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四十六、 半兵衛と道場へ
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まずは会所に行って相談して見よう。
万寿屋を出て会所に向かっていると、大門がいやに目についた。大門を見ているうちに、ふと外に出たくなった。
「半兵衛さん、ちょっとつきあってもらえませんか」
なぜ大門に気を取られたのか。
理由はすぐにわかった。奉行所で聞いた話を思い出したのだ。息子夫婦に譲った屋敷がいつのまにか道場に変わっていたという、あの老人の話。
一度思い出すとなぜか気になってしかたない。さいわい、そう遠くない。ちょっと行って帰ってくればいい。
「近くの村に大きな道場があるらしいんです。けっこうな数のお弟子さんがいるとかで」
「ほう、流派はなんだ」
「さあ、わかりません。実は女将さんが困ってまして。シャルルの師匠になってくださるかたがいると心強いとか」
「そんな話聞いていないが。……第一、おれがおるではないか」
半兵衛は憮然となった。
「そうですよね。どうして半兵衛さんに頼まないんでしょうね。やはり、人気の道場が近くにあるとなると、どうにも気になるんじゃないですかね。半兵衛さんの慧眼なら一目見るだけで道場の質や師範の腕の良し悪しがわかりますよね」
「ふむ。よし、見にいってみよう」
お照と半兵衛は連れ立って出かけることにした。
そのときまでは、気楽な散策のつもりでいた。いい空気を吸って、気分を変えたら、いい案が浮かぶかもしれない。ついでに道場で汗をかけたら上々吉だ。
はたして、道場はもぬけの殻だった。
玄関の戸が閉まっていたので、戸口から声をかけたり耳をすましたりしたかぎりではあったが、なかで人の動く気配がなかった。
道場といっても、もとは人家のため、思っていたより広くはなさそうだ。
少し風変わりだったのは玄関の戸に箕が掛けられていることだ。このあたりの風習だろうか。
老人が言っていたように、近くに新しく建てられたらしい二階家が二棟あったが一階に窓がひとつもなかった。
あたりを見回したが人影がない。だが裏には洗濯物があったり、薪が積んであったりと生活の色がありありと見て取れた。
「総出で畑仕事をしておるのかもしれんな」
半兵衛は残念そうに呟いた。
いまは田植えの季節だ。昨日一昨日と天気がよくなかったので、今日一斉に田植えに出ているのかもしれない。
「どうする。ここで待つか」
「いつごろ帰ってきますかねえ」
「田植えのあとなら稽古はしないんじゃないか。疲れるだろう。となると出直したほうがいいか」
と言いつつ、半兵衛は三棟を見渡せる草むらにごろりと横になった。
「半兵衛さん……?」
「ちょっと休んでいこう。おれも疲れた。体ではなくて頭が少しな」
「はあ」
無理もない。お照も草むらに腰をおろした。ぼうっと屋敷の玄関を見ているだけでは眠気が襲ってくる。
半兵衛が居眠りをしていることをたしかめて、お照も横になった。
どのくらい時が経ったのか、村人らしき男がふたり、なにやら話しながら道向こうからやってきた。お照は草の隙間からなんとはなしにそのようすを見ていた。
あのふたりが道場の関係者なら話しかけてみようと考えたのだが、会話の断片が耳に入ってきて、お照はためらうことになった。
ふたりは道場の前で立ち止まった。
「?」
声は聞こえてはいるのだが、まったく聞き取れない。どこの郷の訛りだろうか。
西国の方言は江戸では珍しくないので江戸っ子はなれている。
だが言葉ひとつさえ聞き取れないとなると、通詞がいないと会話ができないという琉球か、あるいは東北の出なのだろうか。
驚いたのはそれだけではない。箕を掛けた玄関戸が内側から開いたのだ。
そして、ぞろぞろと中から大勢の人が吐き出された。三十人ほどはいるだろうか。若い男が多いが女もいる。
「いつのまに」
玄関前で立ち話をしていたふたりの男は入れ違いに中に入っていった。
うとうとして見逃していたのだろうか。にしても、三十人も見逃すほど寝ていたとしたら我ながら間抜けだ。
「いま動いてはならん。見つかってしまう」
半兵衛がお照の頭を押し下げた。
寝穢く寝ていると思っていたから、半兵衛に頭を押さえられたとき、お照は心臓が止まるかと思った。
見つかったらなにか不都合なことがあると確信しているような半兵衛の口振り。
大袈裟な、と思ったが、ひとりが振り向いてこちらを見た。まるでお照たちの気配を感じ取ったかのように、目を眇めて草むらを凝視している。
思わず息をとめた。
口の中に唾が溜まるが、飲み込むことさえできない。ほんのわずかな音や動きを逃すまいという気迫が伝わってきたからだ。
男は懐からなにかを取り出して、お照から二間ほど離れた場所に投擲した。
身がすくむ。
草を分ける音がして一匹の野兎が飛び上がった。野兎は林のほうに逃げたが、男が放った二投目が過たずにその胴体を貫通した。
それは一寸にも満たない短い金属の棒のように見えた。
見事な技だった。
お照は手で口をおさえ、声を殺した。
万寿屋を出て会所に向かっていると、大門がいやに目についた。大門を見ているうちに、ふと外に出たくなった。
「半兵衛さん、ちょっとつきあってもらえませんか」
なぜ大門に気を取られたのか。
理由はすぐにわかった。奉行所で聞いた話を思い出したのだ。息子夫婦に譲った屋敷がいつのまにか道場に変わっていたという、あの老人の話。
一度思い出すとなぜか気になってしかたない。さいわい、そう遠くない。ちょっと行って帰ってくればいい。
「近くの村に大きな道場があるらしいんです。けっこうな数のお弟子さんがいるとかで」
「ほう、流派はなんだ」
「さあ、わかりません。実は女将さんが困ってまして。シャルルの師匠になってくださるかたがいると心強いとか」
「そんな話聞いていないが。……第一、おれがおるではないか」
半兵衛は憮然となった。
「そうですよね。どうして半兵衛さんに頼まないんでしょうね。やはり、人気の道場が近くにあるとなると、どうにも気になるんじゃないですかね。半兵衛さんの慧眼なら一目見るだけで道場の質や師範の腕の良し悪しがわかりますよね」
「ふむ。よし、見にいってみよう」
お照と半兵衛は連れ立って出かけることにした。
そのときまでは、気楽な散策のつもりでいた。いい空気を吸って、気分を変えたら、いい案が浮かぶかもしれない。ついでに道場で汗をかけたら上々吉だ。
はたして、道場はもぬけの殻だった。
玄関の戸が閉まっていたので、戸口から声をかけたり耳をすましたりしたかぎりではあったが、なかで人の動く気配がなかった。
道場といっても、もとは人家のため、思っていたより広くはなさそうだ。
少し風変わりだったのは玄関の戸に箕が掛けられていることだ。このあたりの風習だろうか。
老人が言っていたように、近くに新しく建てられたらしい二階家が二棟あったが一階に窓がひとつもなかった。
あたりを見回したが人影がない。だが裏には洗濯物があったり、薪が積んであったりと生活の色がありありと見て取れた。
「総出で畑仕事をしておるのかもしれんな」
半兵衛は残念そうに呟いた。
いまは田植えの季節だ。昨日一昨日と天気がよくなかったので、今日一斉に田植えに出ているのかもしれない。
「どうする。ここで待つか」
「いつごろ帰ってきますかねえ」
「田植えのあとなら稽古はしないんじゃないか。疲れるだろう。となると出直したほうがいいか」
と言いつつ、半兵衛は三棟を見渡せる草むらにごろりと横になった。
「半兵衛さん……?」
「ちょっと休んでいこう。おれも疲れた。体ではなくて頭が少しな」
「はあ」
無理もない。お照も草むらに腰をおろした。ぼうっと屋敷の玄関を見ているだけでは眠気が襲ってくる。
半兵衛が居眠りをしていることをたしかめて、お照も横になった。
どのくらい時が経ったのか、村人らしき男がふたり、なにやら話しながら道向こうからやってきた。お照は草の隙間からなんとはなしにそのようすを見ていた。
あのふたりが道場の関係者なら話しかけてみようと考えたのだが、会話の断片が耳に入ってきて、お照はためらうことになった。
ふたりは道場の前で立ち止まった。
「?」
声は聞こえてはいるのだが、まったく聞き取れない。どこの郷の訛りだろうか。
西国の方言は江戸では珍しくないので江戸っ子はなれている。
だが言葉ひとつさえ聞き取れないとなると、通詞がいないと会話ができないという琉球か、あるいは東北の出なのだろうか。
驚いたのはそれだけではない。箕を掛けた玄関戸が内側から開いたのだ。
そして、ぞろぞろと中から大勢の人が吐き出された。三十人ほどはいるだろうか。若い男が多いが女もいる。
「いつのまに」
玄関前で立ち話をしていたふたりの男は入れ違いに中に入っていった。
うとうとして見逃していたのだろうか。にしても、三十人も見逃すほど寝ていたとしたら我ながら間抜けだ。
「いま動いてはならん。見つかってしまう」
半兵衛がお照の頭を押し下げた。
寝穢く寝ていると思っていたから、半兵衛に頭を押さえられたとき、お照は心臓が止まるかと思った。
見つかったらなにか不都合なことがあると確信しているような半兵衛の口振り。
大袈裟な、と思ったが、ひとりが振り向いてこちらを見た。まるでお照たちの気配を感じ取ったかのように、目を眇めて草むらを凝視している。
思わず息をとめた。
口の中に唾が溜まるが、飲み込むことさえできない。ほんのわずかな音や動きを逃すまいという気迫が伝わってきたからだ。
男は懐からなにかを取り出して、お照から二間ほど離れた場所に投擲した。
身がすくむ。
草を分ける音がして一匹の野兎が飛び上がった。野兎は林のほうに逃げたが、男が放った二投目が過たずにその胴体を貫通した。
それは一寸にも満たない短い金属の棒のように見えた。
見事な技だった。
お照は手で口をおさえ、声を殺した。
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