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二十九、 革命は宗教ですか?
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「ついでに言っときますけど異学も学んでませんからね」
三年ほど前、老中の松平定信というえらい人が異学を禁じるお触れを出し、武家の学問は朱子学一本に統一された。身分の上下を明確にし、農業を重んじ、風紀を統制するのが目的だという。
さまざまな典籍を並べた書物問屋の店先ががらりと変わったことでお照は知ったのだ。しょせん、庶民には関係ないと思っていた。武家が心得ていればいいものだ。
だが庶民は世相の変化に敏感だ。朱子学こそが天下が認めた学問だと聞きかじれば、寺子屋も「君臣父子の別」と題目のように唱え出す。
主君への忠誠心、親を敬う心、たしかに耳に美しい学問ではある。
「まさか、鬼頭さま。女将とシャルルが異国の書物を読んでいたり、キリシタンだったりしたら罰する気ですか」
「いや、おまえに布教したり、信仰を強制していなければ、かまわん。あの親子は幕府が預かっているだけの者だからな。だが、もしもの話だが、我が国の民となることを望むならば棄教をしてもらうしかないが」
「おおごとですねえ」
お照は呆れた。身寄りもない母子に怖れすぎではないか。
鬼頭は急に顔を窮屈そうにしかめた。
「宗教というものはときに国をひっくり返す力を発揮するのだ。しっかりと監視しておかねばならぬ」
「革命というのは宗教ですか?」
「なに?」
鬼頭は面食らったような顔になった。
「女将は革命で国を追われたと聞いてます。狂信的な人々が国を転覆させようと企んだとか」
「いいや、女将は贅沢をして国を傾けたのだ。そのために民草に殺されそうになった。自業自得というやつだな」
「まさかそんな。信じられません」
お照の首筋がひやりとした。
信じられないとは言ったものの、あの無頓着な金の使い方を思い出せば、まったくの嘘とも思えなくて胸が苦しくなる。
お照の複雑な心境を読んだかのように、鬼頭はさらに畳みかける。
「国中の人々が食べるものがなくて困っているときに『パンがなければブリオッシュを食べればいいじゃない』と言い放ったそうだぞ。それだけではない。間夫がいたらしい。シャルルは不義の子かもしれんな」
「なんてことをおっしゃいますかッ」
「だったら直截聞いてみればいい。けっこう有名な噂だったらしいぞ。小僧の耳にも入ってるんではないか」
お照の反応を面白そうに笑って見下ろす鬼頭が腹立たしい。
「噂なんて信用できませんよ。だってずっとずーっと遠い国の話ではありませんか」
鬼頭の耳に入るまでにいったい何人の耳目を通ってきたのか。いったいどれだけの人に女将は辱められてきたのか。
「ここだけの話だが、女郎が死んだ件、わしは女将を疑っておる。あれは得体の知れぬ女だ」
我慢の限界だった。ドンと足を踏みならして、腕をまくりあげた。
「あなたは鬼です。日の本の恥です。女将の過去なんぞ、知ったこっちゃありませんよ。今はなんの権力も身寄りもない、幼子を抱えてつましく生きる、祖国を追放された可哀想な女じゃありませんか」
つましく、は明らかな嘘だが。お照の怒りは収まらなかった。
「そういえば、噂で人を吊し上げるのは老中の松平定信公がお得意ですよねえ」
「なんだと」
老中の名前が出るや、鬼頭は色を変えた。
「田沼さまが失脚したとたん、悪い噂が江戸中に広まったじゃないですか。賄賂なんて田沼さまだけじゃないのに。老中である松平さまだけは清廉潔白だって印象をつけたいんでしょうかね」
田沼意次が死んでから五年。摺り物には幕府の目が光り、幕政の悪評など許されないのに、五年も経った田沼の悪口は見逃されている。
「でもちょっと息苦しいんですよ。倹約倹約って。花魁や歌舞伎の派手な衣装は禁止、錦絵は摺り色を少なく、贅沢禁止だなんて」
「しい。大きな声で話すな」
鬼頭は周囲を気にして、人の少ないほうに動いた。
しかたなくお照は話しながらついていく。
「そういえば、千代田のお城でわたしは松平さまとお会いしたのかしら。能の上覧をした方々の中におられました?」
