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二十五、 お姉さま
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「女将さん、朝餉をお持ちしました」
「ああ、ターブルに置いておいてちょうだい」
腰高障子を横に滑らせて、お照は箱膳を運び込んだ。
「……女将さん」
大きなターブルを覆い隠すように錦絵が広がっている。
昨日買い込んだものに間違いない。
「ああ、ごめんなさい。つい夢中になって。いま場所を空けるわ」
「……なにに夢中になっていたんですか」
「ふふふ」
女将ははにかみ笑いをした。惚れた男の話でもしていたかしら、と思わずお照まで恥ずかしい気分になった。
「錦絵の役者に惚れちゃったんですか?」
「また観にいきたいわねえ、お芝居。次は朝からじっくりと楽しみたいわ」
芝居見物したいと言って大門を出る許可は下りるだろうか。容易ではない気がする。
「誰に惚れたんですか。どの絵ですか」
「いやあねえ、お照さん。わたくしはフランス王妃マリー・アントワネットでしてよ。タイクツな宮廷では、恋は暇つぶし。本気にならないのが作法ですのよ。わたくしが惚れたのは『錦絵』よ」
「錦絵?」
「今日はなにもする気が起きないわね」
女将はほうっと大きく息を吐く。
「万寿屋さんの注文が入ってますけど……」
「たまには断りましょう。求めればカンタンに手に入るなんて、そう思わせるのはよくないわ。いい、お照さん、男というのはね、すぐにチョーシにのって……」
「でもせっかく公方さまにバニラをいただきましたのに」
お照はバニラ入りのクレームキャラメルを味わいたいのだ。
「ああ、そうだったわね。ではこうしましょう」
女将はバニラの入った小箱をお照に、はい、と手渡す。
「使い方は今言ったとおり。今日は一人でクレームキャラメルを作ってごらんなさい。きちんと覚えたか、わたくしが出来上がりを見て差し上げます」
「わ、わたしが一人で……。一碗一両の高級料理ですよ」
「万寿屋さんより、ヤオゼンとかモモカワとか、もっとお高い店もあるそうじゃないの。一両なんてたいした額ではないわ。それとも作り方をもう忘れてしまったのかしら」
「いいえ」
「安心なさいな。今日作ったものは売り物にはしないから。失敗してかまわないから気楽に作ってごらんなさい」
吉宗公の遺された牛の乳と貴重なバニラを使って気楽に失敗なんかできるわけがない。
鷹揚に微笑む女将は菩薩のように慈愛に満ちていた。
お照は「ははあ」とバニラを両手に掲げ持って畏れ入った。
まずは腹ごしらえ。シャルルと二人で朝餉を食べる。
「ほっぺたにご飯粒がついているよ」
シャルルの頬についた飯粒をつまんで、お照は自分の口に入れた。なんてことない動作だったが、なぜかシャルルはぽかんとしている。
「どうかした?」
「ううん、なんか……」
シャルルはもじもじとしている。
「あ、フランスでは、こんなことしないのかしら」
国が違えば作法も違うのだろう。
ふと家斉と鬼頭の顔が浮かんだ。家斉の頬についた米粒を鬼頭がつまんでぱくりとする姿を想像したら笑いがこみあげてきた。国の違いではなさそうだ。
「びっくりさせちゃったね」
「……お姉さまみたい」
シャルルがうつむいた。呟いたあとで急に恥ずかくなったかのように。
「お姉さんのこと、思い出したのね。どんなお姉さんなの?」
離ればなれになって寂しいのだろう。
「お照と同じくらいの歳だよ。いつもいらいらしてた。とくにお母さまに」
「女将さんに? どうして?」
「王女はこうあらねばならないって、すごく躾が厳しかったから」
それはシャルルに対する態度から容易に察せられる。
「でもね、お母さまはフランスにお嫁に来るまでは、ううん、来てからも、すごく自由気ままで勉学も大嫌いで遊びにばかり夢中になっていて、教育係が匙を投げるくらいだったんだって。お姉さまが供回りの者に聞いたんだ。自分を棚に上げてこどもにはガミガミ言うお母さまはずるいって、お姉さまはいつも不満をもらしてた」
「それはさすがに説得力がないわねえ」
「でしょ。『お母さまはわたしのこと愛してないんだ』って、お姉さまはよく嘆いていたの。それどころか憎まれているって。侍女や友人には優しいお母さまなのに」
「……シャルルは女将さんに不満があるみたいね」
お姉さんの言葉を借りるかたちで心の内にたまった鬱憤をぶちまけたいのだろうとお照は見当をつけた。
女将の手元にいるこどもはいまはシャルルしかいない。しかも異国に母子二人きりだ。より一層厳しくなっていて当然だと思える。
だがシャルルは首を振った。
「ぼくはわかってるよ。お母さまはぼくのために厳しくしてくれているんだもの」
「まあ!」
お照は思わずシャルルを抱きしめた。金の髪をわしゃわしゃと撫で上げる。
シャルルの解釈が正しいかはわからないけど、シャルルが母親を慕う気持ちがいじらしい。
「わたしはお姉さんではないけれど、いつでも頼って、なんでも相談して、いっぱい愚痴っていいからね」
シャルルは面食らったのか、目をぱちくりさせた。
「お照のこと、ときどき、本当のお姉さまみたいに思うときがあるよ」
そんなことを言われたら、お姉さん代わりでもなんでもこなしてやろう。首席侍女にして護衛にしてお姉さん。なかなか多忙ではあるけれど。
「テレーズっていう名前なんだ。マリー・テレーズ。お照と響きが似てる」
