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五十八、 道場でも賭場でもなく
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振り返ると、天をつくような大女が立っている。
鬼の首と大女。
お照はおのれがちっぽけな虫になったのではないかと不安に駆られた。
大女の後ろに目を転じると野菜を山積みした荷車があった。すごい量だ。
「あ、あの……」
お照がしどろもどろになっていると、女将が口を開いた。
「ウメゾーさんのお宅はこちらでしょうか」
「梅蔵? 知らないな。ここらに梅蔵ってのはいないよ。梅蔵のとっつぁんの名は?」
「さあ、そこまでは」
そこで女将はちらりとお照を見た。あとはお願いとその目が訴えている。
「あの、実は昨年、祭礼で巾着切りにあいまして、とても難儀しておりましたところ、たまたま通りかかった梅蔵さんに助けていただきまして、えーと、お金をお貸しくださいまして、お返しにまいったのですが……」
「ふうん、ここだって言ったのかい」
「ここら辺だとしか……ええと、村の名主のお宅だとかなんとか。なのでこちらかと思いまして……」
お照の苦しまぎれもここまでかと思ったとき、勝手口の戸がギイイと嫌な音を立てた。
「どうかしたか」
さいわい、出てきたのは大男ではなかった。
お照の視線の先に気づいて、男は苦笑した。
「あれは神田祭の山車だ。あんた、江戸のお人じゃないようだね。鬼に驚くなんて」
「し、知ってます! 天下御免の御用祭に氏子町が山車を出すことぐらい!」
お照はついムキになって言い返した。
山王祭と神田祭を知らなきゃ江戸っ子じゃない。氏子町は山車を競い合う。神田祭で代表的な山車は大江山凱陣の象徴、鬼の首。家康公が戦勝を祈願した神田明神だけに、勇ましい山車や練り物は神田祭のみどころである。
もっとも庶民が楽しみにしているのは山車の後に続く附祭。笛や太鼓に三味線といった音曲に、唄や踊り、こども芝居の牽き舞台など、工夫を凝らした演し物が、山車と神輿のあとに延々と続くのだ。
「驚いただけです。あれは大江山の鬼ですよね」
江戸っ子である証し立てをしたかったお照の問いだったが、すげなく大女に放り投げられた。
「そんなことより、うちに梅蔵ってのはいなかったよな。金を返したいんだと。ほかん村のことじゃないかね」
「金を返しに、か。いくらだ?」
男の目がきらりと光る。
「二十両ですわ」
女将が有り金を真っ正直に宣った。
「そうか、内弟子のなかにいないか、名簿を調べてみようか。中に入って茶でも飲んでいきなさい」
「内弟子っておっしゃいましたね。ここは道場かなにかでしょうか。そしてあなたが道場主?」
「……そうだ、武道場をやってる。といってもいまはみな田畑に出ているのだが」
役回りを忘れていたかのように、男は少し慌てた調子になった。
「九月十五日の祭までまだ何か月もあるのに、もう作ってあるんですね。うわあ、すごい、怖い顔してる」
お照は山車を見るふりをしてさりげなくあたりに目を配ってみたが、武道場らしさはない。神棚もなければ木刀も竹刀もない。むろん盆茣蓙や賽子のひとつも転がってない。実にさっぱりとした、無味乾燥な板張りだった。
ここは道場でも賭場でもなく、ただの山車制作の作業場なのだろうか。
だとしたら女将をこんなところまで連れてきたのは無駄だったことになる。
だがどこか引っかかる。あまりに物が少なく、整然としすぎていないだろうか。
女将は鬼の首を眺めて、首をかしげている。
「オニというのは角があったのではなくて?」
そう言われれば鬼の額に角がない。赤ら顔で牙を生やし、目玉は飛び出して、尋常な人の姿ではないので鬼には違いないと思うが。
「それは氏子町にそのように頼まれたのだ。門にぶつかって折れぬようにと角はなくした」
「シャシは禁止されているのでは」
男は口を捻るようにして笑みを作った。
「金泥を使わず、華美な飾りはやめて、武者行列の拵えは控えめに、などと奢侈禁止はとかくやかましいが、二年に一度の神田祭ぐらいはお目こぼししてもらいたいものだ」
