37 / 127
三十七、 秋馬、捕まる
しおりを挟む
「もう邪魔しないでよ、吉牛」
第一回サロンから十日が過ぎた。
だがお照は満足のいく動物の絵は描けていない。
吉牛はわがままな牛だった。シャルルがいるときは従順なのに、お照しかいないときはそっぽを向く。顔を描きたかったお照は反対側に回り込んだ。だが今度は逆を向かれた。
「わたしのことが嫌いなのかなあ。じゃあ鶏でも描くわ」
吉牛に背を向けて腰掛けに座って鶏を描き出すと、それも気にくわないのか、吉牛はお照のつんつん髪をむしゃむしゃとかじる。
「ちょ、ちょっと、やめてよ。干し草じゃないのよ。やだ、首舐めないで、くすぐったい」
このところ、ふいに浮かんでくる嫌な気分があるのだが、吉牛と戯れていると気にしすぎだったのではないかと思えてくる。
女将を敵視する鬼頭。お歯黒どぶの女は異国人だと言い切った女将。吉原と無関係と聞いて安堵した高月。お照は妾ではないから心配ないと笑った女将。
あのときは胸の中を引っくり返されたような不快さを感じたのだが、その理由がわからなかった。おそらく、自分はまだありんす国に心が落ち着いていないからだろう。女将の侍女になりきってはいないからだろう。そう思い込もうとしたが、どうにも尻がもぞもぞとする。
紙に線を一本引いた。
このように、ここから向こうは自分とは関係ないものだから、見ない聞かない口出ししない、と決然とできたらいいと思う。お照の考えるこちら側とは女将とシャルルの味方ということである。
だけど女将は本当にこちら側にいるのだろうか、としばしば不安になるのだ。
「ううん、違う……」
これでは鬼頭の思う壺ではないか。
「お照、たいへんだよ」
小屋の戸が勢いよく開いて、血相をかえたシャルルが飛び込んで来た。
「秋馬が捕まった」
「秋馬さんが……?!」
「人を殺めたって……」
お照の手から筆が滑り落ちた。
吉原大門脇の番屋。お照に詰め寄られた半兵衛は困惑顔で腰に差した二本を忙しなくさすっていた。
「いやあ、おれに聞かれてもよくわかん。よって今から奉行所に行くのだ」
「命じたのは鬼頭なんでしょ」
「……それもまだわからん」
羽織をひるがえして番屋を出た半兵衛はどこか逃げ腰に見えた。
「わたしも行きます」
「……なにを言ってる」
「半兵衛さんなんでしょ、女将が秋馬さんをサロンに招いたことを伝えたのは。ああ、がっかり。半兵衛さんてもっとものの道理がわかってる人かと思ってたのに。武士は道理より上司の命令のが大事ですもんね。鬼頭め、でっちあげで秋馬さんを拘束するなんて」
「おい、叩くな。痛いではないか」
叩かれてこぼした半兵衛の言葉を継ぎ接ぎすると、秋馬が人殺しのかどで捕まったのは間違いなさそうだ。
よりによってお歯黒どぶの女を殺した疑いだ。鬼頭が勝手に『自害』で終幕にした事件なのに、しかも本音では女将が関与しているのではないかと疑っていたくせに、なぜか蒸し返したのだ。
「サロンの師匠を捕まえるなんて、女将への嫌がらせでしょ」
「まだそうと決まったわけでは──」
「そうに決まってます。だってこの前は女将が事件に関与していると言ってたんですよ。女将を侮辱したんです。人を見る目がないんです、あの鬼は」
四郎兵衛会所に木札を見せて大門を出る。五十間道を大股で歩む半兵衛に、お照は小走りでついていく。
「駕籠に乗るからおまえはもう帰れ」
駕籠で奉行所まで行くとけっこうな出費になる。だがお照はぽんと帯を叩いた。
「女将から調べてこいと言われています」
軍資金はある。
半兵衛はうんざりした顔になった。
「あ、これ。女将さんが描いた半兵衛さんです。反故を持ってきました。いります?」
「あ、うん、もらおうかな。……そうか、女将がおれを絵に……」
女将にとっては半兵衛は動物なのだ。鬼頭の飼い犬といったところだろうか。
照れくさそうな半兵衛を見て、お照は少しだけ溜飲を下げた。
第一回サロンから十日が過ぎた。
だがお照は満足のいく動物の絵は描けていない。
