けておってな」
遠い長崎の出島というところが海外交易の唯一の窓口であることはお照も知っている。そこにはオランダ商館がある。実際にはオランダだけではなく、ポルトガルやスペインなどというほかの国の商船も多数入港している、と鬼頭は言う。
外国船がもたらすものは品物だけではない。三ヶ月から半年ほど遅れるが諸外国の詳細な情報も入ってくるそうだ。
「フランスがいま、どうなっているかもわかっているのですか」
女将とシャルルが逃げ出さなければならなかったフランス、旦那さんと娘さんが残っているフランス。
なにか急報でもあったのかと訊ねた女将は、家族を案じ、祖国を想っているのだ。
「呼んだのは、妃殿下が芝居好きだと耳にしたからだ。ほかにはない」
「さようですか」
新たな情報はない、ということだろう。
いい話も悪い話もないと知ったせいか、女将は息をついた。
いずれは帰国すると女将は言っていたが、祖国のようすがわからないのは不安だろう。
「出島からの急報があれば、必ず妃殿下にお伝えすると約束しよう」
将軍家斉は慰めるような笑みを見せた。
小姓が滑るように女将に近づき、盆にのせたものを目の前に置いた。螺鈿の小箱だ。
家斉は明るい声で、開けてみよ、とうながした。
中身を見た女将が「まあ」と感嘆を漏らす。
なにが入っているのだろう。中腰になるわけにもいかず、お照は目を凝らしたが当然見えるはずもない。注意が一点に集中していたため、赤くて黄色くて青いものがよちよちとお照に近寄っていることに気づかなかった。
「ひゃあ」
膝に重みを感じてお照は悲鳴を上げた。
鮮やかな鳥がお照の膝に乗っている。膝どころか、鈎状に曲がった大きな嘴と鷹のようながっしりした足を使って、お照の体をよじ登っていく。
家斉と女将とシャルルがこちらを見ているのがわかった。
「安心せい。金剛は人を襲ったりはしないぞ」
そうはいっても、とうのお照は怖くて仕方がない。
「お、鬼さん、こ、これをなんとか」
と鬼頭に助けを求めたが、金剛を捕まえてくれるどころか、見えていないふりをしてそっぽを向いている。
「いた、いたた」
肩にのぼった鳥は、お照の髪を嘴で引っこ抜こうとする。棘のようにつんつんと飛び出した跳ねっ毛が気に入らないようだ。
家斉は愉快げに笑っている。
「羽繕いをしてくれているのだぞ。気に入られたな。ところで、そなた、名は?」
「おそれながら」
ここでようやく鬼頭が口を開いた。
「上様がお目にとめるような女子ではありませぬ。粗忽で乱暴で性格はきわめて頑固なウニ頭でございます」
「なんですって!」
「ギャアーー」
お照は思わず金剛を鷲掴みにしていた。気づいたときにはもう遅い。
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