「そうですよねえ、祭りは江戸の華なんですから」
町中を行進するだけではなく、千代田のお城の中まで車を曳いて、将軍や御台所の上覧を賜ることからの『天下祭』である。みすぼらしくならないよう工夫するのも江戸っ子の意地だ。
「ところで、梅蔵の件だが」男はこほんと咳を打つ。「よくよく名簿を見直したら載っていた。うちの弟子に間違いない」
「あら、よかったこと」
女将はにこりと微笑んだ。
「ではウメゾーさんの帰りを待たせてもらっていいかしら」
「練り物の材料を仕入れに出かけているんで今日は帰ってこない。だからその二十両はおれが預かっておいてやろう。おれから梅蔵に渡せばいいだろう」
さっきまで梅蔵なんかいないと言っていたのに、二十両と聞いて、態度を変えたとしか思えない。そもそも梅蔵なんかに金を借りた事実はないのだ。
「やはり、ご本人に会って直にお礼を申し上げたいので、出直すことにいたします。梅蔵さんにはよろしくお伝えください」
目配せで女将に立ち去る意思を伝える。
「そうですかい。お気をつけてお帰りなさい」
帰り際に女将はもう一度鬼の首を見やると、男に問いかけた。
「このオニはエンマサマのよう。オニもいいけれど、わたくしはカンウが見てみたいわ。ソンゴクウもいいわね。でも一番はミロクボサツかしら」
閻魔、関羽、孫悟空、そして弥勒菩薩。
神田明神の山車は歴史物語上の英雄はなんでもあり。鯰や鯛、猫みたいな虎など、動物も人気だ。
女将が上げた例は特段おかしくはなかったが、なぜか男の顔は凍りついた。
だがそれはほんの一瞬のできごとで、お照の見間違いかもしれなかった。
というのも男はすぐに微笑んで、
「やっと茶を持ってきたようです。帰る前に喉を潤していってください」
と大女が運んできた茶を半ば強引に勧めてきた。喉の渇きを覚えていたお照は親切に感謝して口をつけた。
「あら、お照さん、そのお茶は飲んではいけませんよ」
もっと早く教えてください、女将さん。
女将の声が遠のき、最後に覚えているのは、床に大きな穴が開いたこと。
鬼の首と大女。
お照はおのれがちっぽけな虫になったのではないかと不安に駆られた。
大女の後ろに目を転じると野菜を山積みした荷車があった。すごい量だ。
「あ、あの……」
お照がしどろもどろになっていると、女将が口を開いた。
「ウメゾーさんのお宅はこちらでしょうか」
「梅蔵? 知らないな。ここらに梅蔵ってのはいないよ。梅蔵のとっつぁんの名は?」
「さあ、そこまでは」
そこで女将はちらりとお照を見た。あとはお願いとその目が訴えている。
「あの、実は昨年、祭礼で巾着切りにあいまして、とても難儀しておりましたところ、たまたま通りかかった梅蔵さんに助けていただきまして、えーと、お金をお貸しくださいまして、お返しにまいったのですが……」
「ふうん、ここだって言ったのかい」
「ここら辺だとしか……ええと、村の名主のお宅だとかなんとか。なのでこちらかと思いまして……」
お照の苦しまぎれもここまでかと思ったとき、勝手口の戸がギイイと嫌な音を立てた。
「どうかしたか」
さいわい、出てきたのは大男ではなかった。
お照の視線の先に気づいて、男は苦笑した。
「あれは神田祭の山車だ。あんた、江戸のお人じゃないようだね。鬼に驚くなんて」
「し、知ってます! 天下御免の御用祭に氏子町が山車を出すことぐらい!」
お照はついムキになって言い返した。
山王祭と神田祭を知らなきゃ江戸っ子じゃない。氏子町は山車を競い合う。神田祭で代表的な山車は大江山凱陣の象徴、鬼の首。家康公が戦勝を祈願した神田明神だけに、勇ましい山車や練り物は神田祭のみどころである。
もっとも庶民が楽しみにしているのは山車の後に続く附祭。笛や太鼓に三味線といった音曲に、唄や踊り、こども芝居の牽き舞台など、工夫を凝らした演し物が、山車と神輿のあとに延々と続くのだ。
「驚いただけです。あれは大江山の鬼ですよね」
江戸っ子である証し立てをしたかったお照の問いだったが、すげなく大女に放り投げられた。