吉牛はわがままな牛だった。シャルルがいるときは従順なのに、お照しかいないときはそっぽを向く。顔を描きたかったお照は反対側に回り込んだ。だが今度は逆を向かれた。
「わたしのことが嫌いなのかなあ。じゃあ鶏でも描くわ」
吉牛に背を向けて腰掛けに座って鶏を描き出すと、それも気にくわないのか、吉牛はお照のつんつん髪をむしゃむしゃとかじる。
「ちょ、ちょっと、やめてよ。干し草じゃないのよ。やだ、首舐めないで、くすぐったい」
このところ、ふいに浮かんでくる嫌な気分があるのだが、吉牛と戯れていると気にしすぎだったのではないかと思えてくる。
女将を敵視する鬼頭。お歯黒どぶの女は異国人だと言い切った女将。吉原と無関係と聞いて安堵した高月。お照は妾ではないから心配ないと笑った女将。
あのときは胸の中を引っくり返されたような不快さを感じたのだが、その理由がわからなかった。おそらく、自分はまだありんす国に心が落ち着いていないからだろう。女将の侍女になりきってはいないからだろう。そう思い込もうとしたが、どうにも尻がもぞもぞとする。
紙に線を一本引いた。
このように、ここから向こうは自分とは関係ないものだから、見ない聞かない口出ししない、と決然とできたらいいと思う。お照の考えるこちら側とは女将とシャルルの味方ということである。
だけど女将は本当にこちら側にいるのだろうか、としばしば不安になるのだ。
「ううん、違う……」
これでは鬼頭の思う壺ではないか。
「お照、たいへんだよ」
小屋の戸が勢いよく開いて、血相をかえたシャルルが飛び込んで来た。
「秋馬が捕まった」
「秋馬さんが……?!」
「人を殺めたって……」
お照の手から筆が滑り落ちた。
吉原大門脇の番屋。お照に詰め寄られた半兵衛は困惑顔で腰に差した二本を忙しなくさすっていた。
「いやあ、おれに聞かれてもよくわかん。よって今から奉行所に行くのだ」
「命じたのは鬼頭なんでしょ」
「……それもまだわからん」
羽織をひるがえして番屋を出た半兵衛はどこか逃げ腰に見えた。
「わたしも行きます」
「……なにを言ってる」
「半兵衛さんなんでしょ、女将が秋馬さんをサロンに招いたことを伝えたのは。ああ、がっかり。半兵衛さんてもっとものの道理がわかってる人かと思ってたのに。武士は道理より上司の命令のが大事ですもんね。鬼頭め、でっちあげで秋馬さんを拘束するなんて」
「おい、叩くな。痛いではないか」
叩かれてこぼした半兵衛の言葉を継ぎ接ぎすると、秋馬が人殺しのかどで捕まったのは間違いなさそうだ。
よりによってお歯黒どぶの女を殺した疑いだ。鬼頭が勝手に『自害』で終幕にした事件なのに、しかも本音では女将が関与しているのではないかと疑っていたくせに、なぜか蒸し返したのだ。
「サロンの師匠を捕まえるなんて、女将への嫌がらせでしょ」
「まだそうと決まったわけでは──」
「そうに決まってます。だってこの前は女将が事件に関与していると言ってたんですよ。女将を侮辱したんです。人を見る目がないんです、あの鬼は」
四郎兵衛会所に木札を見せて大門を出る。五十間道を大股で歩む半兵衛に、お照は小走りでついていく。
「駕籠に乗るからおまえはもう帰れ」
駕籠で奉行所まで行くとけっこうな出費になる。だがお照はぽんと帯を叩いた。
「女将から調べてこいと言われています」
軍資金はある。
半兵衛はうんざりした顔になった。
「あ、これ。女将さんが描いた半兵衛さんです。反故を持ってきました。いります?」
「あ、うん、もらおうかな。……そうか、女将がおれを絵に……」
女将にとっては半兵衛は動物なのだ。鬼頭の飼い犬といったところだろうか。
照れくさそうな半兵衛を見て、お照は少しだけ溜飲を下げた。
2
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~
bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる