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五十七、 鬼の首
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疲れたので駕籠に乗りたいと女将が漏らすと、半兵衛は駕籠屋に走って行った。
予想したとおり二挺の駕籠を引き連れて戻ってきた。女将の駕籠とお照の駕籠である。
「あら、半兵衛さんの分がありませんけど」
「おれは並んで走って行きますよ」
「だったら重い物は持たせておくわけにはいきませんわね」女将は鉄砲を受け取ったが、「あら、やはり重いわね」とよろめいた。
「おれが持ちますよ」
半兵衛は苦笑して女将の手から鉄砲を片手でひょいと取りあげた。さりげなく腕の筋肉も晒す。どこか得意げである。
「ですがそんな重たい物を持たせて走らせるなんて、心苦しいですわ。半兵衛さんも駕籠をお呼びになってくださいな」
女将がふたたびうながすと、
「そうですか。では、ここでちょっと待っててくだせえ」
「鉄砲はわたくしが持っていますわね。重い物を持って何度も行ったり来たりさせるわけにはいきませんもの」
半兵衛がふたたび駕籠屋に向かうやいなや、女将とお照の乗った駕籠は静かに出発した。
もちろん、行き先は吉原ではない。
「この木の下でちょっと待っていてもらえますか」
お照たちは村はずれで駕籠を降りた。折悪しく降り出した小雨で道がぬかるんでいる。陸尺には樹下で雨宿りをしてもらうことにした。
「どこにありますの。泥としょぼくれた草しか見えませんけれど」
女将はきょろきょろと辺りを見回す。田圃の稲穂は若く、女将にはただの草にしか見えないようだ。
「はい、あの林の向こうに」
女将が思いついた『いいこと』とは、別の賭場に行く、であった。
別の賭場に連れて行けと言われてもお照は皆目わからない。父なら詳しいのだろうが、あいにく先に帰してしまった。賭場は危険だと何度言い聞かせても女将は首を振る。
「だって遊び足りないのですもの。いいわ、チアンの悪そうな賭場なら稼ぐことはしません。そこそこ勝ったりそこそこ負けたりして満足することにしましょう」
と、ここでお照が思い出したのが、半兵衛と見張った例の道場である。
人目を避けるような佇まい、とくに外から屋敷の中を覗けない作りが気に掛かっていた。
道場とはあくまでも表向きにすぎず、内実は賭博場ではないのか。お照はそう見積もっていた。
賭場とはいっても、集っていた老若男女の寛いだようすを思い出すと、近くの百姓農家がこそこそと集まって小金を賭けるような小さな規模ではないだろうか。役人とつるんで荒稼ぎするような賭場ではないだろう。
「……だといいけれど」
おのれに都合がいいように考えている気もしたが、お照の足は止まることがなかった。
「チアンが悪くないようなら、稼ぎますわよ、お照さん」
女将は楽しくてたまらないといった顔である。
「はい、そうしましょう」
父の賭博癖は許せないくせに、俄の資金調達のためとなれば、女将の行いに目を瞑ってしまうのは勝手が過ぎると思わぬでもない。
だが女将の賭博運は本物だ。信じよう。
良さげだったら、さくっと勝ってささっと退散すればいいのだ。
「あそこです、真ん中の屋敷が賭場です」
「まあ、まるでカクレガね」
人の気配がない。道場の玄関には前と同じように箕が引っかけられていた。
「あら」
女将は怪訝そうに箕を見つめていた。
「それは箕といって、農具の一種です。籾殻と玄米を選り分けて……」
「ああ、見たことありますわ。……海を渡ったところで」
「海を渡ったところ?」
女将はどこか遠くを見透かすように目を細めた。
「ヨソモノを振るい分ける意味かしら」
「余所者……」
あの日、ここで話し込んでいた男たちの姿が脳裏によみがえった。
訛りがきつくて何をしゃべっているのか聞き取れなかった。
農具としてありふれているはずの箕が、なにやらまじないのように思えて、玄関戸に触れるのがためらわれた。
「あの、……ちょっと屋敷まわりを見てきます。裏には勝手口もあるでしょうし、誰かいるかも」
角を曲がり壁沿いに進むと勝手口というには大きすぎる戸があった。
隙間から中をうかがい見たお照は思わず腰を抜かしそうになった。
見上げるほどに大きな鬼の首がある。
それは明らかに作り物の人形だけれど、ぎょろりと剥いた目玉はお照をにらみすえてくるような迫力があった。
お照は女将のもとに駆け戻ると「帰りましょう」と言って袖を引っ張った。
「あら、どうして。ごらんなさいな、まるでわたくしたちを祝福するかのように雨が上がって風もここちよ──」
「おそろしいものがあったんです」
「どんなもの?」
女将は興味を惹かれたらしくお照が止めるのも聞かず、件の場所までずんずんと歩むと躊躇なく戸を開いた。
「あらまあ、すてきなお人形さん。でも──」
「なんだあ、おめえら」
背後から大声を浴びせられてお照はびくんと跳ねた。
予想したとおり二挺の駕籠を引き連れて戻ってきた。女将の駕籠とお照の駕籠である。
「あら、半兵衛さんの分がありませんけど」
「おれは並んで走って行きますよ」
「だったら重い物は持たせておくわけにはいきませんわね」女将は鉄砲を受け取ったが、「あら、やはり重いわね」とよろめいた。
「おれが持ちますよ」
半兵衛は苦笑して女将の手から鉄砲を片手でひょいと取りあげた。さりげなく腕の筋肉も晒す。どこか得意げである。
「ですがそんな重たい物を持たせて走らせるなんて、心苦しいですわ。半兵衛さんも駕籠をお呼びになってくださいな」
女将がふたたびうながすと、
「そうですか。では、ここでちょっと待っててくだせえ」
「鉄砲はわたくしが持っていますわね。重い物を持って何度も行ったり来たりさせるわけにはいきませんもの」
半兵衛がふたたび駕籠屋に向かうやいなや、女将とお照の乗った駕籠は静かに出発した。
もちろん、行き先は吉原ではない。
「この木の下でちょっと待っていてもらえますか」
お照たちは村はずれで駕籠を降りた。折悪しく降り出した小雨で道がぬかるんでいる。陸尺には樹下で雨宿りをしてもらうことにした。
「どこにありますの。泥としょぼくれた草しか見えませんけれど」
女将はきょろきょろと辺りを見回す。田圃の稲穂は若く、女将にはただの草にしか見えないようだ。
「はい、あの林の向こうに」
女将が思いついた『いいこと』とは、別の賭場に行く、であった。
別の賭場に連れて行けと言われてもお照は皆目わからない。父なら詳しいのだろうが、あいにく先に帰してしまった。賭場は危険だと何度言い聞かせても女将は首を振る。
「だって遊び足りないのですもの。いいわ、チアンの悪そうな賭場なら稼ぐことはしません。そこそこ勝ったりそこそこ負けたりして満足することにしましょう」
と、ここでお照が思い出したのが、半兵衛と見張った例の道場である。
人目を避けるような佇まい、とくに外から屋敷の中を覗けない作りが気に掛かっていた。
道場とはあくまでも表向きにすぎず、内実は賭博場ではないのか。お照はそう見積もっていた。
賭場とはいっても、集っていた老若男女の寛いだようすを思い出すと、近くの百姓農家がこそこそと集まって小金を賭けるような小さな規模ではないだろうか。役人とつるんで荒稼ぎするような賭場ではないだろう。
「……だといいけれど」
おのれに都合がいいように考えている気もしたが、お照の足は止まることがなかった。
「チアンが悪くないようなら、稼ぎますわよ、お照さん」
女将は楽しくてたまらないといった顔である。
「はい、そうしましょう」
父の賭博癖は許せないくせに、俄の資金調達のためとなれば、女将の行いに目を瞑ってしまうのは勝手が過ぎると思わぬでもない。
だが女将の賭博運は本物だ。信じよう。
良さげだったら、さくっと勝ってささっと退散すればいいのだ。
「あそこです、真ん中の屋敷が賭場です」
「まあ、まるでカクレガね」
人の気配がない。道場の玄関には前と同じように箕が引っかけられていた。
「あら」
女将は怪訝そうに箕を見つめていた。
「それは箕といって、農具の一種です。籾殻と玄米を選り分けて……」
「ああ、見たことありますわ。……海を渡ったところで」
「海を渡ったところ?」
女将はどこか遠くを見透かすように目を細めた。
「ヨソモノを振るい分ける意味かしら」
「余所者……」
あの日、ここで話し込んでいた男たちの姿が脳裏によみがえった。
訛りがきつくて何をしゃべっているのか聞き取れなかった。
農具としてありふれているはずの箕が、なにやらまじないのように思えて、玄関戸に触れるのがためらわれた。
「あの、……ちょっと屋敷まわりを見てきます。裏には勝手口もあるでしょうし、誰かいるかも」
角を曲がり壁沿いに進むと勝手口というには大きすぎる戸があった。
隙間から中をうかがい見たお照は思わず腰を抜かしそうになった。
見上げるほどに大きな鬼の首がある。
それは明らかに作り物の人形だけれど、ぎょろりと剥いた目玉はお照をにらみすえてくるような迫力があった。
お照は女将のもとに駆け戻ると「帰りましょう」と言って袖を引っ張った。
「あら、どうして。ごらんなさいな、まるでわたくしたちを祝福するかのように雨が上がって風もここちよ──」
「おそろしいものがあったんです」
「どんなもの?」
女将は興味を惹かれたらしくお照が止めるのも聞かず、件の場所までずんずんと歩むと躊躇なく戸を開いた。
「あらまあ、すてきなお人形さん。でも──」
「なんだあ、おめえら」
背後から大声を浴びせられてお照はびくんと跳ねた。
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