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三十一、 わたしがしっかりしないと……
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「今日は勉学に励んだんですってね、シャルル」
お照は夕餉の支度ができたことを伝えに牛小屋に入った。勉学の合い間に動物の世話をするのがシャルルに課せられた仕事である。
牛小屋の中は意外と広い。お照が住んでいた裏長屋の四畳半よりもゆったりとしている。隅には木箱があり、覗いてみたら鶏と目が合った。
シャルルは古い干し草を片側に寄せていた。牛と鶏のふんは桶にまとめてある。毎日きちんと掃除しているせいだろう、悪臭はない。
「お照、おかえり。ご褒美は食べ物?」
「お腹すいたのね。ご褒美は食べ物ではないけれど、そうね、次の機会には浅草名物の草餅でも買ってきましょう。夕餉のムニエルができてるよ」
「ねえ、これ知ってる?」
シャルルが地面から白い粒石のようなものを拾い上げた。
「いやだ、汚い。しょんべん塩でしょ」
古い家の軒下や水はけの悪い厠のそばで見かけることがある。排せつ物が凝り固まるとしょんべん塩になるのだ。牛の排せつ物が偶然作り出したものだろう。
「塩硝。結晶になるのに一年以上かかるんだよ。貴重なものだ」
シャルルは宝物のように紙にくるんで帯に挟んだ。
「ということは、あれはわざと取ってあるの?」
桶にたまった牛の排せつ物を指さす。
「ううん、あれは捨てるよ」
「捨てる? 売るんじゃなくて?」
「売るって?」
「牛や鶏のふんは下肥に使えるじゃない。人糞も仲買人が来るでしょ。一緒に売ったらどう?」
長屋の人糞は大家の持ち物なので、売った代金は大家の懐に入る。人糞は農家で下肥にするから売り物になるのだ。
「人糞を買う人なんかいるの?」
シャルルの驚きようを見ると、吉原でも個々の買取はないようだ。きっとまとめて会所の運営費に回っているのだろう。
「フランスでは町がすごく臭かったんだ。町だけでなく宮殿も。廊下の端や庭の花壇が用足しの場だったもの。……おかしいな、肥料になるんでしょ、花が枯れちゃうこともあったよ」
「……夕餉、冷めちゃうから、その話はあとにしよう」
夕餉前の話題にはふさわしくない。
お腹が満たされたあと、シャルルにご褒美を渡した。地本問屋で買った黄表紙だ。黄表紙は荒唐無稽な筋立てが多いが、なるべく明るく楽しい物語を選んだつもりだ。
挿絵も多いので、お照でさえ丁をめくるだけでわくわくする。
「お母さま、二階で読んでいいですか」
女将がうなずくのを見て、シャルルは嬉しそうに目を輝かせた。
どうやら気に入ってくれたようだ。誰かのために真剣に贈り物を選んだのが初めてだったので、お照はほっと息を吐いた。
翌朝、お照が湯を沸かしに土間に行くと、女将が作業台で紙を広げていた。
「墨と筆に慣れようと思って、レンシューしているのよ」
女将は筆を握っていた。お手本は浮世絵。女将は絵を写していた。
「どうしても線がゆがんでしまうわ。どうやったらキンイツの太さで描けるのかしら。お照さん、ちょっと見本をみせて」
「はあ」
筆を持たされてもお照には絵の才能があるわけではない。なんとか歌麿をまねてみたが、女将の絵とどっこいどっこいだった。
「で、でも、こういうことは慣れですから」
字を書くときとは異なる緊張がある。
「ああ、これも失敗」
途中まではいい具合に描けたものの、墨を含みすぎた筆がぽとりと顔に落ちた。女将は苛立たし気に紙をひねった。おそらく女将はたいていのことはうまくこなせる人なのだろう。だからうまくいかないことがあると納得がいかないのだ。
「絵師が描いているところを目の前で見れたらいいですね」
「そうね、見てみたいわ」
力を込めて紙をひねるようすに違和感があった。
「もしやその紙、奉書紙ではありませんか」
高級紙である。しかも厚みのある最高級品だった。
お照は自分が反故にした紙も奉書紙と知って愕然とした。こんな高級紙で練習をするのはもったいない。
「オーゲサねえ。たかが紙ですわ。焚きつけようにしましょう」
「いけません!」
お照はくしゃくしゃになった紙のしわを伸ばした。
「反故紙は買い取ってもらえます。失敗した分を売るだけで、練習用の紙が十分あがなえます」
「ホゴを買い取ってどうするの?」
「また紙を作るんです。何度でも漉きなおせます。もちろん質はどんどん下がっていきますけど、とても安く買えます」
厠で使った尻拭き紙でさえ買い取ってもらえるんですよ、と喉まで出かかったが、ぐっとこらえる。
「ゴウリテキですね。安くなればこどもの手習いでも惜しくない」
「奉書紙を選んだのはなぜですか」
「たまたま、吉原にある紙屋で買ったものですわ。これしかないとかで」
お照が心配したとおり、女将は人を信じやすい性質なのだ。そこを見透かされて、相場よりも高い値段を言い値で支払っていたようだった。
「ボッタクリ? あらまあ。次に買うときはお照さんについてきてもらうようにするわ」
鷹揚に微笑む女将にお照は江戸で一年よく生きてこれたものだと感心した。
