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四十三、 女将に愚痴る
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阿芙蓉におぼれると、やがて廃人になって死ぬ。
それを知ってなお、求めるものがいる。
白牛の間夫を止めるのは簡単だ。鬼頭か半兵衛に密告すればいい。
だが阿芙蓉を唯一の慰めとしている女郎から取りあげてよいものだろうか。白牛にいたっては、間夫まで失うことになる。
「あら、放っておけばよろしいじゃないの」
本日の納品分を作り終えた女将は上がり框で優雅に飲み物を飲んでいた。
「鬼頭や半兵衛に伝えなくてもよいと?」
「河岸や小見世のユウジョにはヒツヨーなんでしょう。ウキヨを忘れる手立てというのは。気持ちはわかりますわ」
高級料理屋の万寿屋や高月花魁からはあの甘い香りは嗅いだことがない。よりひどい境遇である河岸見世を中心にひそかに流行っているのだ。
「でも放っておいたら、いずれ吉原中に蔓延するかもしれません」
阿芙蓉を食い止めるのは早ければ早いほうがいい。
「ご禁制品なんでしょ。大っぴらにできないんだから、こそこそ吸うだけだと思うよ」
女将に加勢するのはシャルルだ。西洋の本を抱えて二階からちょうど降りてきたところだった。
「あら、読み終わったの」
「はい、喉が渇きました。ぼくもいただいていいですか」
「よろしくてよ。お照さんにも差し上げてね」
シャルルは鍋からとろりとした液体をふたつのカップに注ぎわけると、そのひとつをお照に手渡してくれた。白に紫を落としたような、変な色の飲み物だ。
「……これはなんです」
「あんこオーレ」
「あんこを……牛乳で溶いてます……?」
「そうよ。あんこを飲みやすくしてみたの。フランスでは毎朝ショコラを飲んでいたのよ。味は違うけれど、どちらも甘くて身体が温まるわ」
ショコラがどういうものかはわからないが、優しい湯気に顔をあてていると、じわりと目頭が熱くなってきた。慌てて手の甲で拭う。
「どうしたの、お照」
シャルルがお照にぴたりと身体を寄せた。こどもの体温は高い。温石のように身体にしみいる。
「自分が情けなくて……」
認めると歯止めが効かなくなった。白牛も秋馬も救えず、なにをしたらいいかわからず、女将に泣き言を言うしかない。
「四郎兵衛会所には相談してみたのかしら?」
四郎兵衛会所は吉原の寄合による自治組織である。
吉原には吉原のしきたりや掟がある。そのため、たいていの問題は会所で解決してしまう。奉行所が介入することを吉原の住人はあまり快く思っていないのだ。
「……はい。会所では面倒そうな顔をされました。きっとわかっているんです。止めさせるんではなく、吸い過ぎないように注意するくらいしかできないと」
女将に相談する前に会所に行ったことを告げるのは少し心苦しかった。
大門の足下には会所と向かい合うかたちで半兵衛のたむろする番所がある。
垂れ込もうと思えばいつでも駆け込める。
だが半兵衛に言うと鬼頭の耳に入ってしまうだろう。ご公儀が大がかりな手入れをしたら会所の顔を潰すことになる。
女たちから無理やり慰めを取りあげるだけで終わってしまうだろう。
「では会所にまかせましょう。ユウジョに死なれたら困るのは彼らなんですから。いいアンバイにしてくれることでしょう。お照さんが心配しなくてもいいことよ。わきまえていなさいね。お照さんはいつでも吉原から出て行けるのですからね」
女将はにっこりと微笑んだ。
自分たちはなにもできないのだから心配しても仕方がないのだと優しげな笑顔が語っている。
人にはそれぞれ、分限がある。そこを踏み越えるのは愚か者だと言わんばかりだ。
お照はしょせん部外者なのだ。
反発したい気持ちはあるが女将の望まぬ言動をすれば自分だって耕地屋から追い出されるだろう。
「では、わたしにはなにもできないんですね……」
「あら、すぐに諦めるのは感心しませんわ」
女将は一転して不満げな声音になった。
「え、あの……」
「諦めがよいのは美点とはいえませんわ。とくに不満を抱え込んでいるままならば。お照さんはその不満を自分でなんとかするか、あるいは諦めるのはまだ早いと気づくべきよ」
女将の言葉は天井から差し込んだ一条の光にも似ていた。
「サロンにお誘いしてみたらいかがかしら」
「え、秋馬さんがいなくてもやるんですか」
「わたくしのサロンですもの。わたくしがやると言えばやるのよ」
「でも、あの、ほんとうに」
女将が河岸女郎を招いていいと言うとは、お照の予想の外だった。
料理屋の万寿屋は別として、女将は吉原者にはよそよそしい。
買い物やお使いなども今はお照が代わりにしているので、女将の外出は減ってきている。
かかわりあいや馴れ合いをなるべく避けようとしている、そのためにお照を雇ったのでは、と思っていた。
だから女将の提案には心底驚いた。
わきまえろと言ったくせに、本当にわきまえると気に入らないのだ。
試されたのかもしれないが、だとしても、お照は部外者ではないと言ってもらえた気がした。
舌の上で、あんこオーレが天与の甘露に変じるのを感じながら、お照は女将の言葉に注意深く耳をすませた。
「ユウジョは一年に二日しか休みがないんでしょう。退屈してるのですわ。少しお話をしてみましょう。なにかイトグチが見つかるかもしれません。ただし、サロンには阿芙蓉煙草は持ち込まないこと。その話題もしないこと。それを約束させなさいね」
