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五十四、 女将と賭博
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「あら、けっこう難しいのね」
十両が五両に減ったあたりで、女将は溜息をついた。
内奥で行われていたのは単純な丁半博打。つぼに賽子をふたつ投げ入れ、盆茣蓙に伏せる。二つの賽子の合計が偶数の場合は丁、奇数の場合は半。客はどちらかに賭ける。
女将の他には常連らしき客が八人ほど盆茣蓙を囲んでいる。賭場に女客が来ることは珍しいのだろう、みなどこかそわそわしていた。
「なにを考えてるんです、半兵衛さん。どうして力尽くで女将を止めないんですか」
お照と半兵衛は、女将の両脇に座している。帰っていいと言われたとて、帰ることなどできなかった。
「止めるべきなのは了解している。だが……」
「十両なんて、いったいどこから……」
わけがわからない。手文庫にはもうお金がなかったはずだ。
「万寿屋さんに借りたのかしら」
「実はな、お照がいないときにねずみがやってきたんだ。小判を背負ったねずみがな」
「そんな莫迦な……!」
「まさかねずみもこんなことになるとは思ってなかったろうな。あ、いままでにもあったことらしいぞ。女将が手許不如意になると一両二両持ってきたりしてな」
ふざけるのはよしてと言おうとしたとき、女将が華やいだ声をあげた。
「あら、今度はあたったわ!」
御高祖頭巾で見えないが、女将の頬は高揚していることだろう。
「あんなにはしゃいでる女将は初めて見た……」
「うむ、あのように楽しそうなようすを見ると、邪魔をしたくないというか……。いや、安心しろ。持ち金を使い切ったら、なにがなんでも撤収する」
「ねずみの話を信じたとして、あれが女将の全財産……」
お照は女将ににじりよって耳に口を寄せる。
「博打でスッて痛い目を見るのはうちの親だけで充分です。俄芝居のためにもお金は堅実な──」
「お照さん、次はチョウハンどっちだと思います?」
「女将さん!」
「うふふふ、ぞくぞくしますわ。大丈夫よ、お照さん。バクチで稼いでみせますから」
負けが込んでいても、女将の意欲は変わらない。
すると、端に縮こまっていた父がのそりと身を乗り出し、おずおずと口を開いた。
「娘が世話になっていて恐縮ですが、ひとことだけ申し上げたい。博打は引き際ってのが大事なんですよ」
とても父の言葉とは思えない。どの面下げて教条めいたことを言うのかと、お照は呆れた。
「持ってる運を全部賭けちゃ駄目ですよ。欲張ると運に見放されるんです。わしみたいに」
女将はくすんと笑った。
「運がいいとか悪いとか、わたくしは信じておりません。フランスから逃げ出さねばならなくなったのは、わたくしの不徳のいたすところ。……わたくしの不徳だけではありませんけれど、悪運のせいにするのはいけませんわ。バクチも同じ。それに、もし運や悪運というヨウソがあるなら、わたくしはすでに悪運のモチアワセを使い切ってしまっているはずですわ」
などと話している間にも、丁にかけていた女将の一朱は壺ふりに回収されていく。
「あら、いけない。そろそろ本気を出さないと」
それを聞いていた壺ふりが笑い声をあげた。
「次はどおんと賭けてみてはどうだい。ちまちま賭けていたって辛気くせえだけだ」
「たしかにそうね。でも怖いわ」
「怖かないさ。あんたの勝敗は五分五分といったところだ」
壺ふりの言うとおり、女将の勝敗は五割。丁か半かといった単純な賭けだから、気ままに賭けても五割は勝ち、五割は負ける。
だがその割には女将の手許は二両一分一朱と寂しい。
「わたくしが怖いと申し上げたのは、賭け事が終わってしまうことなのです。わたくしはもっともっと遊んでいたいのですわ」
それまで成りゆきを見守っていた老夫婦はさっそく盆のうえに十両を載せてもってきた。
「お貸ししましょう。どうぞ、気の済むまで、お楽しみを」
「あら、気が利くこと」
これはいけない。お照が止める前に、半兵衛が盆を手で押し返した。
「すっからかんになってからでけっこう」
「そうじゃないでしょ、半兵衛さん」
「借りておいてもよろしいのに。どうせわたくしのものになるのですから」
女将のこの自信はどこから来るのだろう。
「では、二両一分一朱はぱあっと賭けてしまいましょうか。でも、その前に」
女将は壺ふりの手元を指さした。
「賽子を見せていただけますか」
「因縁をつけようってのか」
壺ふりが気色ばむ。襖越しに隣の部屋から複数人の立ちあがる気配がした。用心棒が控えているのだ。
「負けの込んだ素人はこれだから厄介だね。運の悪さを人のせいにする」
胴元の女房が鼻を鳴らした。
「気のせいかしら、四が多かった気がするのよ」
亭主は腹を抱えて笑い出した。
「そんなに調べたきゃ調べな。その代わりもし賽子に仕掛けがなかったら落とし前つけてもらうぜ」
「では賽子の仕掛けに二両一分一朱賭けてもいいわ。お照さん、ちょっと調べてみてちょうだい」
お照の手のひらの上にふたつの賽子が乗せられた。
「一、二、三……」
お照はどちらの賽子も目を数えながらしっかりと確かめた。念のためにと二回も確かめた。
四はそれぞれの賽子にひとつしかない。他の目も一つずつ。
おかしなところはない。
「どうだい、お嬢ちゃん」
壺ふりはにやにやとお照を見ている。
十両が五両に減ったあたりで、女将は溜息をついた。
内奥で行われていたのは単純な丁半博打。つぼに賽子をふたつ投げ入れ、盆茣蓙に伏せる。二つの賽子の合計が偶数の場合は丁、奇数の場合は半。客はどちらかに賭ける。
女将の他には常連らしき客が八人ほど盆茣蓙を囲んでいる。賭場に女客が来ることは珍しいのだろう、みなどこかそわそわしていた。
「なにを考えてるんです、半兵衛さん。どうして力尽くで女将を止めないんですか」
お照と半兵衛は、女将の両脇に座している。帰っていいと言われたとて、帰ることなどできなかった。
「止めるべきなのは了解している。だが……」
「十両なんて、いったいどこから……」
わけがわからない。手文庫にはもうお金がなかったはずだ。
「万寿屋さんに借りたのかしら」
「実はな、お照がいないときにねずみがやってきたんだ。小判を背負ったねずみがな」
「そんな莫迦な……!」
「まさかねずみもこんなことになるとは思ってなかったろうな。あ、いままでにもあったことらしいぞ。女将が手許不如意になると一両二両持ってきたりしてな」
ふざけるのはよしてと言おうとしたとき、女将が華やいだ声をあげた。
「あら、今度はあたったわ!」
御高祖頭巾で見えないが、女将の頬は高揚していることだろう。
「あんなにはしゃいでる女将は初めて見た……」
「うむ、あのように楽しそうなようすを見ると、邪魔をしたくないというか……。いや、安心しろ。持ち金を使い切ったら、なにがなんでも撤収する」
「ねずみの話を信じたとして、あれが女将の全財産……」
お照は女将ににじりよって耳に口を寄せる。
「博打でスッて痛い目を見るのはうちの親だけで充分です。俄芝居のためにもお金は堅実な──」
「お照さん、次はチョウハンどっちだと思います?」
「女将さん!」
「うふふふ、ぞくぞくしますわ。大丈夫よ、お照さん。バクチで稼いでみせますから」
負けが込んでいても、女将の意欲は変わらない。
すると、端に縮こまっていた父がのそりと身を乗り出し、おずおずと口を開いた。
「娘が世話になっていて恐縮ですが、ひとことだけ申し上げたい。博打は引き際ってのが大事なんですよ」
とても父の言葉とは思えない。どの面下げて教条めいたことを言うのかと、お照は呆れた。
「持ってる運を全部賭けちゃ駄目ですよ。欲張ると運に見放されるんです。わしみたいに」
女将はくすんと笑った。
「運がいいとか悪いとか、わたくしは信じておりません。フランスから逃げ出さねばならなくなったのは、わたくしの不徳のいたすところ。……わたくしの不徳だけではありませんけれど、悪運のせいにするのはいけませんわ。バクチも同じ。それに、もし運や悪運というヨウソがあるなら、わたくしはすでに悪運のモチアワセを使い切ってしまっているはずですわ」
などと話している間にも、丁にかけていた女将の一朱は壺ふりに回収されていく。
「あら、いけない。そろそろ本気を出さないと」
それを聞いていた壺ふりが笑い声をあげた。
「次はどおんと賭けてみてはどうだい。ちまちま賭けていたって辛気くせえだけだ」
「たしかにそうね。でも怖いわ」
「怖かないさ。あんたの勝敗は五分五分といったところだ」
壺ふりの言うとおり、女将の勝敗は五割。丁か半かといった単純な賭けだから、気ままに賭けても五割は勝ち、五割は負ける。
だがその割には女将の手許は二両一分一朱と寂しい。
「わたくしが怖いと申し上げたのは、賭け事が終わってしまうことなのです。わたくしはもっともっと遊んでいたいのですわ」
それまで成りゆきを見守っていた老夫婦はさっそく盆のうえに十両を載せてもってきた。
「お貸ししましょう。どうぞ、気の済むまで、お楽しみを」
「あら、気が利くこと」
これはいけない。お照が止める前に、半兵衛が盆を手で押し返した。
「すっからかんになってからでけっこう」
「そうじゃないでしょ、半兵衛さん」
「借りておいてもよろしいのに。どうせわたくしのものになるのですから」
女将のこの自信はどこから来るのだろう。
「では、二両一分一朱はぱあっと賭けてしまいましょうか。でも、その前に」
女将は壺ふりの手元を指さした。
「賽子を見せていただけますか」
「因縁をつけようってのか」
壺ふりが気色ばむ。襖越しに隣の部屋から複数人の立ちあがる気配がした。用心棒が控えているのだ。
「負けの込んだ素人はこれだから厄介だね。運の悪さを人のせいにする」
胴元の女房が鼻を鳴らした。
「気のせいかしら、四が多かった気がするのよ」
亭主は腹を抱えて笑い出した。
「そんなに調べたきゃ調べな。その代わりもし賽子に仕掛けがなかったら落とし前つけてもらうぜ」
「では賽子の仕掛けに二両一分一朱賭けてもいいわ。お照さん、ちょっと調べてみてちょうだい」
お照の手のひらの上にふたつの賽子が乗せられた。
「一、二、三……」
お照はどちらの賽子も目を数えながらしっかりと確かめた。念のためにと二回も確かめた。
四はそれぞれの賽子にひとつしかない。他の目も一つずつ。
おかしなところはない。
「どうだい、お嬢ちゃん」
壺ふりはにやにやとお照を見ている。
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