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五十一、 身代金
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「誰だい、この男は」
取り乱したお松を、秋馬は絵師の観察眼で見つめていたのだろう。お松ににらまれると「またな」と足早に去ってしまった。きっと万寿屋に寄るのだ。
「誤解しないでくださいね、あの方は知り合いの絵師で……いえ、なにをがあったんです?」
「あんたが帰ってこないから、あの人、ふらふらと出かけちまって」
お松が言う『あの人』とは父のことだ。歩けるようになったらしい。それはよかったが、なぜ責められているのかお照にはわからない。
「そんなことを言われても困ります。わたしは奉公に出たんですから」
「あんた、まとまった金を置いていっただろう」
「ええ、飢え死にしないように」
それがどうかしたのだろうか。まとまった金というほどではない。せいぜいが半月、働かなくていいくらいだ。半月休めば足の怪我も治っていると見当をつけたのだが。
「金があったらどこへ行くか、わかってるくせに」
「え……まさか……」
肝が冷えた。動けるようになったとたんに、悪い虫がうずいたというのか。
「うちに来たんだよ。借金取りが」
お松が言うには、借金を払うまで人質として賭場が父の身代を預かっているという。借金は十両。
「これがそうだよ」
お松は懐から文を出してお照に見せた。くしゃくしゃになっているところをみると、むかっ腹を立てたお松が一度丸めたようだ。
娘がひとりで金を払いに来ること、役所に届けたら父親を殺す、と書かれている。
「受け渡し場所は……」
浅草に数多ある寺のひとつ。日時は明日の昼三つ。
「本当に父が捕まっているのか、まだ生きているのか、これだけではわかりませんね」
「あんた、よく冷静にそんなこと言えるね。どうするんだい、行くのかい」
十両の金を用意するには女将に頼むしか方法がない。溜息が出る。
俄芝居のかかりがいるときに、よくも父は足を引っ張ってくれるものだ、とお照は情けなくなった。かといって、自業自得と見捨てるほど非情にはなれない。
お照はお松を耕地屋に連れて行った。女将の前でもう一度、ことの経緯を話してもらうためだ。
「おかえりなさい、シュビはいかがでした。さっき白牛さんが来て、花笠を見せてくれましたよ。なんだか生き生きとしていらして……おや、その方は……?」
「はい、実は……」
上がり框に腰かけた女将は優雅に茶を飲みながらお松の話を聞いていた。かたわらには焼き立てのパンが布にくるまれて竹籠におさまっている。今日、万寿屋に提供するのはブリオッシュのようだ。
「お照さんがひとりで行くの? 半兵衛さんに相談しないのはなぜ?」
話を聞き終わると女将はもっともなことを訊いた。
「役人に知らせたら父の命はないそうです。卑劣な脅しですが、バレたときのことを考えると……。半兵衛さんは頼りにならないですし」
お照は少しだけ後ろめたさを感じながら答えた。
「バクチではよくこういうことがあるのかしら。つまり人質を取ってお金と引き換えにすること」
お松ははっとなって女将に顔を向けた。
「あの人の風体を見りゃ一目で貧乏人だってわかる。大店の若旦那ならともかく、十両も負けさせるなんて、どこの賭場だか知らないが気前が良すぎないか」
お松の言うことはもっともだ。
「目当てがお金ではないのかもしれません。受け渡し場所に娘を一人で来させるなんて、カドワカシが目的ではないかしら」
女将の言に、お松とお照は息をのむ。
「この文はどうしてお松さんのところに届いたのかしら。耕地屋宛てでもよかったのに」
女将の指摘は鋭かった。続けて言う。
「きっとお照さんのお父さまが、耕地屋に娘がいると言わずにお松さんの住所を賭場に教えたからよね」
「どうでしょう。父はわたしが吉原にいることは知ってますが、店の名前は知らないと思います」
お照がそう言うと、お松は首をひねった。
「でもさ、異人の店に奉公してることは知ってたんだ。どこの店かなんて知らなくても、吉原で訊ねりゃすぐわかるはずさ。異人の店なんかひとつしかないんだから。ってことはさ、……ありゃ、しまった。あの人はわたしが奉行所に駆け込むことを期待してたのかしら。お照さんに迷惑をかけたくないと考えてたんじゃないかね」
お松はあわてて手で口を押えた。
「そんな殊勝なこと、あの父が考えるもんですか。このあいだ喧嘩別れしたあとだから素直に助けてくれって言えなかったんでしょうよ」
「そうかもしれないねえ」
お松は困った顔になった。
文をかいたのも届けたのも賭場の男だ。指定場所には複数人の男が手ぐすね引いて待っていることだろう。賭場には武士崩れの用心棒がついているかもしれない。父が自力で脱出するのは無理だろう。
「女将さん、明日はお休みをいただきたいのですが」
お照は頭を下げた。
「お照さんが必ず戻ってくると約束できるなら十両お貸しましょう。働いて返してもらえばいいのですから」
「それは……」
ありがたい申し出だが飛びつくのは気が引ける。
女将の懐はけして豊かではない。入ってきた分をすぐに使ってしまうせいだ。
女将の放逸な支出を、このところはお照が御しているおかげで、耕地屋にはせいぜい十両くらいの蓄えしかないことをお照は知っている。
