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三十三、 女将と花魁
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手代の弥五郎は女将一行を万寿屋の二階に案内した。両隣の座敷から三味線の音、賑やかな笑声が聞こえてくる。
「花魁は馴染みの客を断って女将さんをお待ちしてたそうですよ、うらやましいことで」
室内には花魁と禿の二人だけしかいなかった。
高月が人気花魁だというのはなるほどとうなずけた。
歳は二十歳前後。涼やかな目元、ぷっくりした紅い唇、黒漆のような艶のある髪、それらを支える華奢な細首。それと女将に匹敵するほどの威厳。
豪奢で重たそうな打掛も、臨月の腹のような太い前帯も、しかしお照の目には奇異に映る。あえて身動きが取れない格好をして生活の匂いを消している。
ここが異界だと、客に思わせる演出なのだ。吉原の花魁は夢の女。ここは竜宮城。
部屋には花の香りが立ちこめている。お照はくらくらした。
ふと見ると真琴が微笑んでいる。その視線の先にはシャルルが、これまた笑っている。
くらくらしているときではない。
高月花魁の見つめる先は女将である。こちらは両者とも笑顔を欠いていた。
「よう来なんした。お座りなんし」
低音でもないのに重みと厚みを感じる、凛とした声。
「わたくしを呼び出すとは、どんな女かと思っていたのだけど」
もちろん女将も負けていない。傲然と言い放つ。
「まるで逆じゃないの。オイランを待つ客気取りで一服しているなんて」
高月はくるりと煙管をまわして、吸い口を女将に向けた。
「吉原ありんす国では花魁がもっとも偉いんでありんすよ」
上座は花魁が座る場所である。今はその上座を女将のために空けてある。
それをみとめたのか、女将はすっと息を止めたあと、無表情で座すと、高月が手渡した煙管に形ばかり口をつけた。
嵐の予感に、お照の胸の鼓動は鳴りやまない。
「失礼いたします」
弥五郎が障子を開けた。場違いなほどにこにこと笑顔をふりまいている。
「喜の字屋の縁起物より万寿屋のほうがきっとお口に合いますよ。どうぞ出来立てを召し上がってください」
万寿屋が腕を振るった料理が運ばれて大きな台に並べられた。宴席で定番の喜の字屋の台の物は見栄えだけで美味しくないという話だが、それでも見栄を張って注文をする客は多いと聞く。花魁道中よろしく台の物道中で賑々しく運ばれる料理は、華やかさとは裏腹に見掛け倒しなのだ。
だが、素朴な食材を使った万寿屋の料理のほうが、お照には輝いて見える。菜の花と卯の花の和え物、鯵の天ぷら、寿司、アサリの汁もの。
空いた席に一人分の箱膳が置かれたが、これから来るという絵師のためだろうか。
ふたたび障子が閉まると、女将はお照に向かって微笑んだ。
「こちら、高月花魁のかかりだそうだから、エンリョなく召し上がらなくては失礼になるわ」
料理をじっとりと愛でていたことに気づかれたようだ。
では遠慮なくと、まず最初に箸をつけた。季節の香りが口中を満たす。
「万寿屋さんのお料理はやっぱり美味しいですねえ」
「ではわたくしたちもいただきましょう」
女将がシャルルに声をかけた。
もしかして、さりげなく毒見役をさせられた……?
