江戸のアントワネット

あかいかかぽ

文字の大きさ
47 / 127

四十七、 ふたり夜道

しおりを挟む
 男は野兎を拾いあげると建物の裏手に向かった。どうやら厨房があるようだった。
 あたりに人影がなくなってから半兵衛は唸るように言う。

「いましばらくはこのまま伏せて、暗くなるまで待つぞ」

「ここは……なんの道場なんです。忍び、とか……?」

 お照と半兵衛はかろうじて聞き取れるほどの小声でささやきあった。

「莫迦を申すな。忍者は人里離れた山奥にいると相場が決まってる。ここは端くれとはいえ江戸だぞ。江戸町奉行所の管轄だ」

 半兵衛は苦笑し、お照の言うことを退ける。

「ですが、弓を使わずに逃げ動く野兎を仕留めるなんて。見ましたよね、まるで手裏剣のような……あれは、棒手裏剣……?」

「たしかに暗器のように見えたが、ここらの猟師の狩猟方法なのかもしれん。石を投げて雉を仕留める達人も世の中にはおるというからな。同じようなもんだろう。それともなんだ、お照は本物の忍者を見たことがあるのか」

 そう問われたら言葉に詰まるしかない。
 だがそれを言うなら、『忍者は人里離れた山奥にいる』というのも黄表紙の定番である。
 つまりはお照も半兵衛も忍者の実体などまったく知らないのだ。

「ええと、隠密ってのは忍者の末裔ではないんでしたっけ。御庭番とか。公方さまの御膝元で密命を受けたりとか……もしかして物語の中にしかいない?」

 黒装束姿で刀を背負い、屋根の上を小走りで走る鬼頭を、ほんの一瞬だけ思い浮かべてみたが、ありえないと結論づいた。常に偉ぶった風を吹かす忍者など、悪目立ちするだけで忍者としては役立たずだろう。

「さあなあ、おれみたいな木っ端同心にはわからんよ」

 鬼頭が隠密だとしても、そんなことはどうでもよい。お照にはそう言っているように聞こえ、ただうなずいた。

 すっかり日が暮れたなかを半兵衛と並んで帰る。
 お照は短い溜息をついた。

「剣術道場ではなかったようでしたね」

 吉原から歩いて四半刻の近さなら通えるのではないか、と期待していたお照は肩を落とした。

「あそこはしたがいいと女将に伝えてくれ」

「そうですね。よくわからない言葉を話してましたし。半兵衛さん、寝ていたから聞いてないかもしれませんけど」

「寝たふりをしていたのだ」

「へええ。じゃあ、聞き取れました? どこの郷の言葉だかわかりました?」

「……いいや」

「うとうとしちゃって人の出入りにも気づかなかったし、鈍すぎるわ、わたし」

「玄関戸はおれがずっと見張っていた。人の出入りはなかった」

 ずっと目を瞑っていたくせに、とお照は胸中で毒づいた。

「あらじゃあ、裏に勝手口があったのかしら。ずっと待ってて、わたしたち莫迦みたいね」

「そうだな……」

 半兵衛は無口だった。
 月明かり下、真顔の半兵衛は五割増しいい男に見える。お照はなんとなく認めたくなくて横を向く。
 吉原大門が近づくと、その賑やかさと明るさにお照は思わずほっと息を吐いた。
 半兵衛の足がぴたりと止まる。

「老人は、息子夫婦が家と土地を奪われたのではないかと疑っていたのだったな。あの道場に集っていた者らは悪人には見えなかったが、悪人かどうかなどは見た目ではわからぬものだ」

「半兵衛さん?」

「おれは奉行所に仕事を残している。ここでお別れだ。気をつけて帰れ」

 半兵衛はいまから奉行所で調べ物をしなくてはいけないという。だったら途中で別れたほうが近道だったろうに、なぜ吉原までお照と連れ立ったのか。
 夜道の女の一人歩きを心配していたのかもしれない、と思い至るがかぶりを振った。
 背を向けた半兵衛を、お照は呼び止める。

「あの、もしかしたら」

「なんだ」

「道場は博打のかたに取られたのかもしれません」

「なるほど。そうかもしれんな」

 半兵衛は眉を寄せ深刻な顔でうなずいた。
 半兵衛に礼をいうべきか迷い、迷ったすえ、お照は口を噤んでしまった。親切に気づかないふりをしていたほうが互いに都合がいいと思えたからだった。



 遅くなったお照を女将とシャルルは心配してくれていた。
 女将が炊いた白飯はとても美味しかった。噛みしめながらふと老人と孫娘の顔を思い出した。
 息子夫婦が住んでいた屋敷は、博打のかたに奪われた。だがそれにとどまらずに賭場にされているのではなかろうか。表向きは道場ということにして。
 そうすると、野兎を仕留めた男は暗器を使う用心棒だったのではないかと考えたら腑に落ちた。
 奉行所が一網打尽にしたら、あの老人は屋敷を取り戻すことができるのではないだろうか。孫娘は両親のもとに戻れるのではないだろうか。

 垂れこみをするには証拠がいる。こっそりと忍び込んで証拠を押さえることができたらいいのだが。

「忍者になるにはどんな修業をしたらいいんだろう」

 おのれの無力を痛いほど知る。益体やくたいのないことを夢想するのがせいぜいなのだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~

bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

処理中です...