江戸のアントワネット

あかいかかぽ

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二十七、 父を訪ねる

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 女将の『お使い』の子細を聞くと、たいして難しくはないと思われた。

「あの、では時間があったら、父にクレーム・キャラメルを持っていってもいいですか」 

「もちろん。それはもうアナタのものよ、お照さん。わたくしも手ずから作ったものを……あの人に食べてもらいたかったわ」

 あの人というのは、塔に幽閉されているという夫のことだろうか。

「これも持っていきなさい」

 女将は焼きたてのパンを風呂敷に包んでお照に持たせただけでなく、お照の手のひらに一両小判を握らせた。

「こんなにいりません。もっとずっと安くあがりますよ」

 女将の買い物はこの五分の一程度で済むだろうとお照は考えていた。

「こまかいモチアワセがないのよ。行き帰りは馬車……ではなくて、カゴを使いなさい。余った分はお照さんのお小遣いとなさいな」

 一両は、大工の父の日当十六日分にあたる。女将は少々金銭感覚がおかしいのではないだろうか。甘味が一碗一両で売れる吉原にいたら、さもありなんというところか。

 吉原にも四文のだんごや十六文の蕎麦を出す店もあるのだ。女将が大雑把おおざっぱなのはお金に困ったことがないせいだろうが、日頃からぼったくられている可能性がある。
 今後はよくよく注意してみようとお照は思った。

「女将さん、ありがとうございます」

 お照は小判を巾着に入れて帯に刺しこむと、深く頭を下げた。

「シャルルはえらいですね。嫌がりもせず、勉強に励んで」

 お照は二階を透かし見るように天井をあおいだ。

「本を読ませているところです。ルソーの……なんだったかしら。夢中になっているみたいよ」

「一所懸命励んだらお照からご褒美があるよと伝えてください。では行って参ります」



「どこ行ってたんだ、おめえは。親を飢え死にさせる気か」

 父の機嫌は悪かった。

「邪魔だから出てけって言ったくせに。お松さんはどうしたのよ」

 敷きっぱなしの布団はカビくさい。畳には安酒のシミ。枕元には欠け茶碗に煮物がのっていた。

「食べるもの、あるじゃない」

「さっき煮売り屋から買ったんだ。これだけじゃ足りない」

「ちょうどよかった。パンと西洋のお菓子があるの」

 お照はクレームキャラメルとパンを膳に載せて父の前に置いた。煮物の入った碗と木匙と箸もそえる。

「なんだこりゃ」

 父は目を瞠り、大きく口を開けた。欠けた前歯がのぞく。

「食べてみて。私が作ったの。吉原でとても人気がある菓子舗の──」

「いらねえや、こんなもん」

 父はクレームキャラメルの碗を掴むと土間に投げ捨てた。
 砕けた碗と柔らかい中身が土間の土にまみれる。

 食事を捨てられたのは初めてだ。胸中にふつふつと怒りが湧いた。

「なんてことするのよ。あれは一碗一両……」

「おまえ、吉原で働いてるのか。前借金をたんまりもらったんだろ」

 父は誤解している。お照はぐっとこらえた。父が怒りにまかせて土まみれにした菓子がいかに高価かを訴えようとした自分自身にも戸惑っていた。
 価値とは値段は別ものだ。

「千太郎おじさんに聞いてないの? 吉原の菓子補に奉公にあがってるのよ」

「長屋の連中にあきれられたよ。博打に狂ったあげく娘を吉原に売ったってな。冗談じゃねえ。金なんか一銭ももらってねえって言っても、お松も信じねえ。おい、お照。遊女屋じゃないんなら戻ってこい。奉公は終わりだ」

「……戻りません」

 お照は帯に突っ込んでいた小銭をすべて父の前に叩きつけた。

「お、なんだ?!」

「これだけあればしばらくは食べていけるでしょう」

 煮売り屋は裏長屋にも売りに来てくれる。お金さえあれば身体が不自由でも飢え死にすることはない。
 さきに女将の用事をすませておいてよかった。軽くなった帯を叩いてお照は立ちあがった。

「この親不孝もんが」

「お金が尽きる頃にまたようすを見に来ます」

 お照は一度長屋の木戸を出て『三味線 長唄』の札が下がった隣の木戸をくぐった。
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