わたしがしっかりしないと。
お照は知らず知らず歌麿美人を睨みつけていた。
お照は夕餉の支度ができたことを伝えに牛小屋に入った。勉学の合い間に動物の世話をするのがシャルルに課せられた仕事である。
牛小屋の中は意外と広い。お照が住んでいた裏長屋の四畳半よりもゆったりとしている。隅には木箱があり、覗いてみたら鶏と目が合った。
シャルルは古い干し草を片側に寄せていた。牛と鶏のふんは桶にまとめてある。毎日きちんと掃除しているせいだろう、悪臭はない。
「お照、おかえり。ご褒美は食べ物?」
「お腹すいたのね。ご褒美は食べ物ではないけれど、そうね、次の機会には浅草名物の草餅でも買ってきましょう。夕餉のムニエルができてるよ」
「ねえ、これ知ってる?」
シャルルが地面から白い粒石のようなものを拾い上げた。
「いやだ、汚い。しょんべん塩でしょ」
古い家の軒下や水はけの悪い厠のそばで見かけることがある。排せつ物が凝り固まるとしょんべん塩になるのだ。牛の排せつ物が偶然作り出したものだろう。
「塩硝。結晶になるのに一年以上かかるんだよ。貴重なものだ」
シャルルは宝物のように紙にくるんで帯に挟んだ。
「ということは、あれはわざと取ってあるの?」
桶にたまった牛の排せつ物を指さす。
「ううん、あれは捨てるよ」
「捨てる? 売るんじゃなくて?」
「売るって?」
「牛や鶏のふんは下肥に使えるじゃない。人糞も仲買人が来るでしょ。一緒に売ったらどう?」
長屋の人糞は大家の持ち物なので、売った代金は大家の懐に入る。人糞は農家で下肥にするから売り物になるのだ。
「人糞を買う人なんかいるの?」
シャルルの驚きようを見ると、吉原でも個々の買取はないようだ。きっとまとめて会所の運営費に回っているのだろう。
「フランスでは町がすごく臭かったんだ。町だけでなく宮殿も。廊下の端や庭の花壇が用足しの場だったもの。……おかしいな、肥料になるんでしょ、花が枯れちゃうこともあったよ」
「……夕餉、冷めちゃうから、その話はあとにしよう」
夕餉前の話題にはふさわしくない。
お腹が満たされたあと、シャルルにご褒美を渡した。地本問屋で買った黄表紙だ。黄表紙は荒唐無稽な筋立てが多いが、なるべく明るく楽しい物語を選んだつもりだ。
挿絵も多いので、お照でさえ丁をめくるだけでわくわくする。
「お母さま、二階で読んでいいですか」
女将がうなずくのを見て、シャルルは嬉しそうに目を輝かせた。
どうやら気に入ってくれたようだ。誰かのために真剣に贈り物を選んだのが初めてだったので、お照はほっと息を吐いた。
翌朝、お照が湯を沸かしに土間に行くと、女将が作業台で紙を広げていた。
「墨と筆に慣れようと思って、レンシューしているのよ」
女将は筆を握っていた。お手本は浮世絵。女将は絵を写していた。
「どうしても線がゆがんでしまうわ。どうやったらキンイツの太さで描けるのかしら。お照さん、ちょっと見本をみせて」
「はあ」
筆を持たされてもお照には絵の才能があるわけではない。なんとか歌麿をまねてみたが、女将の絵とどっこいどっこいだった。
「で、でも、こういうことは慣れですから」
字を書くときとは異なる緊張がある。
「ああ、これも失敗」
途中まではいい具合に描けたものの、墨を含みすぎた筆がぽとりと顔に落ちた。女将は苛立たし気に紙をひねった。おそらく女将はたいていのことはうまくこなせる人なのだろう。だからうまくいかないことがあると納得がいかないのだ。
「絵師が描いているところを目の前で見れたらいいですね」
「そうね、見てみたいわ」
力を込めて紙をひねるようすに違和感があった。
「もしやその紙、奉書紙ではありませんか」
高級紙である。しかも厚みのある最高級品だった。
お照は自分が反故にした紙も奉書紙と知って愕然とした。こんな高級紙で練習をするのはもったいない。
「オーゲサねえ。たかが紙ですわ。焚きつけようにしましょう」
「いけません!」
お照はくしゃくしゃになった紙のしわを伸ばした。
「反故紙は買い取ってもらえます。失敗した分を売るだけで、練習用の紙が十分あがなえます」
「ホゴを買い取ってどうするの?」
「また紙を作るんです。何度でも漉きなおせます。もちろん質はどんどん下がっていきますけど、とても安く買えます」
厠で使った尻拭き紙でさえ買い取ってもらえるんですよ、と喉まで出かかったが、ぐっとこらえる。
「ゴウリテキですね。安くなればこどもの手習いでも惜しくない」
「奉書紙を選んだのはなぜですか」
「たまたま、吉原にある紙屋で買ったものですわ。これしかないとかで」
お照が心配したとおり、女将は人を信じやすい性質なのだ。そこを見透かされて、相場よりも高い値段を言い値で支払っていたようだった。
「ボッタクリ? あらまあ。次に買うときはお照さんについてきてもらうようにするわ」
鷹揚に微笑む女将にお照は江戸で一年よく生きてこれたものだと感心した。
わたしがしっかりしないと。
お照は知らず知らず歌麿美人を睨みつけていた。
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