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二十八、 浅草奥山で鬼とぶつかる
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「あの人は甘えてるんだよ。お照さんが出ていって寂しいのさ」
三味線と長唄の師匠をしている元芸妓のお松。父との言い合いのとき、お松の名をあげたのに、父がまったく触れなかった時点で察していたことだが、
「もう切れちゃったんですか?」
お照の問いに、お松は重たげな睫を伏せて、ふうと息を吐いた。
「あたしじゃ、どうにもできないんだよ」
「そんなことありません。お松さんがそばにいれば、きっと……」
「悪いけど、あたしじゃ無理だよ。死んでないかくらいはたまに見にいってやるけどさ」
簪の先で鬢のほつれをいじるお松はどこか気怠げだ。父に愛想づかししかけているのは間違いなさそうだ。
「父が娘に甘えて、あげく怒鳴りつけるなんて、娘のわたしが恥ずかしいです」
お松の顔を見ているうちに冷静さを取り戻していった。
父はいらいらしていた。その気持ちもわからないわけじゃない。いつでも気ままに、なんでも思いどおりに生きてきた父が、足の一本を負傷しただけでこの世の終わりみたいにふて腐れてしまう。そんな弱さを受け入れたくなくて強がってしまうのだろう。
ふと女将が脳裏に浮かんだ。息子に厳しい女将は、甘えているのだろうか。祖国から遠く離れて、夫や娘とは生き別れて、唯一の身内に屈託をぶつけるしかないのだろうか。
だとしたらシャルルが可哀想だ。
女将はお照に対しては優しい。思いやりを感じる。それはお照がシモジモだからだろう。
女将には甘えられる相手がいない。一番頼りになるのは公方さまになるのだろうけれど、ご公儀に借りを作らないように終始気をつけているようすもある。
「しっかし、吉原の風変わりな異人の店で働くなんてねえ。一度見てみたいもんだね、話の種になるし」お松は興味本位を隠さない。「今度紹介してくれないかい」
「そうですねえ、父を差し置くのもどうかと思いますので、そのうちに。あ、いけない。そろそろ戻らないと」
お照は避けるようにお松の家を辞した。察しのよい元芸妓なら、身内でもないお松を紹介することはないと気づくだろう。
今いる場所から吉原に向かうには猪牙舟で大川を遡るのが一番早い。その次が駕籠になる。だが懐が素寒貧になってしまったので歩くしかない。
浅草寺の後背からまっすぐに伸びた、少し寂しい道は行きに通ったので覚えている。
浅草寺の裏一帯は奥山と呼ばれ、参拝客が喉を潤す水茶屋のほかに、手妻(手品)や居合い、講談といった人気の見世物があっていつも混雑している。
笑顔が集まるところには人は惹かれるものだ。覗いていきたいのはやまやまだが、ゆっくりしている暇はない。
名残惜しげに辺りを見やったとき、お照の鼻先に甘い香りが掠めた。
バニラでもブールでも砂糖でもない、しかし嗅いだことのある香り。
どこから香ってくるのかと周囲を見回す。刻んだ煙草を売る露店が目に入った。露店の煙草草は安いが混ぜ物が多いと聞く。
いやな気配を感じた。近寄ってよく見てみようと一歩踏み出すと、左横から人がぶつかってきた。
「おい、どこに目をつけているのだ」
「鬼、がしら……さま?」
ぶつかってきたのは鬼頭鮫右衛門だった。いやな気配は鬼頭だったのか。
渋い海老茶の紋付きの羽織で、今日は商家の若隠居風だ。人混みのなかにあっても目立たない。
「わしが掏摸だったらどうする。ぼんやりしすぎではないか」
ただし、その口調にはぴりりと辛味がある。
奥山の混雑の中、たまたまぶつかったなどと信じられるだろうか。
胸の太鼓が激しく鳴り出した。いやな想像が脳裏を駆ける。
まさか自分を尾行してきたのではないか。
「そのような顔をするな。わしはやましいことはしていない」
「……どうでしょうか。死んだ女郎の件もおざなりでしたし」
公方さまの毒味役なのに、半兵衛の上役気取りで捜査に口を出し、あまつさえ余計なことは口外するなと釘を刺す。なにか勘ぐってしまうのも無理からぬことと思うのだ。
「例の件をずいぶん気にしているようだな。よし、では取引をしないか」
「取引?」
「女将を見張ってほしい。なにか胡乱な動きがあれば知らせてほしい。伝言は東半兵衛伝手でかまわない」
「な」
お照は口をあんぐりと開けて鬼頭を見上げた。お照に間者になれと言っているのか、この恥知らず。
お照はぐっと歯を食いしばった。
「納得いってないようだな。だがおまえは日本の人間であろう。国の役に立ちたいと思わぬか。バテレンの手先になる気はもとよりなかろう」
「女将はバテレンじゃありませんよ。わたしは耶蘇教など布教されてません」
信仰を強制されるどころか、女将の家の中にキリシタンを匂わせるものはない。少なくとも今のところは見てない。女将は異国人なのだからキリシタンだったとしてどうだというのか。布教しなければいいだけだろうに。
「お疑いなら踏んづけますよ、耶蘇の神様の絵」
着物の褄をとって地面を踏みしめる仕草をしてみせた。とはいっても、お照はバテレンの神様の絵というものを見たこともないのだが。
三味線と長唄の師匠をしている元芸妓のお松。父との言い合いのとき、お松の名をあげたのに、父がまったく触れなかった時点で察していたことだが、
「もう切れちゃったんですか?」
お照の問いに、お松は重たげな睫を伏せて、ふうと息を吐いた。
「あたしじゃ、どうにもできないんだよ」
「そんなことありません。お松さんがそばにいれば、きっと……」
「悪いけど、あたしじゃ無理だよ。死んでないかくらいはたまに見にいってやるけどさ」
簪の先で鬢のほつれをいじるお松はどこか気怠げだ。父に愛想づかししかけているのは間違いなさそうだ。
「父が娘に甘えて、あげく怒鳴りつけるなんて、娘のわたしが恥ずかしいです」
お松の顔を見ているうちに冷静さを取り戻していった。
父はいらいらしていた。その気持ちもわからないわけじゃない。いつでも気ままに、なんでも思いどおりに生きてきた父が、足の一本を負傷しただけでこの世の終わりみたいにふて腐れてしまう。そんな弱さを受け入れたくなくて強がってしまうのだろう。
ふと女将が脳裏に浮かんだ。息子に厳しい女将は、甘えているのだろうか。祖国から遠く離れて、夫や娘とは生き別れて、唯一の身内に屈託をぶつけるしかないのだろうか。
だとしたらシャルルが可哀想だ。
女将はお照に対しては優しい。思いやりを感じる。それはお照がシモジモだからだろう。
女将には甘えられる相手がいない。一番頼りになるのは公方さまになるのだろうけれど、ご公儀に借りを作らないように終始気をつけているようすもある。
「しっかし、吉原の風変わりな異人の店で働くなんてねえ。一度見てみたいもんだね、話の種になるし」お松は興味本位を隠さない。「今度紹介してくれないかい」
「そうですねえ、父を差し置くのもどうかと思いますので、そのうちに。あ、いけない。そろそろ戻らないと」
お照は避けるようにお松の家を辞した。察しのよい元芸妓なら、身内でもないお松を紹介することはないと気づくだろう。
今いる場所から吉原に向かうには猪牙舟で大川を遡るのが一番早い。その次が駕籠になる。だが懐が素寒貧になってしまったので歩くしかない。
浅草寺の後背からまっすぐに伸びた、少し寂しい道は行きに通ったので覚えている。
浅草寺の裏一帯は奥山と呼ばれ、参拝客が喉を潤す水茶屋のほかに、手妻(手品)や居合い、講談といった人気の見世物があっていつも混雑している。
笑顔が集まるところには人は惹かれるものだ。覗いていきたいのはやまやまだが、ゆっくりしている暇はない。
名残惜しげに辺りを見やったとき、お照の鼻先に甘い香りが掠めた。
バニラでもブールでも砂糖でもない、しかし嗅いだことのある香り。
どこから香ってくるのかと周囲を見回す。刻んだ煙草を売る露店が目に入った。露店の煙草草は安いが混ぜ物が多いと聞く。
いやな気配を感じた。近寄ってよく見てみようと一歩踏み出すと、左横から人がぶつかってきた。
「おい、どこに目をつけているのだ」
「鬼、がしら……さま?」
ぶつかってきたのは鬼頭鮫右衛門だった。いやな気配は鬼頭だったのか。
渋い海老茶の紋付きの羽織で、今日は商家の若隠居風だ。人混みのなかにあっても目立たない。
「わしが掏摸だったらどうする。ぼんやりしすぎではないか」
ただし、その口調にはぴりりと辛味がある。
奥山の混雑の中、たまたまぶつかったなどと信じられるだろうか。
胸の太鼓が激しく鳴り出した。いやな想像が脳裏を駆ける。
まさか自分を尾行してきたのではないか。
「そのような顔をするな。わしはやましいことはしていない」
「……どうでしょうか。死んだ女郎の件もおざなりでしたし」
公方さまの毒味役なのに、半兵衛の上役気取りで捜査に口を出し、あまつさえ余計なことは口外するなと釘を刺す。なにか勘ぐってしまうのも無理からぬことと思うのだ。
「例の件をずいぶん気にしているようだな。よし、では取引をしないか」
「取引?」
「女将を見張ってほしい。なにか胡乱な動きがあれば知らせてほしい。伝言は東半兵衛伝手でかまわない」
「な」
お照は口をあんぐりと開けて鬼頭を見上げた。お照に間者になれと言っているのか、この恥知らず。
お照はぐっと歯を食いしばった。
「納得いってないようだな。だがおまえは日本の人間であろう。国の役に立ちたいと思わぬか。バテレンの手先になる気はもとよりなかろう」
「女将はバテレンじゃありませんよ。わたしは耶蘇教など布教されてません」
信仰を強制されるどころか、女将の家の中にキリシタンを匂わせるものはない。少なくとも今のところは見てない。女将は異国人なのだからキリシタンだったとしてどうだというのか。布教しなければいいだけだろうに。
「お疑いなら踏んづけますよ、耶蘇の神様の絵」
着物の褄をとって地面を踏みしめる仕草をしてみせた。とはいっても、お照はバテレンの神様の絵というものを見たこともないのだが。
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