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二十六、 勝手な想像、そしてパンを焼く
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あの日、女将は娘のテレーズを思い出していたに違いない。女将がテレーズを憎らしく思っていたら、お照の名前を呼ぶたびに嫌な思いをするはずだ。そんな奉公人をあえて雇うわけなどないはずだ。
そりの合わない母親と離れて、いまごろテレーズはせいせいしているだろうか。母親のことをいまでも手足を縛る縄のごとく疎ましいと思っているのだろうか。寂しくて泣くことはあるだろうか。
いやいや、会ったこともない他人の心中を慮るのは下品なことだ。テレーズが悲しんでいないことを願うだけだ。
ひるがえって、自分は父親に求めすぎなのだろうかと考えてみた。他人には寛容なのに、親には完璧を求めていないだろうか。
いや、そんなことはない。
なにしろこちらは下品なシモジモだもの。完璧の上限は低いはずだ。
なにかの代わりに別のなにかを求め、なにかの代わりに別のなにかを与える。
「シャルル、ご飯おかわりする? 瓜のぬか漬け、美味しかった?」
「うん!!」
人なんて欠陥だらけだ。完璧な人間なんていない。
だけど、女将はきっと完璧な人間になり損ねた自身を悔やんでいる。遊んで過ごした若い日々を後悔している。そのせいで辛い経験を重ねてきた。
だから子には同じ苦しみを味わわせたくないのだろう。
いやいや、これも品の良くない勝手な想像だ。女将を理解したいという強い望みが、実物の女将を歪ませているかもしれない。無理に理解することはないのだ。
大急ぎで洗い物を片付け、そっと二階を覗いてみたが、障子の外に箱膳が出ていない。ということは、まだ女将は役者絵を眺めてうっとりしているのだろうか。女将の洗い物はあとでゆっくる片付ければいい。
お照はさっそくクレームキャラメル作りに取りかかった。
新鮮な牛乳と卵をシャルルに持ってきてもらう。売り物にしないのだから数は少なめにしよう。
牛乳が余りそうだ。ブールを作ろう。器を並べて、火加減を見て、頭の中で無駄なく段取りを組んでいくのは心地がいいものだ。
「あら、それは?」
シャルルがパン焼窯の中から引っ張り出したのは、小麦粉に水を加え、こねて寝かせていたものだった。
「おかしいな。お母さま、今日はパンを焼かないのかな」
シャルルは充分に発酵した生地を指先で確かめている。
役者絵に夢中ですっかり忘れてしまったのだろう。お照はパシンと景気よく手を叩いた。
「よし、次はパンを作ってみろうか」
「お照にできるのかなあ」
シャルルは不安げだ。
「丸めて焼けばいいんでしょ。うわ、粘土みたい」
手のひらにべたつく生地にお照は顔をしかめた。
「ぼくがやるよ」
シャルルは小桶をひっくり返して足台にすると、作業台に打ち粉を撒いた。お照が目を瞠っているうちに、手早く小分けにして形を作っていく。
「器用ねえ。シャルルはいつも女将さんをお手伝いしていたのね」
いい子ねと微笑みかけると、シャルルは目を輝かせてた。
「ずっとやってみたかったんだ。すごく楽しい」
「へえ、初めてなの。にしては手際がいいじゃない。生まれつき手先が器用なのかな」
「ぼくはこういう細かい作業が好きなんだけど、お母さまが──」
「わたくしがなんですって」
背後から声がかかり、慌てたシャルルは桶から落ちた。
「あとはわたくしがやります。シャルルは二階に上がってベンキョーに励みなさい」
「……はい」
「お照さん、けっこうよ。よくできてるじゃないの」
出来たてのクレームキャラメルを味見した女将は満足げにうなずく。お照もできばえには満足していた。口に含むと、バニラの香りがひろがる。
シャルルは足音も控えめに二階に上がっていった。
「息抜きくらい、いいじゃありませんか」
「シャルルには父親のようになってほしくないだけよ。ショクニンはもうこりごり」
シャルルの父親は王ではなく職人だったのだろうか。女将はどこか遠くを見つめる顔になった。
「あら、新鮮なブールがあるのね。ならば、わたくしのふるさと、オーストリアのパンを作りましょう」
女将は気を取り直したかのように明るい声を出した。生地を伸ばし、ブールを挟み、生地を伸ばし、折りたたみ、生地を伸ばし……。三角に切り分けた生地をくるくると巻いて両端をひねる。
「牛の角みたいな形ですね」
「クロワッサンというのよ。そうだ、ブリオッシュも作りましょう」
石窯の中で次々とパンが膨らんでいくたびに、小麦の香ばしい香りが胃を刺激した。
「これも売り物ではないんですよね」
「そうよ。売り物ではないけれど……お照さん、お使いを頼まれてくれませんか」
「はい、よろこんで。どこかに差し入れするのでしょうか」
といっても、吉原には半兵衞くらいしか顔見知りはいない。まさか半兵衛にあげるわけではあるまい。
「お照さんが作ったクレームキャラメルはお照さんの好きにしていいわ。自分が作ったものを食べてもらいたい人がいるのなら、どうぞ、持って行きなさい」
父の顔が浮かんだ。
女将さんのいうお使いとは吉原の外のことだとも見当がついた。
「お使いはどこへ行けば」