「……近頃は、上様に遠ざけられているという噂がある」
鬼頭は苦々しげに口を歪めた。
「いろいろと誤解をしておるぞ。松平さまがおっしゃる異学の禁とは朱子学以外の儒教を禁じるという意味なのだ。むしろ諸外国の知識や文化にはたいへん理解があるお方であるぞ。倹約による幕政の建て直しは急務の課題であるし、国のためならば、田沼とて悪役に仕立て上げられたとて本望のはずである」
お照はぽんと手を打った。
「朱子学ですね。上役への忠誠心。鬼頭さまは定信公の悪口が許せないと。では女将を悪役に仕立て上げるのはなんのためです。女将のどこがおっかないんです?」
「ふん、騙されるのも無理はない、おまえは善良すぎるのだ。味方はわししかいないことはいずれわかるだろう」
なにかあれば半兵衛に伝えるようにと念を押して鬼頭は立ち去ろうとした。その背にお照は言葉を投げかけずにはいられなかった。
「似ている気がします」
「うん?」
振り返った鬼頭にお照は食いつく勢いで言い放った。
「鬼頭どのと女将です。お二方とも、命じることになれてらっしゃる」
「なるほど」
「わたしの名前を憶えておりますか」
「…………」
「お照です。おまえではありません」
「ふん」
つまらなそうに鼻を鳴らした将軍の毒味役は、すぐに雑踏にまぎれて見えなくなった。
あいつはただの毒味役ではない。彼こそは毒そのものではないかとお照は苦い唾を飲み込んだ。
奥山の賑わいがどこか遠くに聞こえた。
お照はあたりを見回した。きつい表情でいるのはお照ぐらいしかいない。いつのまにか露店の煙草草の店も姿を消していた。
気分は最悪だった。
*** ちょっとだけ作者が呟きます。
「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」
以前はアントワネットの言葉として広まった名?台詞ですが、アントワネットはこんなこと言ってません。作中で本人に否定させる場面を今後入れる予定ではありますが、アントワネットの名誉のために先に書いておきます。いまではアントワネットの言葉ではないことは知れ渡ってきたとは思うのですが念のため。作者がしゃしゃり出てごめんなさい。
三年ほど前、老中の松平定信というえらい人が異学を禁じるお触れを出し、武家の学問は朱子学一本に統一された。身分の上下を明確にし、農業を重んじ、風紀を統制するのが目的だという。
さまざまな典籍を並べた書物問屋の店先ががらりと変わったことでお照は知ったのだ。しょせん、庶民には関係ないと思っていた。武家が心得ていればいいものだ。
だが庶民は世相の変化に敏感だ。朱子学こそが天下が認めた学問だと聞きかじれば、寺子屋も「君臣父子の別」と題目のように唱え出す。
主君への忠誠心、親を敬う心、たしかに耳に美しい学問ではある。
「まさか、鬼頭さま。女将とシャルルが異国の書物を読んでいたり、キリシタンだったりしたら罰する気ですか」
「いや、おまえに布教したり、信仰を強制していなければ、かまわん。あの親子は幕府が預かっているだけの者だからな。だが、もしもの話だが、我が国の民となることを望むならば棄教をしてもらうしかないが」
「おおごとですねえ」
お照は呆れた。身寄りもない母子に怖れすぎではないか。
鬼頭は急に顔を窮屈そうにしかめた。
「宗教というものはときに国をひっくり返す力を発揮するのだ。しっかりと監視しておかねばならぬ」
「革命というのは宗教ですか?」
「なに?」
鬼頭は面食らったような顔になった。
「女将は革命で国を追われたと聞いてます。狂信的な人々が国を転覆させようと企んだとか」
「いいや、女将は贅沢をして国を傾けたのだ。そのために民草に殺されそうになった。自業自得というやつだな」
「まさかそんな。信じられません」
お照の首筋がひやりとした。
信じられないとは言ったものの、あの無頓着な金の使い方を思い出せば、まったくの嘘とも思えなくて胸が苦しくなる。
お照の複雑な心境を読んだかのように、鬼頭はさらに畳みかける。
「国中の人々が食べるものがなくて困っているときに『パンがなければブリオッシュを食べればいいじゃない』と言い放ったそうだぞ。それだけではない。間夫がいたらしい。シャルルは不義の子かもしれんな」