それを知ってなお、求めるものがいる。
白牛の間夫を止めるのは簡単だ。鬼頭か半兵衛に密告すればいい。
だが阿芙蓉を唯一の慰めとしている女郎から取りあげてよいものだろうか。白牛にいたっては、間夫まで失うことになる。
「あら、放っておけばよろしいじゃないの」
本日の納品分を作り終えた女将は上がり框で優雅に飲み物を飲んでいた。
「鬼頭や半兵衛に伝えなくてもよいと?」
「河岸や小見世のユウジョにはヒツヨーなんでしょう。ウキヨを忘れる手立てというのは。気持ちはわかりますわ」
高級料理屋の万寿屋や高月花魁からはあの甘い香りは嗅いだことがない。よりひどい境遇である河岸見世を中心にひそかに流行っているのだ。
「でも放っておいたら、いずれ吉原中に蔓延するかもしれません」
阿芙蓉を食い止めるのは早ければ早いほうがいい。
「ご禁制品なんでしょ。大っぴらにできないんだから、こそこそ吸うだけだと思うよ」
女将に加勢するのはシャルルだ。西洋の本を抱えて二階からちょうど降りてきたところだった。
「あら、読み終わったの」
「はい、喉が渇きました。ぼくもいただいていいですか」
「よろしくてよ。お照さんにも差し上げてね」
シャルルは鍋からとろりとした液体をふたつのカップに注ぎわけると、そのひとつをお照に手渡してくれた。白に紫を落としたような、変な色の飲み物だ。
「……これはなんです」
「あんこオーレ」
「あんこを……牛乳で溶いてます……?」
「そうよ。あんこを飲みやすくしてみたの。フランスでは毎朝ショコラを飲んでいたのよ。味は違うけれど、どちらも甘くて身体が温まるわ」
ショコラがどういうものかはわからないが、優しい湯気に顔をあてていると、じわりと目頭が熱くなってきた。慌てて手の甲で拭う。
「どうしたの、お照」
シャルルがお照にぴたりと身体を寄せた。こどもの体温は高い。温石のように身体にしみいる。
「自分が情けなくて……」
認めると歯止めが効かなくなった。白牛も秋馬も救えず、なにをしたらいいかわからず、女将に泣き言を言うしかない。
「四郎兵衛会所には相談してみたのかしら?」
四郎兵衛会所は吉原の寄合による自治組織である。
吉原には吉原のしきたりや掟がある。そのため、たいていの問題は会所で解決してしまう。奉行所が介入することを吉原の住人はあまり快く思っていないのだ。
「……はい。会所では面倒そうな顔をされました。きっとわかっているんです。止めさせるんではなく、吸い過ぎないように注意するくらいしかできないと」
女将に相談する前に会所に行ったことを告げるのは少し心苦しかった。
大門の足下には会所と向かい合うかたちで半兵衛のたむろする番所がある。
垂れ込もうと思えばいつでも駆け込める。
だが半兵衛に言うと鬼頭の耳に入ってしまうだろう。ご公儀が大がかりな手入れをしたら会所の顔を潰すことになる。
女たちから無理やり慰めを取りあげるだけで終わってしまうだろう。
「では会所にまかせましょう。ユウジョに死なれたら困るのは彼らなんですから。いいアンバイにしてくれることでしょう。お照さんが心配しなくてもいいことよ。わきまえていなさいね。お照さんはいつでも吉原から出て行けるのですからね」
女将はにっこりと微笑んだ。
自分たちはなにもできないのだから心配しても仕方がないのだと優しげな笑顔が語っている。
人にはそれぞれ、分限がある。そこを踏み越えるのは愚か者だと言わんばかりだ。
お照はしょせん部外者なのだ。
反発したい気持ちはあるが女将の望まぬ言動をすれば自分だって耕地屋から追い出されるだろう。
「では、わたしにはなにもできないんですね……」
「あら、すぐに諦めるのは感心しませんわ」
女将は一転して不満げな声音になった。
「え、あの……」
「諦めがよいのは美点とはいえませんわ。とくに不満を抱え込んでいるままならば。お照さんはその不満を自分でなんとかするか、あるいは諦めるのはまだ早いと気づくべきよ」
女将の言葉は天井から差し込んだ一条の光にも似ていた。
「サロンにお誘いしてみたらいかがかしら」
「え、秋馬さんがいなくてもやるんですか」
「わたくしのサロンですもの。わたくしがやると言えばやるのよ」
「でも、あの、ほんとうに」
女将が河岸女郎を招いていいと言うとは、お照の予想の外だった。
料理屋の万寿屋は別として、女将は吉原者にはよそよそしい。
買い物やお使いなども今はお照が代わりにしているので、女将の外出は減ってきている。
かかわりあいや馴れ合いをなるべく避けようとしている、そのためにお照を雇ったのでは、と思っていた。
だから女将の提案には心底驚いた。
わきまえろと言ったくせに、本当にわきまえると気に入らないのだ。
試されたのかもしれないが、だとしても、お照は部外者ではないと言ってもらえた気がした。
舌の上で、あんこオーレが天与の甘露に変じるのを感じながら、お照は女将の言葉に注意深く耳をすませた。
「ユウジョは一年に二日しか休みがないんでしょう。退屈してるのですわ。少しお話をしてみましょう。なにかイトグチが見つかるかもしれません。ただし、サロンには阿芙蓉煙草は持ち込まないこと。その話題もしないこと。それを約束させなさいね」
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