俄芝居の準備もいるというのに、と考えたら情けなくて涙が出そうになる。
「いえ、自分でなんとかします」
「お金を持っていかずにどうタイショするのです。まさかと思いますが、木刀で戦うつもりではないでしょうね」
取り乱したお松を、秋馬は絵師の観察眼で見つめていたのだろう。お松ににらまれると「またな」と足早に去ってしまった。きっと万寿屋に寄るのだ。
「誤解しないでくださいね、あの方は知り合いの絵師で……いえ、なにをがあったんです?」
「あんたが帰ってこないから、あの人、ふらふらと出かけちまって」
お松が言う『あの人』とは父のことだ。歩けるようになったらしい。それはよかったが、なぜ責められているのかお照にはわからない。
「そんなことを言われても困ります。わたしは奉公に出たんですから」
「あんた、まとまった金を置いていっただろう」
「ええ、飢え死にしないように」
それがどうかしたのだろうか。まとまった金というほどではない。せいぜいが半月、働かなくていいくらいだ。半月休めば足の怪我も治っていると見当をつけたのだが。
「金があったらどこへ行くか、わかってるくせに」
「え……まさか……」
肝が冷えた。動けるようになったとたんに、悪い虫がうずいたというのか。
「うちに来たんだよ。借金取りが」
お松が言うには、借金を払うまで人質として賭場が父の身代を預かっているという。借金は十両。
「これがそうだよ」
お松は懐から文を出してお照に見せた。くしゃくしゃになっているところをみると、むかっ腹を立てたお松が一度丸めたようだ。
娘がひとりで金を払いに来ること、役所に届けたら父親を殺す、と書かれている。
「受け渡し場所は……」
浅草に数多ある寺のひとつ。日時は明日の昼三つ。
「本当に父が捕まっているのか、まだ生きているのか、これだけではわかりませんね」
「あんた、よく冷静にそんなこと言えるね。どうするんだい、行くのかい」
十両の金を用意するには女将に頼むしか方法がない。溜息が出る。
俄芝居のかかりがいるときに、よくも父は足を引っ張ってくれるものだ、とお照は情けなくなった。かといって、自業自得と見捨てるほど非情にはなれない。
お照はお松を耕地屋に連れて行った。女将の前でもう一度、ことの経緯を話してもらうためだ。
「おかえりなさい、シュビはいかがでした。さっき白牛さんが来て、花笠を見せてくれましたよ。なんだか生き生きとしていらして……おや、その方は……?」
「はい、実は……」
上がり框に腰かけた女将は優雅に茶を飲みながらお松の話を聞いていた。かたわらには焼き立てのパンが布にくるまれて竹籠におさまっている。今日、万寿屋に提供するのはブリオッシュのようだ。
「お照さんがひとりで行くの? 半兵衛さんに相談しないのはなぜ?」
話を聞き終わると女将はもっともなことを訊いた。
「役人に知らせたら父の命はないそうです。卑劣な脅しですが、バレたときのことを考えると……。半兵衛さんは頼りにならないですし」
お照は少しだけ後ろめたさを感じながら答えた。
「バクチではよくこういうことがあるのかしら。つまり人質を取ってお金と引き換えにすること」
お松ははっとなって女将に顔を向けた。
「あの人の風体を見りゃ一目で貧乏人だってわかる。大店の若旦那ならともかく、十両も負けさせるなんて、どこの賭場だか知らないが気前が良すぎないか」
お松の言うことはもっともだ。
「目当てがお金ではないのかもしれません。受け渡し場所に娘を一人で来させるなんて、カドワカシが目的ではないかしら」
女将の言に、お松とお照は息をのむ。
「この文はどうしてお松さんのところに届いたのかしら。耕地屋宛てでもよかったのに」
女将の指摘は鋭かった。続けて言う。
「きっとお照さんのお父さまが、耕地屋に娘がいると言わずにお松さんの住所を賭場に教えたからよね」
「どうでしょう。父はわたしが吉原にいることは知ってますが、店の名前は知らないと思います」
お照がそう言うと、お松は首をひねった。
「でもさ、異人の店に奉公してることは知ってたんだ。どこの店かなんて知らなくても、吉原で訊ねりゃすぐわかるはずさ。異人の店なんかひとつしかないんだから。ってことはさ、……ありゃ、しまった。あの人はわたしが奉行所に駆け込むことを期待してたのかしら。お照さんに迷惑をかけたくないと考えてたんじゃないかね」
お松はあわてて手で口を押えた。
「そんな殊勝なこと、あの父が考えるもんですか。このあいだ喧嘩別れしたあとだから素直に助けてくれって言えなかったんでしょうよ」
「そうかもしれないねえ」
お松は困った顔になった。
文をかいたのも届けたのも賭場の男だ。指定場所には複数人の男が手ぐすね引いて待っていることだろう。賭場には武士崩れの用心棒がついているかもしれない。父が自力で脱出するのは無理だろう。
「女将さん、明日はお休みをいただきたいのですが」
お照は頭を下げた。
「お照さんが必ず戻ってくると約束できるなら十両お貸しましょう。働いて返してもらえばいいのですから」
「それは……」
ありがたい申し出だが飛びつくのは気が引ける。
女将の懐はけして豊かではない。入ってきた分をすぐに使ってしまうせいだ。
女将の放逸な支出を、このところはお照が御しているおかげで、耕地屋にはせいぜい十両くらいの蓄えしかないことをお照は知っている。
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