お使いをすませたついでに長屋に寄れるかもしれない、と考えたら、早く出かけたくなってうずうずする。
「帰りは急がなくていいわ。陽が暮れる前に戻ってくればよろしくてよ。お使いというのはね……ちょっとした買い物をしてきてほしいの。時間もかからないと思うわ」
そりの合わない母親と離れて、いまごろテレーズはせいせいしているだろうか。母親のことをいまでも手足を縛る縄のごとく疎ましいと思っているのだろうか。寂しくて泣くことはあるだろうか。
いやいや、会ったこともない他人の心中を慮るのは下品なことだ。テレーズが悲しんでいないことを願うだけだ。
ひるがえって、自分は父親に求めすぎなのだろうかと考えてみた。他人には寛容なのに、親には完璧を求めていないだろうか。
いや、そんなことはない。
なにしろこちらは下品なシモジモだもの。完璧の上限は低いはずだ。
なにかの代わりに別のなにかを求め、なにかの代わりに別のなにかを与える。
「シャルル、ご飯おかわりする? 瓜のぬか漬け、美味しかった?」
「うん!!」
人なんて欠陥だらけだ。完璧な人間なんていない。
だけど、女将はきっと完璧な人間になり損ねた自身を悔やんでいる。遊んで過ごした若い日々を後悔している。そのせいで辛い経験を重ねてきた。
だから子には同じ苦しみを味わわせたくないのだろう。
いやいや、これも品の良くない勝手な想像だ。女将を理解したいという強い望みが、実物の女将を歪ませているかもしれない。無理に理解することはないのだ。
大急ぎで洗い物を片付け、そっと二階を覗いてみたが、障子の外に箱膳が出ていない。ということは、まだ女将は役者絵を眺めてうっとりしているのだろうか。女将の洗い物はあとでゆっくる片付ければいい。
お照はさっそくクレームキャラメル作りに取りかかった。
新鮮な牛乳と卵をシャルルに持ってきてもらう。売り物にしないのだから数は少なめにしよう。
牛乳が余りそうだ。ブールを作ろう。器を並べて、火加減を見て、頭の中で無駄なく段取りを組んでいくのは心地がいいものだ。
「あら、それは?」
シャルルがパン焼窯の中から引っ張り出したのは、小麦粉に水を加え、こねて寝かせていたものだった。
「おかしいな。お母さま、今日はパンを焼かないのかな」
シャルルは充分に発酵した生地を指先で確かめている。
役者絵に夢中ですっかり忘れてしまったのだろう。お照はパシンと景気よく手を叩いた。
「よし、次はパンを作ってみろうか」
「お照にできるのかなあ」
シャルルは不安げだ。
「丸めて焼けばいいんでしょ。うわ、粘土みたい」
手のひらにべたつく生地にお照は顔をしかめた。
「ぼくがやるよ」
シャルルは小桶をひっくり返して足台にすると、作業台に打ち粉を撒いた。お照が目を瞠っているうちに、手早く小分けにして形を作っていく。
「器用ねえ。シャルルはいつも女将さんをお手伝いしていたのね」
いい子ねと微笑みかけると、シャルルは目を輝かせてた。
「ずっとやってみたかったんだ。すごく楽しい」
「へえ、初めてなの。にしては手際がいいじゃない。生まれつき手先が器用なのかな」
「ぼくはこういう細かい作業が好きなんだけど、お母さまが──」
「わたくしがなんですって」
背後から声がかかり、慌てたシャルルは桶から落ちた。
「あとはわたくしがやります。シャルルは二階に上がってベンキョーに励みなさい」
「……はい」
「お照さん、けっこうよ。よくできてるじゃないの」
出来たてのクレームキャラメルを味見した女将は満足げにうなずく。お照もできばえには満足していた。口に含むと、バニラの香りがひろがる。
シャルルは足音も控えめに二階に上がっていった。
「息抜きくらい、いいじゃありませんか」
「シャルルには父親のようになってほしくないだけよ。ショクニンはもうこりごり」
シャルルの父親は王ではなく職人だったのだろうか。女将はどこか遠くを見つめる顔になった。
「あら、新鮮なブールがあるのね。ならば、わたくしのふるさと、オーストリアのパンを作りましょう」
女将は気を取り直したかのように明るい声を出した。生地を伸ばし、ブールを挟み、生地を伸ばし、折りたたみ、生地を伸ばし……。三角に切り分けた生地をくるくると巻いて両端をひねる。
「牛の角みたいな形ですね」
「クロワッサンというのよ。そうだ、ブリオッシュも作りましょう」
石窯の中で次々とパンが膨らんでいくたびに、小麦の香ばしい香りが胃を刺激した。
「これも売り物ではないんですよね」
「そうよ。売り物ではないけれど……お照さん、お使いを頼まれてくれませんか」
「はい、よろこんで。どこかに差し入れするのでしょうか」
といっても、吉原には半兵衞くらいしか顔見知りはいない。まさか半兵衛にあげるわけではあるまい。
「お照さんが作ったクレームキャラメルはお照さんの好きにしていいわ。自分が作ったものを食べてもらいたい人がいるのなら、どうぞ、持って行きなさい」
父の顔が浮かんだ。
女将さんのいうお使いとは吉原の外のことだとも見当がついた。
「お使いはどこへ行けば」
お使いをすませたついでに長屋に寄れるかもしれない、と考えたら、早く出かけたくなってうずうずする。
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