江戸のアントワネット

あかいかかぽ

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四十二、 白牛の拒絶

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「いやよ」

 白牛の返事は取りつく島もない。代わりにと買ってきた最高級の煙草草には見向きもしない。

 お照は焦った。目の前の女は全身から甘い香りを放っている。まるで白牛自身が阿芙蓉の花だ。

「死んでしまうかもしれないんですよ」

「知ってるよ」白牛はゆっくりと煙を吐き出した。「だからなんだい。女郎の命なんて惜しむもんでもない。もう帰っておくれよ。今日は間夫が来る日なんだ」

「死ぬとわかってて、そんな……」

 でっぷりと肉付きがよい白牛だが、前に会ったときに比べて幾分痩せていた。食べるいとまを惜しんで煙草を吸っているせいだろう。

「あんたも吸ってみるかい」

 白牛は死んだ魚のようなとろんとした目でお照を見やり、煙管の吸い口を向けてきた。

「けっこうです。帰りますからひとつだけ教えてください」

 甘い香りにむせ返りそうになりながら、お照は白牛を見据える。

「この煙草草、どこで買ったんですか。吉原の中ですか」

 吉原の中にも煙草屋はある。だが、店をかまえるようなまっとうなところが禁制品を扱うとは思えない。とうに鬼頭が取り締まっているはずだ。
 白牛は一瞬呆けたような表情になったと思うと、突然不機嫌な顔になった。

「教えるもんか。薄情もんが、なんでもかんでも取りあげようとするんじゃないよ」

 そんなつもりはないとお照が言うも、白牛の目は、曾我兄弟が親の仇である工藤祐経を見るかのごとく憎しみにあふれている。

「あんたと違って女郎なんだよ、わっちは。痛みや苦しみを和らげてくれる阿芙蓉くらい、好きに吸わせておくれよ」

「……また、来ます」

 お照は退散するしかなかった。

 このまま白牛の好きにさせていたら白牛は命を失う。みすみす死なせるわけにはいかない。なんとか救わなければ。そう思っていたのだけれど。

「恥ずかしい」

 自身の思い上がりを知った。
 白牛は阿芙蓉の毒を知っていてもなお服用せずにはいられないのだ。それほどの痛みと苦しみ、絶望をお照は知らない。
 阿芙蓉の代わりになるもの、幸福感が勝るものをお照は与えることができない。お照がやろうとしていたことは、ただ白牛を闇中に置き去りにすることでしかない。

「そうだ、間夫。間夫に頼めば……!」

 愛しい間夫にやめろと言われたら白牛も考えを変えるかもしれない。間夫だって白牛が健やかでいてくれることを願うはずだ。

 見世の表をしばらく行きつ戻りつして待っていると、やがて男がやってきた。いつだったか大門のそばで白牛に見せびらかされた、男ぶりのいい間夫だ。細縞の着物に黒い羽織姿が粋筋に見える。

 お照は急にウニ頭が気になって、防火桶の影に隠れてそっと髪をなでつけた。いくらいい男だからって口説きに行くわけじゃないんだから、気にしなくたっていいのに。気後れするなんておかしなもんだと、お照は内心で苦笑した。

「シンさん」

 男に声をかける女が現れた。近くの見世の女郎のようだ。
 白牛以外にも女がいるのだろうか。
 目と目を見交わす二人のようすにどこかあやしげな雰囲気を感じ取り、お照は防火桶の陰からそっとうかがう。

「持ってるかい?」

「ああ、あるよ」

 ひそめた声が聞こえる。
 男は羽織の下から紙包みを出した。金と引き替えに女に手渡す。あとは無言で、女はすぐに踵を返した。なにげない、慣れた仕草だ。
 それを見たとたん、耳の奥が火事場の半鐘のようにやかましく鳴り響いた。

「ああ、忙しい忙しい」

 お照は急いでいるふうを装って道に飛び出した。
 通りすぎざま、よろけたふりをして男に体当たりした。ぶつかったところから、カサと音がして、紙包みが地面に落ちた。

「あら、ごめんなさい」

 お照が拾い上げたそれを男はひったくるようにして取り返した。

「それ、煙草草よね」

「いや……」

「ちょうどよかった。姐さんに買ってこいと頼まれていたんだ、ひとつ譲ってちょうだい」

「駄目だ」

 男は隠すように紙包みを羽織の中にしまい込んだ。お照は確信した。

「お金は払うよ」

「おれは煙草屋ではない」

「なんだい、ケチ」

 お照はあっかんべえをしてその場を去った。ふわりと鼻先を掠った甘い香りにお照は胸を手で押さえた。
 おさえていないと胸の半鐘が割れてしまいそうだった。
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