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三十、 女将が求めたもの
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玄関にはいつも心張り棒をかっている。
「ただいま戻りました」
心張り棒をはずす音が中から聞こえてくると、お照は大きく息を吸い込んだ。
このまま奉公を続けるかどうか、考え直すなら早いほうがいい。
鬼頭に吹聴されたことに気持ちが揺らいだわけではなかった。ただ根拠のなかった自信が萎んでいったのだ。
父の荒れた生活を理由に奉公を辞することもできるだろう。
女将の顔を見る前に去ったほうがいいのではないか。
抱えていた風呂敷を置いて去ろうと思った。
「待っていたわ、お照さん」
そのとき、戸の向こうから名を呼ばれた。
だが、女将は戸を開けて出迎えてはくれない。
「すみません、たいへん遅くなりました!」
お照はみずから戸を開けて、しっかりと敷居をまたいだ。
自分はなんて短絡的なんだろう。女将に呼ばれただけで喜んでいるのだから。
屈託を笑みで隠す。
「おかえりなさい」
「お待たせしました。頼まれていたもの、買い求めてきました」
お照が差し出した風呂敷を女将は目を輝かせて受け取ると、さっそく作業台に並べだした。
女将に頼まれていたのは庶民にいま流行りの錦絵だ。先日の役者絵を見て以来、すっかり浮世絵に心を奪われたのだと女将は言う。
女将は役者ではなく、浮世絵に夢中なのだった。
お照が買ったのは大人気の喜多川歌麿の美人大首絵や鳥居清長の復刻摺りなどの美人画、二十枚ほどである。日本橋通油町と伝馬町の地本問屋をいくつも回り、店主のおすすめや売れ筋をさらってきたのだ。
「倹約令の前はもっと色数があって華やかだったそうです。女郎を題材にするのも風紀が乱れるとうるさいらしくて」
「だから同じ女を描いているのね。これは誰の肖像なの」
「いえ、同じ女ではありません。これは水茶屋の看板娘、それは花見をする商家のお内儀、いま女将が手に持ってるのは、源氏物語に見立てた……花魁競演の絵ですかね」
ご公儀がいくら規制をしても、あの手この手で切り抜けるのが庶民の意気だ。女郎を描くなと言われれば、歴史画や武者絵を女郎の似顔で描く。色数を減らせと言われれば、着物の柄を摺らずに、空摺りで凹凸で表現するなど。
うなぎのようにご公儀の手をぬるりとすり抜けようとする。
「肖像画ではないの? でもみんな同じ顔をしているじゃないの」
「同じ顔? よく見てくださいよ。歌麿は色っぽいし、清長は背が高く顔も長いですよ。北尾政演なんかは凜々しいではありませんか」
女将は目を凝らして見比べていたが、やがて曖昧に微笑んだ。
「お気に召しませんでしたか? 明日にでももう一度、今度は趣の異なるものを買ってきましょうか」
「いいえ、気に入ったわ。もし、わたくしが肖像画を依頼するとしたら、やはりこのような顔になるのかしら。垂れ気味のわたくしの目が吊り上がってしまうのかしら」
お照は美人画と女将の顔を交互に眺めた。女将の顔は浮世絵美人の類型には当てはまらない。
「肖像……ですか。肉筆の一点ものを? それとも摺物を?」
「そうね、どうしようかしら。まあ、急ぐこともないわね。実はわたくしの国では絵画は王や貴族、ブルジョアのためのもの。風刺画はありましたけれど、庶民が楽しむために個々に絵を買い求めるなんてことはありませんでしたの」
「そうなのですか」
「かつては仲の良いお抱え絵師もいて、たくさん描いてもらったものですわ」
「……その絵師は男ですか?」
知らず知らず、女将の暮らしぶりを探るような問いになってしまった。鬼頭が間夫などと言ったせいだ。
「いいえ、女ですわ。浮世絵の絵師は男ばかりですの?」
お照はほっと息をついた。問いの真意に気づかれなかったようだ。
「女もいるとは思いますが」
画名を男名にしたり性別不明にしたりしていたらわからないだろう。絵を見ただけでは男の手か女の手かはわからないものだ。
お照は壁に貼ってある役者絵に目をとめた。美人画と役者絵は違う。美人画は美人を典型にはめて描く。役者絵は、役どころの典型は踏まえつつも個々の役者の特徴を描く。
女将は役者絵のほうをより好んでいるようだ。
男と女の描き分けが違うという単純な話ではない。が、どう説明したものか迷っているうちに女将は腰を上げた。
「さて、では夕餉の用意をいたしましょうか」
女将は紙を傷めないよう優しい手つきで浮世絵をまとめた。
気に入ったというのは嘘ではないと思えた。
「魚売りから一匹買ったの。ムニエルにしようかと思って」
桶には鯉が入っていた。鮮度は悪くないが、問題はその値段だった。
「一両ですって。それは初鰹の値段ですよ。ぼったくられてます。女将さん、明日からは交渉はわたしがやります」
「あら、そうでしたの」
「鯉には臭みがあります。下処理はまかせてください」
お照は鯉を手早く切り身にした。そのようすを女将が興味深そうに眺めている。なんとなく母に見守られているようなくすぐったい気分になった。
熱湯をかけ、冷水で洗う。切り身にしたところで、お照は振り返った。
「ところでムニエルってなんです?」
「ただいま戻りました」
心張り棒をはずす音が中から聞こえてくると、お照は大きく息を吸い込んだ。
このまま奉公を続けるかどうか、考え直すなら早いほうがいい。
鬼頭に吹聴されたことに気持ちが揺らいだわけではなかった。ただ根拠のなかった自信が萎んでいったのだ。
父の荒れた生活を理由に奉公を辞することもできるだろう。
女将の顔を見る前に去ったほうがいいのではないか。
抱えていた風呂敷を置いて去ろうと思った。
「待っていたわ、お照さん」
そのとき、戸の向こうから名を呼ばれた。
だが、女将は戸を開けて出迎えてはくれない。
「すみません、たいへん遅くなりました!」
お照はみずから戸を開けて、しっかりと敷居をまたいだ。
自分はなんて短絡的なんだろう。女将に呼ばれただけで喜んでいるのだから。
屈託を笑みで隠す。
「おかえりなさい」
「お待たせしました。頼まれていたもの、買い求めてきました」
お照が差し出した風呂敷を女将は目を輝かせて受け取ると、さっそく作業台に並べだした。
女将に頼まれていたのは庶民にいま流行りの錦絵だ。先日の役者絵を見て以来、すっかり浮世絵に心を奪われたのだと女将は言う。
女将は役者ではなく、浮世絵に夢中なのだった。
お照が買ったのは大人気の喜多川歌麿の美人大首絵や鳥居清長の復刻摺りなどの美人画、二十枚ほどである。日本橋通油町と伝馬町の地本問屋をいくつも回り、店主のおすすめや売れ筋をさらってきたのだ。
「倹約令の前はもっと色数があって華やかだったそうです。女郎を題材にするのも風紀が乱れるとうるさいらしくて」
「だから同じ女を描いているのね。これは誰の肖像なの」
「いえ、同じ女ではありません。これは水茶屋の看板娘、それは花見をする商家のお内儀、いま女将が手に持ってるのは、源氏物語に見立てた……花魁競演の絵ですかね」
ご公儀がいくら規制をしても、あの手この手で切り抜けるのが庶民の意気だ。女郎を描くなと言われれば、歴史画や武者絵を女郎の似顔で描く。色数を減らせと言われれば、着物の柄を摺らずに、空摺りで凹凸で表現するなど。
うなぎのようにご公儀の手をぬるりとすり抜けようとする。
「肖像画ではないの? でもみんな同じ顔をしているじゃないの」
「同じ顔? よく見てくださいよ。歌麿は色っぽいし、清長は背が高く顔も長いですよ。北尾政演なんかは凜々しいではありませんか」
女将は目を凝らして見比べていたが、やがて曖昧に微笑んだ。
「お気に召しませんでしたか? 明日にでももう一度、今度は趣の異なるものを買ってきましょうか」
「いいえ、気に入ったわ。もし、わたくしが肖像画を依頼するとしたら、やはりこのような顔になるのかしら。垂れ気味のわたくしの目が吊り上がってしまうのかしら」
お照は美人画と女将の顔を交互に眺めた。女将の顔は浮世絵美人の類型には当てはまらない。
「肖像……ですか。肉筆の一点ものを? それとも摺物を?」
「そうね、どうしようかしら。まあ、急ぐこともないわね。実はわたくしの国では絵画は王や貴族、ブルジョアのためのもの。風刺画はありましたけれど、庶民が楽しむために個々に絵を買い求めるなんてことはありませんでしたの」
「そうなのですか」
「かつては仲の良いお抱え絵師もいて、たくさん描いてもらったものですわ」
「……その絵師は男ですか?」
知らず知らず、女将の暮らしぶりを探るような問いになってしまった。鬼頭が間夫などと言ったせいだ。
「いいえ、女ですわ。浮世絵の絵師は男ばかりですの?」
お照はほっと息をついた。問いの真意に気づかれなかったようだ。
「女もいるとは思いますが」
画名を男名にしたり性別不明にしたりしていたらわからないだろう。絵を見ただけでは男の手か女の手かはわからないものだ。
お照は壁に貼ってある役者絵に目をとめた。美人画と役者絵は違う。美人画は美人を典型にはめて描く。役者絵は、役どころの典型は踏まえつつも個々の役者の特徴を描く。
女将は役者絵のほうをより好んでいるようだ。
男と女の描き分けが違うという単純な話ではない。が、どう説明したものか迷っているうちに女将は腰を上げた。
「さて、では夕餉の用意をいたしましょうか」
女将は紙を傷めないよう優しい手つきで浮世絵をまとめた。
気に入ったというのは嘘ではないと思えた。
「魚売りから一匹買ったの。ムニエルにしようかと思って」
桶には鯉が入っていた。鮮度は悪くないが、問題はその値段だった。
「一両ですって。それは初鰹の値段ですよ。ぼったくられてます。女将さん、明日からは交渉はわたしがやります」
「あら、そうでしたの」
「鯉には臭みがあります。下処理はまかせてください」
お照は鯉を手早く切り身にした。そのようすを女将が興味深そうに眺めている。なんとなく母に見守られているようなくすぐったい気分になった。
熱湯をかけ、冷水で洗う。切り身にしたところで、お照は振り返った。
「ところでムニエルってなんです?」
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