江戸のアントワネット

あかいかかぽ

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三十七、 秋馬、捕まる

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「もう邪魔しないでよ、吉牛」

 第一回サロンから十日が過ぎた。
 だがお照は満足のいく動物の絵は描けていない。

 吉牛はわがままな牛だった。シャルルがいるときは従順なのに、お照しかいないときはそっぽを向く。顔を描きたかったお照は反対側に回り込んだ。だが今度は逆を向かれた。

「わたしのことが嫌いなのかなあ。じゃあ鶏でも描くわ」

 吉牛に背を向けて腰掛けに座って鶏を描き出すと、それも気にくわないのか、吉牛はお照のつんつん髪をむしゃむしゃとかじる。

「ちょ、ちょっと、やめてよ。干し草じゃないのよ。やだ、首舐めないで、くすぐったい」

 このところ、ふいに浮かんでくる嫌な気分があるのだが、吉牛と戯れていると気にしすぎだったのではないかと思えてくる。

 女将を敵視する鬼頭。お歯黒どぶの女は異国人だと言い切った女将。吉原と無関係と聞いて安堵した高月。お照は妾ではないから心配ないと笑った女将。
 あのときは胸の中を引っくり返されたような不快さを感じたのだが、その理由がわからなかった。おそらく、自分はまだありんす国に心が落ち着いていないからだろう。女将の侍女になりきってはいないからだろう。そう思い込もうとしたが、どうにも尻がもぞもぞとする。

 紙に線を一本引いた。
 このように、ここから向こうは自分とは関係ないものだから、見ない聞かない口出ししない、と決然とできたらいいと思う。お照の考えるこちら側とは女将とシャルルの味方ということである。

 だけど女将は本当にこちら側にいるのだろうか、としばしば不安になるのだ。

「ううん、違う……」

 これでは鬼頭の思う壺ではないか。

「お照、たいへんだよ」

 小屋の戸が勢いよく開いて、血相をかえたシャルルが飛び込んで来た。

「秋馬が捕まった」

「秋馬さんが……?!」

「人を殺めたって……」

 お照の手から筆が滑り落ちた。




 吉原大門脇の番屋。お照に詰め寄られた半兵衛は困惑顔で腰に差した二本を忙しなくさすっていた。

「いやあ、おれに聞かれてもよくわかん。よって今から奉行所に行くのだ」

「命じたのは鬼頭なんでしょ」

「……それもまだわからん」

 羽織をひるがえして番屋を出た半兵衛はどこか逃げ腰に見えた。

「わたしも行きます」

「……なにを言ってる」

「半兵衛さんなんでしょ、女将が秋馬さんをサロンに招いたことを伝えたのは。ああ、がっかり。半兵衛さんてもっとものの道理がわかってる人かと思ってたのに。武士は道理より上司の命令のが大事ですもんね。鬼頭め、でっちあげで秋馬さんを拘束するなんて」

「おい、叩くな。痛いではないか」 

 叩かれてこぼした半兵衛の言葉を継ぎ接ぎすると、秋馬が人殺しのかどで捕まったのは間違いなさそうだ。
 よりによってお歯黒どぶの女を殺した疑いだ。鬼頭が勝手に『自害』で終幕にした事件なのに、しかも本音では女将が関与しているのではないかと疑っていたくせに、なぜか蒸し返したのだ。

「サロンの師匠を捕まえるなんて、女将への嫌がらせでしょ」

「まだそうと決まったわけでは──」

「そうに決まってます。だってこの前は女将が事件に関与していると言ってたんですよ。女将を侮辱したんです。人を見る目がないんです、あの鬼は」

 四郎兵衛会所に木札を見せて大門を出る。五十間道を大股で歩む半兵衛に、お照は小走りでついていく。

「駕籠に乗るからおまえはもう帰れ」

 駕籠で奉行所まで行くとけっこうな出費になる。だがお照はぽんと帯を叩いた。

「女将から調べてこいと言われています」

 軍資金はある。
 半兵衛はうんざりした顔になった。

「あ、これ。女将さんが描いた半兵衛さんです。反故を持ってきました。いります?」

「あ、うん、もらおうかな。……そうか、女将がおれを絵に……」

 女将にとっては半兵衛は動物なのだ。鬼頭の飼い犬といったところだろうか。
 照れくさそうな半兵衛を見て、お照は少しだけ溜飲を下げた。
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