いやいや、そんなことはないと思いなおす。
「真琴、食べないの?」
シャルルが高月のそばでかしこまっていた真琴を手招きした。
「真琴、おまえも遠慮せずに食べなさい。わちきもいただきますから」
「あい」
高月の許しを得て、真琴が嬉しそうに笑った。
「お酒は好まれますか?」
高月花魁が女将に酒を勧めたが女将は断った。
高月は気にするようすもなく手酌でくいと杯をあおぐ。
「あら、美味しい」
高月は幾度も杯を空にする。なかなか見事な飲みっぷりである。
「料理も初めて食べたけれど、万寿屋は評判通りのよいお味」
「初めて?」
思わずお照は訊ねていた。高月は有名な花魁だ。客から万寿屋に呼び出されたことは数えきれないほどあるはずなのに、なぜ。
その疑問はすぐに氷解した。
「客の前では飲むも食うも許されません。だけど今夜は客がおりんせんから」
「あら、どうして許されないの」女将は興味をひかれたようだ。「ああ、わかったわ。客に夢の女を演じて見せなければならないからですわね」
高月は肯うように笑う。
「食べたり飲んだりしているときはどうしても顔が卑しくなりますから」
寿司を頬張っていたお照は喉を詰まらせそうになった。
「たしかに」女将はなにかを思い出すような遠い目をした。「夫は大勢のカンキャクがいる前でも堂々と食べていましたけれど」
「観客とは?」
高月は首を傾げた。
「王族らしいゴウカな食事風景を見物人に公開するギシキがあったのです。夫と並んで食事をするのは苦痛でしたわ。まるで見世物のようで」
「その観客というのは、相伴するのではなく、ただ見ているだけ?」
高月は不思議そうな顔になった。
「ええ。だからわたくしは公開の場ではいっさい食べないようにしましたの。お酒もエンリョしました。ただひたすら水だけを飲んでいましたわ」
「見物人はさぞがっかりしたことでありんしょう」
「シェフったら張り切ってこってりした重い料理ばかり出すのですもの。王のケンイを見せつけるのが、そもそもの目的でしたから、当然なのかもしれませんけれど、わたくしの好みではありませんでしたわ。わたくしはさわやかな果物や舌に甘い菓子をつまむのが好きですの」
女将の小食ぶりは、お照はよく知っている。
「わちきは逆でありんす。食べられるときには、あるだけ詰め込みます。でないと不安で。きっと女将さんとは生まれ育ちが正反対なんでありんしょう。見得や張りを女将さんと競うのはやめておきんす」
言葉どおり、高月は料理に箸をのばすとぱくりぱくりと頬張った。これまた見惚れるような食べっぷりだった。お照だって負けてられない。
女将はじっとそのようすを見ている。
「おやめくださいな。そんな憐れみの目で見ないでおくんなんし」
高月の言葉に、女将がわずかに上体を仰け反らした。めずらしく動揺している。
「花魁は馴染みの客を断って女将さんをお待ちしてたそうですよ、うらやましいことで」
室内には花魁と禿の二人だけしかいなかった。
高月が人気花魁だというのはなるほどとうなずけた。
歳は二十歳前後。涼やかな目元、ぷっくりした紅い唇、黒漆のような艶のある髪、それらを支える華奢な細首。それと女将に匹敵するほどの威厳。
豪奢で重たそうな打掛も、臨月の腹のような太い前帯も、しかしお照の目には奇異に映る。あえて身動きが取れない格好をして生活の匂いを消している。
ここが異界だと、客に思わせる演出なのだ。吉原の花魁は夢の女。ここは竜宮城。
部屋には花の香りが立ちこめている。お照はくらくらした。
ふと見ると真琴が微笑んでいる。その視線の先にはシャルルが、これまた笑っている。
くらくらしているときではない。
高月花魁の見つめる先は女将である。こちらは両者とも笑顔を欠いていた。
「よう来なんした。お座りなんし」
低音でもないのに重みと厚みを感じる、凛とした声。
「わたくしを呼び出すとは、どんな女かと思っていたのだけど」
もちろん女将も負けていない。傲然と言い放つ。
「まるで逆じゃないの。オイランを待つ客気取りで一服しているなんて」
高月はくるりと煙管をまわして、吸い口を女将に向けた。
「吉原ありんす国では花魁がもっとも偉いんでありんすよ」
上座は花魁が座る場所である。今はその上座を女将のために空けてある。