「そんなことより、うちに梅蔵ってのはいなかったよな。金を返したいんだと。ほかん村のことじゃないかね」
「金を返しに、か。いくらだ?」
男の目がきらりと光る。
「二十両ですわ」
女将が有り金を真っ正直に宣った。
「そうか、内弟子のなかにいないか、名簿を調べてみようか。中に入って茶でも飲んでいきなさい」
「内弟子っておっしゃいましたね。ここは道場かなにかでしょうか。そしてあなたが道場主?」
「……そうだ、武道場をやってる。といってもいまはみな田畑に出ているのだが」
役回りを忘れていたかのように、男は少し慌てた調子になった。
「九月十五日の祭までまだ何か月もあるのに、もう作ってあるんですね。うわあ、すごい、怖い顔してる」
お照は山車を見るふりをしてさりげなくあたりに目を配ってみたが、武道場らしさはない。神棚もなければ木刀も竹刀もない。むろん盆茣蓙や賽子のひとつも転がってない。実にさっぱりとした、無味乾燥な板張りだった。
ここは道場でも賭場でもなく、ただの山車制作の作業場なのだろうか。
だとしたら女将をこんなところまで連れてきたのは無駄だったことになる。
だがどこか引っかかる。あまりに物が少なく、整然としすぎていないだろうか。
女将は鬼の首を眺めて、首をかしげている。
「オニというのは角があったのではなくて?」
そう言われれば鬼の額に角がない。赤ら顔で牙を生やし、目玉は飛び出して、尋常な人の姿ではないので鬼には違いないと思うが。
「それは氏子町にそのように頼まれたのだ。門にぶつかって折れぬようにと角はなくした」
「シャシは禁止されているのでは」
男は口を捻るようにして笑みを作った。
「金泥を使わず、華美な飾りはやめて、武者行列の拵えは控えめに、などと奢侈禁止はとかくやかましいが、二年に一度の神田祭ぐらいはお目こぼししてもらいたいものだ」
「そうですよねえ、祭りは江戸の華なんですから」
町中を行進するだけではなく、千代田のお城の中まで車を曳いて、将軍や御台所の上覧を賜ることからの『天下祭』である。みすぼらしくならないよう工夫するのも江戸っ子の意地だ。
「ところで、梅蔵の件だが」男はこほんと咳を打つ。「よくよく名簿を見直したら載っていた。うちの弟子に間違いない」
「あら、よかったこと」
女将はにこりと微笑んだ。
「ではウメゾーさんの帰りを待たせてもらっていいかしら」
「練り物の材料を仕入れに出かけているんで今日は帰ってこない。だからその二十両はおれが預かっておいてやろう。おれから梅蔵に渡せばいいだろう」
さっきまで梅蔵なんかいないと言っていたのに、二十両と聞いて、態度を変えたとしか思えない。そもそも梅蔵なんかに金を借りた事実はないのだ。
「やはり、ご本人に会って直にお礼を申し上げたいので、出直すことにいたします。梅蔵さんにはよろしくお伝えください」
目配せで女将に立ち去る意思を伝える。
「そうですかい。お気をつけてお帰りなさい」
帰り際に女将はもう一度鬼の首を見やると、男に問いかけた。
「このオニはエンマサマのよう。オニもいいけれど、わたくしはカンウが見てみたいわ。ソンゴクウもいいわね。でも一番はミロクボサツかしら」
閻魔、関羽、孫悟空、そして弥勒菩薩。
神田明神の山車は歴史物語上の英雄はなんでもあり。鯰や鯛、猫みたいな虎など、動物も人気だ。
女将が上げた例は特段おかしくはなかったが、なぜか男の顔は凍りついた。
だがそれはほんの一瞬のできごとで、お照の見間違いかもしれなかった。
というのも男はすぐに微笑んで、
「やっと茶を持ってきたようです。帰る前に喉を潤していってください」
と大女が運んできた茶を半ば強引に勧めてきた。喉の渇きを覚えていたお照は親切に感謝して口をつけた。
「あら、お照さん、そのお茶は飲んではいけませんよ」
もっと早く教えてください、女将さん。
女将の声が遠のき、最後に覚えているのは、床に大きな穴が開いたこと。
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