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三十六、 第一回サロン開催
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それから三日後の早朝、万寿屋の一室を貸し切ってさっそくサロンが開かれた。
集まったのは女将、高月花魁、お照、シャルル、真琴のほか絵師の秋馬、なぜか半兵衛までついてきた。
絵を描いているのは秋馬と女将くらいで、あとはおしゃべりに夢中である。
高月花魁は泊まり客を大門まで見送ったあととかで、眠そうだ。
シャルルは黄表紙を広げて真琴と一緒に見入っている。
「生き生きした姿を描くのは難しいわねえ。これじゃ、まるで死人」
女将は思うとおりに筆を扱えず、少し苛立っている。
「死人と言えば……半兵衛さん、女将さんの推察、どう思いました?」
「無理だよ」
先日の女将の読みを話してみたが「奉行所の手は離れたので」と、半兵衛はまったく取り合おうとはしない。朝から万寿屋に頼んで酒を用意させ、柱に寄りかかって一人手酌で楽しんでいる。
奉行所の勤めは月番である。月が改まったのだから半兵衛は非番のはずなのだが。
「……吉原の住人の誰かを見張ってろ、なんて、誰かさんから指示されてるんですか?」
「ん、鬼頭どのからか? ないぞ、そんなもん」
半兵衛は三本目のとっくりがからになったと気づくと、舌打ちした。酔いが回ってきているようだ。
「女将さんをつけまわしてるんでありんしょう」
眠たげな声でありながら高月は辛辣だ。
「つけ回すとはなんだ。女将はご公儀から預かってるようなもんだ。身辺を守るのは当然だ。あんたらも失礼がないようにしなくちゃいかんぞ」
「だとしたら半兵衛どの、吉原にホトケさんを捨てに来るような得体の知れないのがうろついてるのがわちきは怖いですよう。奉行所の手を離れたからと放っておいていいものかしら。吉原の治安は四郎兵衛会所だけでは心許ない。やはりお役人さまに張り切っていただかないと……」
膝に置かれた高月の手に、顔面を崩壊させて、半兵衛は唸った。
「ううん……だがなあ、一軒一軒見回るなんてかったるい。余計なことをしたら鬼頭どのに大目玉を食らうわ」
半兵衛はあくびをして寝転んだ。いまならうっかりと口を滑らせるかもしれない、とお照はにじり寄る。
「鬼頭どのはそんなに偉いおひとなんですかえ。なにものなんです?」
寝かせてくれと言う半兵衛をお照がしつこく揺すると、半兵衛は勘弁してくれと手をひらひらさせた。
「やはり、隠密ですか?」
お照がずばりと斬り込むと、
「わかんね。隠密が自分から隠密だとは名乗らねえしな。なんにしろ、与力や奉行より立場は上らしい。おれみたいな木っ端は刃向かえねえのよ」
大きな溜息をついて顔を背ける。半兵衛にも鬼頭への不満がありそうだ。
「まあ、ほんとうにきれいね」
興奮した女将の声がした。振り返ると絵師が鮮やかな藍色の顔料を紙にのせたところだった。
「深い海の色ね」
青魚の背のような深い藍色。真水ににじむと真夏の快晴のような奥行きのある青が覗く。静かに燃え立つ陽炎のようでもある。
「こっちの緑も鮮やかでやんしょう。どっちも舶来もんで数が出回らないらしいです。作り方がわかればいずれ私家版も出るんでしょうけど」
「混色にしたらたくさんの色が作れるんじゃないかしら」
「それがそうはいかないんですよ。やってみましょうか」
筆皿の中身が次第に黒ずんでくる。
「あら、不思議ね」
「材料の鉱物の相性が悪いと色が汚くなるんで、なるべく混ぜないで使います。そうでなくても比重が違うだけでうまく混ざらないし。膠でごまかすのも限界があって、けっこう扱いが難しいんです」
「わかったわ。混ぜないで使う、と。でもそうなるとたくさんの色を揃えなくてはいけませんわね」
「手始めに十二色くらいあれば十分ですよねえ、秋馬さん」
店にある色すべて買ってきなさいと言い出しかねない女将をとどめるのもお照の務めだ。
「十分ですよ。たいていのものは描けますから」
秋馬は察したようすで首肯した。
「あ、そういえば」お照はふと思い出したことを口にした。「高価だとおっしゃってましたよね。この藍色や緑色は稀少なのでとくに高いと」
女将のサロンのために秋馬が無理をして購ったのではないかと心配になった。
彼への謝礼は実費に手間賃を足したぶんと決めたのはお照自身である。個々の楽しみのための無理のないサロンであってほしいからだ。
「ああ、ご心配なく。ちょいと割のいい荷運びの仕事を始めたんですよ。唐物を扱ってる荷主から安くわけてもらえるんです。外国との貿易は景気が良さそうで羨ましいですよ」
「荷運びですか。手や指を怪我しないように気をつけなくてはなりませんね。本業に響きますわ」
女将はあくまで秋馬を一人前の絵師として扱う。
秋馬は照れくさそうに頭を搔いた。
「指定された場所に舟で運ぶだけなんで楽な仕事です。まだ始めて間もないんですけど、信用されたのか届け場所も増えてまして、早く絵師で身を立てないと、どっちが本業かわかんなくなりそうです」
これからますます忙しくなると言う秋馬だったが、月二回開催のサロンは優先して来てくれると約束してくれた。
次の開催までに動物を描いて持ってくる、という課題が与えられた。
お照は吉牛を描くと決めた。女将は寝転んでいる半兵衛をじっと見ていた。
平穏でなにごともない日々に思えた。しかしお照は知らず知らずに後戻りができない方向に、着実に進んでしまっていたのだった。
集まったのは女将、高月花魁、お照、シャルル、真琴のほか絵師の秋馬、なぜか半兵衛までついてきた。
絵を描いているのは秋馬と女将くらいで、あとはおしゃべりに夢中である。
高月花魁は泊まり客を大門まで見送ったあととかで、眠そうだ。
シャルルは黄表紙を広げて真琴と一緒に見入っている。
「生き生きした姿を描くのは難しいわねえ。これじゃ、まるで死人」
女将は思うとおりに筆を扱えず、少し苛立っている。
「死人と言えば……半兵衛さん、女将さんの推察、どう思いました?」
「無理だよ」
先日の女将の読みを話してみたが「奉行所の手は離れたので」と、半兵衛はまったく取り合おうとはしない。朝から万寿屋に頼んで酒を用意させ、柱に寄りかかって一人手酌で楽しんでいる。
奉行所の勤めは月番である。月が改まったのだから半兵衛は非番のはずなのだが。
「……吉原の住人の誰かを見張ってろ、なんて、誰かさんから指示されてるんですか?」
「ん、鬼頭どのからか? ないぞ、そんなもん」
半兵衛は三本目のとっくりがからになったと気づくと、舌打ちした。酔いが回ってきているようだ。
「女将さんをつけまわしてるんでありんしょう」
眠たげな声でありながら高月は辛辣だ。
「つけ回すとはなんだ。女将はご公儀から預かってるようなもんだ。身辺を守るのは当然だ。あんたらも失礼がないようにしなくちゃいかんぞ」
「だとしたら半兵衛どの、吉原にホトケさんを捨てに来るような得体の知れないのがうろついてるのがわちきは怖いですよう。奉行所の手を離れたからと放っておいていいものかしら。吉原の治安は四郎兵衛会所だけでは心許ない。やはりお役人さまに張り切っていただかないと……」
膝に置かれた高月の手に、顔面を崩壊させて、半兵衛は唸った。
「ううん……だがなあ、一軒一軒見回るなんてかったるい。余計なことをしたら鬼頭どのに大目玉を食らうわ」
半兵衛はあくびをして寝転んだ。いまならうっかりと口を滑らせるかもしれない、とお照はにじり寄る。
「鬼頭どのはそんなに偉いおひとなんですかえ。なにものなんです?」
寝かせてくれと言う半兵衛をお照がしつこく揺すると、半兵衛は勘弁してくれと手をひらひらさせた。
「やはり、隠密ですか?」
お照がずばりと斬り込むと、
「わかんね。隠密が自分から隠密だとは名乗らねえしな。なんにしろ、与力や奉行より立場は上らしい。おれみたいな木っ端は刃向かえねえのよ」
大きな溜息をついて顔を背ける。半兵衛にも鬼頭への不満がありそうだ。
「まあ、ほんとうにきれいね」
興奮した女将の声がした。振り返ると絵師が鮮やかな藍色の顔料を紙にのせたところだった。
「深い海の色ね」
青魚の背のような深い藍色。真水ににじむと真夏の快晴のような奥行きのある青が覗く。静かに燃え立つ陽炎のようでもある。
「こっちの緑も鮮やかでやんしょう。どっちも舶来もんで数が出回らないらしいです。作り方がわかればいずれ私家版も出るんでしょうけど」
「混色にしたらたくさんの色が作れるんじゃないかしら」
「それがそうはいかないんですよ。やってみましょうか」
筆皿の中身が次第に黒ずんでくる。
「あら、不思議ね」
「材料の鉱物の相性が悪いと色が汚くなるんで、なるべく混ぜないで使います。そうでなくても比重が違うだけでうまく混ざらないし。膠でごまかすのも限界があって、けっこう扱いが難しいんです」
「わかったわ。混ぜないで使う、と。でもそうなるとたくさんの色を揃えなくてはいけませんわね」
「手始めに十二色くらいあれば十分ですよねえ、秋馬さん」
店にある色すべて買ってきなさいと言い出しかねない女将をとどめるのもお照の務めだ。
「十分ですよ。たいていのものは描けますから」
秋馬は察したようすで首肯した。
「あ、そういえば」お照はふと思い出したことを口にした。「高価だとおっしゃってましたよね。この藍色や緑色は稀少なのでとくに高いと」
女将のサロンのために秋馬が無理をして購ったのではないかと心配になった。
彼への謝礼は実費に手間賃を足したぶんと決めたのはお照自身である。個々の楽しみのための無理のないサロンであってほしいからだ。
「ああ、ご心配なく。ちょいと割のいい荷運びの仕事を始めたんですよ。唐物を扱ってる荷主から安くわけてもらえるんです。外国との貿易は景気が良さそうで羨ましいですよ」
「荷運びですか。手や指を怪我しないように気をつけなくてはなりませんね。本業に響きますわ」
女将はあくまで秋馬を一人前の絵師として扱う。
秋馬は照れくさそうに頭を搔いた。
「指定された場所に舟で運ぶだけなんで楽な仕事です。まだ始めて間もないんですけど、信用されたのか届け場所も増えてまして、早く絵師で身を立てないと、どっちが本業かわかんなくなりそうです」
これからますます忙しくなると言う秋馬だったが、月二回開催のサロンは優先して来てくれると約束してくれた。
次の開催までに動物を描いて持ってくる、という課題が与えられた。
お照は吉牛を描くと決めた。女将は寝転んでいる半兵衛をじっと見ていた。
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