「なんてことをおっしゃいますかッ」
「だったら直截聞いてみればいい。けっこう有名な噂だったらしいぞ。小僧の耳にも入ってるんではないか」
お照の反応を面白そうに笑って見下ろす鬼頭が腹立たしい。
「噂なんて信用できませんよ。だってずっとずーっと遠い国の話ではありませんか」
鬼頭の耳に入るまでにいったい何人の耳目を通ってきたのか。いったいどれだけの人に女将は辱められてきたのか。
「ここだけの話だが、女郎が死んだ件、わしは女将を疑っておる。あれは得体の知れぬ女だ」
我慢の限界だった。ドンと足を踏みならして、腕をまくりあげた。
「あなたは鬼です。日の本の恥です。女将の過去なんぞ、知ったこっちゃありませんよ。今はなんの権力も身寄りもない、幼子を抱えてつましく生きる、祖国を追放された可哀想な女じゃありませんか」
つましく、は明らかな嘘だが。お照の怒りは収まらなかった。
「そういえば、噂で人を吊し上げるのは老中の松平定信公がお得意ですよねえ」
「なんだと」
老中の名前が出るや、鬼頭は色を変えた。
「田沼さまが失脚したとたん、悪い噂が江戸中に広まったじゃないですか。賄賂なんて田沼さまだけじゃないのに。老中である松平さまだけは清廉潔白だって印象をつけたいんでしょうかね」
田沼意次が死んでから五年。摺り物には幕府の目が光り、幕政の悪評など許されないのに、五年も経った田沼の悪口は見逃されている。
「でもちょっと息苦しいんですよ。倹約倹約って。花魁や歌舞伎の派手な衣装は禁止、錦絵は摺り色を少なく、贅沢禁止だなんて」
「しい。大きな声で話すな」
鬼頭は周囲を気にして、人の少ないほうに動いた。
しかたなくお照は話しながらついていく。
「そういえば、千代田のお城でわたしは松平さまとお会いしたのかしら。能の上覧をした方々の中におられました?」
「……近頃は、上様に遠ざけられているという噂がある」
鬼頭は苦々しげに口を歪めた。
「いろいろと誤解をしておるぞ。松平さまがおっしゃる異学の禁とは朱子学以外の儒教を禁じるという意味なのだ。むしろ諸外国の知識や文化にはたいへん理解があるお方であるぞ。倹約による幕政の建て直しは急務の課題であるし、国のためならば、田沼とて悪役に仕立て上げられたとて本望のはずである」
お照はぽんと手を打った。
「朱子学ですね。上役への忠誠心。鬼頭さまは定信公の悪口が許せないと。では女将を悪役に仕立て上げるのはなんのためです。女将のどこがおっかないんです?」
「ふん、騙されるのも無理はない、おまえは善良すぎるのだ。味方はわししかいないことはいずれわかるだろう」
なにかあれば半兵衛に伝えるようにと念を押して鬼頭は立ち去ろうとした。その背にお照は言葉を投げかけずにはいられなかった。
「似ている気がします」
「うん?」
振り返った鬼頭にお照は食いつく勢いで言い放った。
「鬼頭どのと女将です。お二方とも、命じることになれてらっしゃる」
「なるほど」
「わたしの名前を憶えておりますか」
「…………」
「お照です。おまえではありません」
「ふん」
つまらなそうに鼻を鳴らした将軍の毒味役は、すぐに雑踏にまぎれて見えなくなった。
あいつはただの毒味役ではない。彼こそは毒そのものではないかとお照は苦い唾を飲み込んだ。
奥山の賑わいがどこか遠くに聞こえた。
お照はあたりを見回した。きつい表情でいるのはお照ぐらいしかいない。いつのまにか露店の煙草草の店も姿を消していた。
気分は最悪だった。
*** ちょっとだけ作者が呟きます。
「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」
以前はアントワネットの言葉として広まった名?台詞ですが、アントワネットはこんなこと言ってません。作中で本人に否定させる場面を今後入れる予定ではありますが、アントワネットの名誉のために先に書いておきます。いまではアントワネットの言葉ではないことは知れ渡ってきたとは思うのですが念のため。作者がしゃしゃり出てごめんなさい。
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