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四十七、 ふたり夜道
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男は野兎を拾いあげると建物の裏手に向かった。どうやら厨房があるようだった。
あたりに人影がなくなってから半兵衛は唸るように言う。
「いましばらくはこのまま伏せて、暗くなるまで待つぞ」
「ここは……なんの道場なんです。忍び、とか……?」
お照と半兵衛はかろうじて聞き取れるほどの小声でささやきあった。
「莫迦を申すな。忍者は人里離れた山奥にいると相場が決まってる。ここは端くれとはいえ江戸だぞ。江戸町奉行所の管轄だ」
半兵衛は苦笑し、お照の言うことを退ける。
「ですが、弓を使わずに逃げ動く野兎を仕留めるなんて。見ましたよね、まるで手裏剣のような……あれは、棒手裏剣……?」
「たしかに暗器のように見えたが、ここらの猟師の狩猟方法なのかもしれん。石を投げて雉を仕留める達人も世の中にはおるというからな。同じようなもんだろう。それともなんだ、お照は本物の忍者を見たことがあるのか」
そう問われたら言葉に詰まるしかない。
だがそれを言うなら、『忍者は人里離れた山奥にいる』というのも黄表紙の定番である。
つまりはお照も半兵衛も忍者の実体などまったく知らないのだ。
「ええと、隠密ってのは忍者の末裔ではないんでしたっけ。御庭番とか。公方さまの御膝元で密命を受けたりとか……もしかして物語の中にしかいない?」
黒装束姿で刀を背負い、屋根の上を小走りで走る鬼頭を、ほんの一瞬だけ思い浮かべてみたが、ありえないと結論づいた。常に偉ぶった風を吹かす忍者など、悪目立ちするだけで忍者としては役立たずだろう。
「さあなあ、おれみたいな木っ端同心にはわからんよ」
鬼頭が隠密だとしても、そんなことはどうでもよい。お照にはそう言っているように聞こえ、ただうなずいた。
すっかり日が暮れたなかを半兵衛と並んで帰る。
お照は短い溜息をついた。
「剣術道場ではなかったようでしたね」
吉原から歩いて四半刻の近さなら通えるのではないか、と期待していたお照は肩を落とした。
「あそこは止したがいいと女将に伝えてくれ」
「そうですね。よくわからない言葉を話してましたし。半兵衛さん、寝ていたから聞いてないかもしれませんけど」
「寝たふりをしていたのだ」
「へええ。じゃあ、聞き取れました? どこの郷の言葉だかわかりました?」
「……いいや」
「うとうとしちゃって人の出入りにも気づかなかったし、鈍すぎるわ、わたし」
「玄関戸はおれがずっと見張っていた。人の出入りはなかった」
ずっと目を瞑っていたくせに、とお照は胸中で毒づいた。
「あらじゃあ、裏に勝手口があったのかしら。ずっと待ってて、わたしたち莫迦みたいね」
「そうだな……」
半兵衛は無口だった。
月明かり下、真顔の半兵衛は五割増しいい男に見える。お照はなんとなく認めたくなくて横を向く。
吉原大門が近づくと、その賑やかさと明るさにお照は思わずほっと息を吐いた。
半兵衛の足がぴたりと止まる。
「老人は、息子夫婦が家と土地を奪われたのではないかと疑っていたのだったな。あの道場に集っていた者らは悪人には見えなかったが、悪人かどうかなどは見た目ではわからぬものだ」
「半兵衛さん?」
「おれは奉行所に仕事を残している。ここでお別れだ。気をつけて帰れ」
半兵衛はいまから奉行所で調べ物をしなくてはいけないという。だったら途中で別れたほうが近道だったろうに、なぜ吉原までお照と連れ立ったのか。
夜道の女の一人歩きを心配していたのかもしれない、と思い至るがかぶりを振った。
背を向けた半兵衛を、お照は呼び止める。
「あの、もしかしたら」
「なんだ」
「道場は博打のかたに取られたのかもしれません」
「なるほど。そうかもしれんな」
半兵衛は眉を寄せ深刻な顔でうなずいた。
半兵衛に礼をいうべきか迷い、迷ったすえ、お照は口を噤んでしまった。親切に気づかないふりをしていたほうが互いに都合がいいと思えたからだった。
遅くなったお照を女将とシャルルは心配してくれていた。
女将が炊いた白飯はとても美味しかった。噛みしめながらふと老人と孫娘の顔を思い出した。
息子夫婦が住んでいた屋敷は、博打のかたに奪われた。だがそれにとどまらずに賭場にされているのではなかろうか。表向きは道場ということにして。
そうすると、野兎を仕留めた男は暗器を使う用心棒だったのではないかと考えたら腑に落ちた。
奉行所が一網打尽にしたら、あの老人は屋敷を取り戻すことができるのではないだろうか。孫娘は両親のもとに戻れるのではないだろうか。
垂れこみをするには証拠がいる。こっそりと忍び込んで証拠を押さえることができたらいいのだが。
「忍者になるにはどんな修業をしたらいいんだろう」
おのれの無力を痛いほど知る。益体のないことを夢想するのがせいぜいなのだった。
あたりに人影がなくなってから半兵衛は唸るように言う。
「いましばらくはこのまま伏せて、暗くなるまで待つぞ」
「ここは……なんの道場なんです。忍び、とか……?」
お照と半兵衛はかろうじて聞き取れるほどの小声でささやきあった。
「莫迦を申すな。忍者は人里離れた山奥にいると相場が決まってる。ここは端くれとはいえ江戸だぞ。江戸町奉行所の管轄だ」
半兵衛は苦笑し、お照の言うことを退ける。
「ですが、弓を使わずに逃げ動く野兎を仕留めるなんて。見ましたよね、まるで手裏剣のような……あれは、棒手裏剣……?」
「たしかに暗器のように見えたが、ここらの猟師の狩猟方法なのかもしれん。石を投げて雉を仕留める達人も世の中にはおるというからな。同じようなもんだろう。それともなんだ、お照は本物の忍者を見たことがあるのか」
そう問われたら言葉に詰まるしかない。
だがそれを言うなら、『忍者は人里離れた山奥にいる』というのも黄表紙の定番である。
つまりはお照も半兵衛も忍者の実体などまったく知らないのだ。
「ええと、隠密ってのは忍者の末裔ではないんでしたっけ。御庭番とか。公方さまの御膝元で密命を受けたりとか……もしかして物語の中にしかいない?」
黒装束姿で刀を背負い、屋根の上を小走りで走る鬼頭を、ほんの一瞬だけ思い浮かべてみたが、ありえないと結論づいた。常に偉ぶった風を吹かす忍者など、悪目立ちするだけで忍者としては役立たずだろう。
「さあなあ、おれみたいな木っ端同心にはわからんよ」
鬼頭が隠密だとしても、そんなことはどうでもよい。お照にはそう言っているように聞こえ、ただうなずいた。
すっかり日が暮れたなかを半兵衛と並んで帰る。
お照は短い溜息をついた。
「剣術道場ではなかったようでしたね」
吉原から歩いて四半刻の近さなら通えるのではないか、と期待していたお照は肩を落とした。
「あそこは止したがいいと女将に伝えてくれ」
「そうですね。よくわからない言葉を話してましたし。半兵衛さん、寝ていたから聞いてないかもしれませんけど」
「寝たふりをしていたのだ」
「へええ。じゃあ、聞き取れました? どこの郷の言葉だかわかりました?」
「……いいや」
「うとうとしちゃって人の出入りにも気づかなかったし、鈍すぎるわ、わたし」
「玄関戸はおれがずっと見張っていた。人の出入りはなかった」
ずっと目を瞑っていたくせに、とお照は胸中で毒づいた。
「あらじゃあ、裏に勝手口があったのかしら。ずっと待ってて、わたしたち莫迦みたいね」
「そうだな……」
半兵衛は無口だった。
月明かり下、真顔の半兵衛は五割増しいい男に見える。お照はなんとなく認めたくなくて横を向く。
吉原大門が近づくと、その賑やかさと明るさにお照は思わずほっと息を吐いた。
半兵衛の足がぴたりと止まる。
「老人は、息子夫婦が家と土地を奪われたのではないかと疑っていたのだったな。あの道場に集っていた者らは悪人には見えなかったが、悪人かどうかなどは見た目ではわからぬものだ」
「半兵衛さん?」
「おれは奉行所に仕事を残している。ここでお別れだ。気をつけて帰れ」
半兵衛はいまから奉行所で調べ物をしなくてはいけないという。だったら途中で別れたほうが近道だったろうに、なぜ吉原までお照と連れ立ったのか。
夜道の女の一人歩きを心配していたのかもしれない、と思い至るがかぶりを振った。
背を向けた半兵衛を、お照は呼び止める。
「あの、もしかしたら」
「なんだ」
「道場は博打のかたに取られたのかもしれません」
「なるほど。そうかもしれんな」
半兵衛は眉を寄せ深刻な顔でうなずいた。
半兵衛に礼をいうべきか迷い、迷ったすえ、お照は口を噤んでしまった。親切に気づかないふりをしていたほうが互いに都合がいいと思えたからだった。
遅くなったお照を女将とシャルルは心配してくれていた。
女将が炊いた白飯はとても美味しかった。噛みしめながらふと老人と孫娘の顔を思い出した。
息子夫婦が住んでいた屋敷は、博打のかたに奪われた。だがそれにとどまらずに賭場にされているのではなかろうか。表向きは道場ということにして。
そうすると、野兎を仕留めた男は暗器を使う用心棒だったのではないかと考えたら腑に落ちた。
奉行所が一網打尽にしたら、あの老人は屋敷を取り戻すことができるのではないだろうか。孫娘は両親のもとに戻れるのではないだろうか。
垂れこみをするには証拠がいる。こっそりと忍び込んで証拠を押さえることができたらいいのだが。
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