それをみとめたのか、女将はすっと息を止めたあと、無表情で座すと、高月が手渡した煙管に形ばかり口をつけた。
嵐の予感に、お照の胸の鼓動は鳴りやまない。
「失礼いたします」
弥五郎が障子を開けた。場違いなほどにこにこと笑顔をふりまいている。
「喜の字屋の縁起物より万寿屋のほうがきっとお口に合いますよ。どうぞ出来立てを召し上がってください」
万寿屋が腕を振るった料理が運ばれて大きな台に並べられた。宴席で定番の喜の字屋の台の物は見栄えだけで美味しくないという話だが、それでも見栄を張って注文をする客は多いと聞く。花魁道中よろしく台の物道中で賑々しく運ばれる料理は、華やかさとは裏腹に見掛け倒しなのだ。
だが、素朴な食材を使った万寿屋の料理のほうが、お照には輝いて見える。菜の花と卯の花の和え物、鯵の天ぷら、寿司、アサリの汁もの。
空いた席に一人分の箱膳が置かれたが、これから来るという絵師のためだろうか。
ふたたび障子が閉まると、女将はお照に向かって微笑んだ。
「こちら、高月花魁のかかりだそうだから、エンリョなく召し上がらなくては失礼になるわ」
料理をじっとりと愛でていたことに気づかれたようだ。
では遠慮なくと、まず最初に箸をつけた。季節の香りが口中を満たす。
「万寿屋さんのお料理はやっぱり美味しいですねえ」
「ではわたくしたちもいただきましょう」
女将がシャルルに声をかけた。
もしかして、さりげなく毒見役をさせられた……?
いやいや、そんなことはないと思いなおす。
「真琴、食べないの?」
シャルルが高月のそばでかしこまっていた真琴を手招きした。
「真琴、おまえも遠慮せずに食べなさい。わちきもいただきますから」
「あい」
高月の許しを得て、真琴が嬉しそうに笑った。
「お酒は好まれますか?」
高月花魁が女将に酒を勧めたが女将は断った。
高月は気にするようすもなく手酌でくいと杯をあおぐ。
「あら、美味しい」
高月は幾度も杯を空にする。なかなか見事な飲みっぷりである。
「料理も初めて食べたけれど、万寿屋は評判通りのよいお味」
「初めて?」
思わずお照は訊ねていた。高月は有名な花魁だ。客から万寿屋に呼び出されたことは数えきれないほどあるはずなのに、なぜ。
その疑問はすぐに氷解した。
「客の前では飲むも食うも許されません。だけど今夜は客がおりんせんから」
「あら、どうして許されないの」女将は興味をひかれたようだ。「ああ、わかったわ。客に夢の女を演じて見せなければならないからですわね」
高月は肯うように笑う。
「食べたり飲んだりしているときはどうしても顔が卑しくなりますから」
寿司を頬張っていたお照は喉を詰まらせそうになった。
「たしかに」女将はなにかを思い出すような遠い目をした。「夫は大勢のカンキャクがいる前でも堂々と食べていましたけれど」
「観客とは?」
高月は首を傾げた。
「王族らしいゴウカな食事風景を見物人に公開するギシキがあったのです。夫と並んで食事をするのは苦痛でしたわ。まるで見世物のようで」
「その観客というのは、相伴するのではなく、ただ見ているだけ?」
高月は不思議そうな顔になった。
「ええ。だからわたくしは公開の場ではいっさい食べないようにしましたの。お酒もエンリョしました。ただひたすら水だけを飲んでいましたわ」
「見物人はさぞがっかりしたことでありんしょう」
「シェフったら張り切ってこってりした重い料理ばかり出すのですもの。王のケンイを見せつけるのが、そもそもの目的でしたから、当然なのかもしれませんけれど、わたくしの好みではありませんでしたわ。わたくしはさわやかな果物や舌に甘い菓子をつまむのが好きですの」
女将の小食ぶりは、お照はよく知っている。
「わちきは逆でありんす。食べられるときには、あるだけ詰め込みます。でないと不安で。きっと女将さんとは生まれ育ちが正反対なんでありんしょう。見得や張りを女将さんと競うのはやめておきんす」
言葉どおり、高月は料理に箸をのばすとぱくりぱくりと頬張った。これまた見惚れるような食べっぷりだった。お照だって負けてられない。
女将はじっとそのようすを見ている。
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