お照は女将の言葉を思い出した。
『名前も気に入ったわ』
「ああ、ターブルに置いておいてちょうだい」
腰高障子を横に滑らせて、お照は箱膳を運び込んだ。
「……女将さん」
大きなターブルを覆い隠すように錦絵が広がっている。
昨日買い込んだものに間違いない。
「ああ、ごめんなさい。つい夢中になって。いま場所を空けるわ」
「……なにに夢中になっていたんですか」
「ふふふ」
女将ははにかみ笑いをした。惚れた男の話でもしていたかしら、と思わずお照まで恥ずかしい気分になった。
「錦絵の役者に惚れちゃったんですか?」
「また観にいきたいわねえ、お芝居。次は朝からじっくりと楽しみたいわ」
芝居見物したいと言って大門を出る許可は下りるだろうか。容易ではない気がする。
「誰に惚れたんですか。どの絵ですか」
「いやあねえ、お照さん。わたくしはフランス王妃マリー・アントワネットでしてよ。タイクツな宮廷では、恋は暇つぶし。本気にならないのが作法ですのよ。わたくしが惚れたのは『錦絵』よ」
「錦絵?」
「今日はなにもする気が起きないわね」
女将はほうっと大きく息を吐く。
「万寿屋さんの注文が入ってますけど……」
「たまには断りましょう。求めればカンタンに手に入るなんて、そう思わせるのはよくないわ。いい、お照さん、男というのはね、すぐにチョーシにのって……」
「でもせっかく公方さまにバニラをいただきましたのに」
お照はバニラ入りのクレームキャラメルを味わいたいのだ。
「ああ、そうだったわね。ではこうしましょう」
女将はバニラの入った小箱をお照に、はい、と手渡す。
「使い方は今言ったとおり。今日は一人でクレームキャラメルを作ってごらんなさい。きちんと覚えたか、わたくしが出来上がりを見て差し上げます」
「わ、わたしが一人で……。一碗一両の高級料理ですよ」
「万寿屋さんより、ヤオゼンとかモモカワとか、もっとお高い店もあるそうじゃないの。一両なんてたいした額ではないわ。それとも作り方をもう忘れてしまったのかしら」
「いいえ」
「安心なさいな。今日作ったものは売り物にはしないから。失敗してかまわないから気楽に作ってごらんなさい」
吉宗公の遺された牛の乳と貴重なバニラを使って気楽に失敗なんかできるわけがない。
鷹揚に微笑む女将は菩薩のように慈愛に満ちていた。
お照は「ははあ」とバニラを両手に掲げ持って畏れ入った。
まずは腹ごしらえ。シャルルと二人で朝餉を食べる。
「ほっぺたにご飯粒がついているよ」
シャルルの頬についた飯粒をつまんで、お照は自分の口に入れた。なんてことない動作だったが、なぜかシャルルはぽかんとしている。
「どうかした?」
「ううん、なんか……」
シャルルはもじもじとしている。
「あ、フランスでは、こんなことしないのかしら」
国が違えば作法も違うのだろう。
ふと家斉と鬼頭の顔が浮かんだ。家斉の頬についた米粒を鬼頭がつまんでぱくりとする姿を想像したら笑いがこみあげてきた。国の違いではなさそうだ。
「びっくりさせちゃったね」
「……お姉さまみたい」
シャルルがうつむいた。呟いたあとで急に恥ずかくなったかのように。
「お姉さんのこと、思い出したのね。どんなお姉さんなの?」
離ればなれになって寂しいのだろう。
「お照と同じくらいの歳だよ。いつもいらいらしてた。とくにお母さまに」
「女将さんに? どうして?」
「王女はこうあらねばならないって、すごく躾が厳しかったから」
それはシャルルに対する態度から容易に察せられる。
「でもね、お母さまはフランスにお嫁に来るまでは、ううん、来てからも、すごく自由気ままで勉学も大嫌いで遊びにばかり夢中になっていて、教育係が匙を投げるくらいだったんだって。お姉さまが供回りの者に聞いたんだ。自分を棚に上げてこどもにはガミガミ言うお母さまはずるいって、お姉さまはいつも不満をもらしてた」
「それはさすがに説得力がないわねえ」
「でしょ。『お母さまはわたしのこと愛してないんだ』って、お姉さまはよく嘆いていたの。それどころか憎まれているって。侍女や友人には優しいお母さまなのに」
「……シャルルは女将さんに不満があるみたいね」
お姉さんの言葉を借りるかたちで心の内にたまった鬱憤をぶちまけたいのだろうとお照は見当をつけた。
女将の手元にいるこどもはいまはシャルルしかいない。しかも異国に母子二人きりだ。より一層厳しくなっていて当然だと思える。
だがシャルルは首を振った。
「ぼくはわかってるよ。お母さまはぼくのために厳しくしてくれているんだもの」
「まあ!」
お照は思わずシャルルを抱きしめた。金の髪をわしゃわしゃと撫で上げる。
シャルルの解釈が正しいかはわからないけど、シャルルが母親を慕う気持ちがいじらしい。
「わたしはお姉さんではないけれど、いつでも頼って、なんでも相談して、いっぱい愚痴っていいからね」
シャルルは面食らったのか、目をぱちくりさせた。
「お照のこと、ときどき、本当のお姉さまみたいに思うときがあるよ」
そんなことを言われたら、お姉さん代わりでもなんでもこなしてやろう。首席侍女にして護衛にしてお姉さん。なかなか多忙ではあるけれど。
「テレーズっていう名前なんだ。マリー・テレーズ。お照と響きが似てる」
お照は女将の言葉を思い出した。
『名前も気に入ったわ』
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