江戸のアントワネット

あかいかかぽ

文字の大きさ
46 / 127

四十六、 半兵衛と道場へ

しおりを挟む
 まずは会所に行って相談して見よう。

 万寿屋を出て会所に向かっていると、大門がいやに目についた。大門を見ているうちに、ふと外に出たくなった。

「半兵衛さん、ちょっとつきあってもらえませんか」

 なぜ大門に気を取られたのか。
 理由はすぐにわかった。奉行所で聞いた話を思い出したのだ。息子夫婦に譲った屋敷がいつのまにか道場に変わっていたという、あの老人の話。
 一度思い出すとなぜか気になってしかたない。さいわい、そう遠くない。ちょっと行って帰ってくればいい。

「近くの村に大きな道場があるらしいんです。けっこうな数のお弟子さんがいるとかで」

「ほう、流派はなんだ」

「さあ、わかりません。実は女将さんが困ってまして。シャルルの師匠になってくださるかたがいると心強いとか」

「そんな話聞いていないが。……第一、おれがおるではないか」

 半兵衛は憮然となった。

「そうですよね。どうして半兵衛さんに頼まないんでしょうね。やはり、人気の道場が近くにあるとなると、どうにも気になるんじゃないですかね。半兵衛さんの慧眼けいがんなら一目見るだけで道場の質や師範の腕の良し悪しがわかりますよね」

「ふむ。よし、見にいってみよう」

 お照と半兵衛は連れ立って出かけることにした。
 そのときまでは、気楽な散策のつもりでいた。いい空気を吸って、気分を変えたら、いい案が浮かぶかもしれない。ついでに道場で汗をかけたら上々吉じょうじょうきちだ。


 はたして、道場はもぬけの殻だった。
 玄関の戸が閉まっていたので、戸口から声をかけたり耳をすましたりしたかぎりではあったが、なかで人の動く気配がなかった。
 道場といっても、もとは人家のため、思っていたより広くはなさそうだ。
 少し風変わりだったのは玄関の戸にが掛けられていることだ。このあたりの風習だろうか。

 老人が言っていたように、近くに新しく建てられたらしい二階家が二棟あったが一階に窓がひとつもなかった。
 あたりを見回したが人影がない。だが裏には洗濯物があったり、薪が積んであったりと生活の色がありありと見て取れた。

「総出で畑仕事をしておるのかもしれんな」

 半兵衛は残念そうに呟いた。

 いまは田植えの季節だ。昨日一昨日と天気がよくなかったので、今日一斉に田植えに出ているのかもしれない。

「どうする。ここで待つか」

「いつごろ帰ってきますかねえ」

「田植えのあとなら稽古はしないんじゃないか。疲れるだろう。となると出直したほうがいいか」

 と言いつつ、半兵衛は三棟を見渡せる草むらにごろりと横になった。

「半兵衛さん……?」

「ちょっと休んでいこう。おれも疲れた。体ではなくて頭が少しな」

「はあ」

 無理もない。お照も草むらに腰をおろした。ぼうっと屋敷の玄関を見ているだけでは眠気が襲ってくる。
 半兵衛が居眠りをしていることをたしかめて、お照も横になった。

 どのくらい時が経ったのか、村人らしき男がふたり、なにやら話しながら道向こうからやってきた。お照は草の隙間からなんとはなしにそのようすを見ていた。
 あのふたりが道場の関係者なら話しかけてみようと考えたのだが、会話の断片が耳に入ってきて、お照はためらうことになった。
 ふたりは道場の前で立ち止まった。

「?」

 声は聞こえてはいるのだが、まったく聞き取れない。どこのさとなまりだろうか。
 西国の方言は江戸では珍しくないので江戸っ子はなれている。
 だが言葉ひとつさえ聞き取れないとなると、通詞つうじがいないと会話ができないという琉球か、あるいは東北の出なのだろうか。

 驚いたのはそれだけではない。箕を掛けた玄関戸が内側から開いたのだ。
 そして、ぞろぞろと中から大勢の人が吐き出された。三十人ほどはいるだろうか。若い男が多いが女もいる。

「いつのまに」

 玄関前で立ち話をしていたふたりの男は入れ違いに中に入っていった。
 うとうとして見逃していたのだろうか。にしても、三十人も見逃すほど寝ていたとしたら我ながら間抜けだ。

「いま動いてはならん。見つかってしまう」

 半兵衛がお照の頭を押し下げた。
 寝穢いぎたなく寝ていると思っていたから、半兵衛に頭を押さえられたとき、お照は心臓が止まるかと思った。
 見つかったらなにか不都合なことがあると確信しているような半兵衛の口振り。
 大袈裟な、と思ったが、ひとりが振り向いてこちらを見た。まるでお照たちの気配を感じ取ったかのように、目をすがめて草むらを凝視している。
 思わず息をとめた。
 口の中に唾が溜まるが、飲み込むことさえできない。ほんのわずかな音や動きを逃すまいという気迫が伝わってきたからだ。

 男は懐からなにかを取り出して、お照から二間ほど離れた場所に投擲とうてきした。

 身がすくむ。

 草を分ける音がして一匹の野兎が飛び上がった。野兎は林のほうに逃げたが、男が放った二投目が過たずにその胴体を貫通した。
 それは一寸にも満たない短い金属の棒のように見えた。
 見事な技だった。

 お照は手で口をおさえ、声を殺した。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~

bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

処理中です...