江戸のアントワネット

あかいかかぽ

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六十、 西方弥勒、降臨

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 騙されるものか。あんなものは軽業師にだってできることだ。

 温操舵手はふたたび弥勒仏の前で拝跪すると、祭壇に置かれたおふだのようなものを人差し指と中指で挟み、左右の蝋燭の火にかざした。お札は燃え上がる。

「あの灰を酒に溶かして飲むと、あんたの女主人は生き返る」

 燃えるお札は茶碗に落ち、じゅっと音を立てた。

「飲め」

 灰入りの酒を温操舵主は女将に突きつけた。

 お照は耐えられず、口をふさぐ男の指に思い切り噛みついた。
 男は激怒し、お照の頬を殴った。二度三度と拳を受けた。血の味が舌の上にひろがる。声が出せない。目の端で女将を追い、心で念じることしかできない。

 願いむなしく、女将は両手で押し頂くや、ごくごくと飲み干した。

「これでそなたはマリー・アントワネットとかいう異人ではなく、我らが白蓮教の闘士として生まれ変わったのだ」

 温操舵主の宣言をきっかけに、信者が「刀槍不入! 刀槍不入!」と唱和を始めた。

 女将は邪教に入信してしまった。お照の両目から熱いものが噴き出した。信じていたものが壊れていく。
 茶碗が割れる音が響いた。

「わたくしにミロクが宿りましたわ!」

 女将の叫び声だ。茶碗は女将の足下で砕けていた。
 女将は何かに導かれるように立ち上がると、祭壇の奥に向かった。くりぬかれた壁に弥勒仏が鎮座してある。それを引き倒す。

「な、なにをする!」

 温操舵主の声が裏返る。

「これは粘土で作ったニセモノ」

 弥勒仏は床に落ち、首がもげ、体部は粉々になった。信者がどよめく。

「わたくしこそが本物のミロクです。あなたたちを導けるのはわたくしだけ」

 弥勒仏がかつて鎮座していた壁龕へきがんに、女将は腰かけて同じ体勢を取った。骨を感じさせない優美で華奢な指は弥勒像そのものだ。笑みを含んだ唇と半眼にした両目で信者を睥睨へいげいする。
 すると、信者が次々と膝をついて、女将に拝跪した。
 女将の姿があまりにも神々しくて、崇めずにはおれないのだ。
 お照を殴った信者も膝を屈した。大女も手を合わせて拝んでいる。

「女将……さん?」

「わたくしのことはセイホウミロクと呼びなさい」

「せい……西方弥勒?!」

 初めて女将と会ったときの情景を、お照は思い出した。
 ふわりふわりと浮遊するような軽い足さばき。浮世にうっかりと紛れ込んだ、天女とも菩薩とも見まごう存在感。
 気づくと、お照までもが手を合わせていた。

 おろおろしているのは温操舵主だ。邪教の指導者はいきなり現れた異人にお株を奪われたのだから。
 操舵主が孫悟空なら、女将の弥勒仏のほうが格上なのだろう。

「信じるな。西方の弥勒などでたらめだ。きえええええ! 関公(関羽)よ、我に降臨したまえ!」

 関羽を降ろした温操舵主が大刀を振りかざし、女将の胴体に切りつけた。
 女将は体をそらした。が、間に合わない。

「女将さん……!」

 ガキンと硬いものにぶつかる異音に続いて、なにかが煌めいた。大刀の刃が砕けたのだ。
 一方の女将は、帯に一文字の傷ができただけである。

 刀槍不入。

 それが決め手となったのか、温操舵主はがくりとくずおれた。そして、西方弥勒に拝跪した。

 温操舵手は清国人だった。清国では白蓮教は邪教とされているらしい。指導者は見つかり次第処刑されているという。温操舵手は清国の追っ手を逃れるために海を渡って日本に雌伏していたのだ。

「近い将来、清国に戻り、満州族を滅ぼして漢族の国を再興させてみせる」

 壮大な話だ。温操舵手に倣うようにして日本に流れてきた白蓮教徒が、やがてその身を寄り合わせて一緒に住むようになったのがこの武道場らしい。
 新たに信仰する者が徐々に増えていき、いまでは清国の民と日本人が半々となっているそうだ。
 武道場は信徒からの寄進であるという。
 持ち主夫婦は家屋敷を貢ぎ、もっぱら下働きを引き受けているということは老爺に聞いたとおりだ。こどもを手放した理由は、潜伏している彼らの秘密を子がうっかり外で漏らさぬように、なにも知らないうちに老親に預けるよう温操舵手が指示したのだとわかった。

 なんとも勝手な話である。

「西方弥勒さま、愚かな我らをご指導ください」

 温操舵手は『操舵手』の地位を女将に譲るという。操舵手というのは指導者の意味らしい。

「ミロクは天にお帰りになられました。わたくしはいまは、ただの女にすぎませんわ」

 女将が操舵手の地位を断ると、温操舵手はほっと息を吐いた。

「あらためて我らが共同体についてお話ししましょう。ここには清国からの移住者と日本の援助者が共同して住んでおります。共同体を構成するのは信仰の絆です。入信したものはすべてが家族です。一度死んで生まれかわる儀式を思い出してください。あのときに血縁の絆は断ち切られたのです。その代わりに信仰の絆だけで新しく結ばれた家族が、我々なのです」

「まあ、なんというスバラシイ家族でしょう。家族に嘘はいけませんわね。ウメゾーさんの件、嘘をつきました。なんとお声がけしたらいいのかわからず戸惑っておりましたので。わたくし、事情がありまして、ちょくちょくここに来ることはできませんの。お許しくださいましね」

 女将は着物の裾を摘まんで広げ、西洋風の辞儀をした。
 温操舵手は面食らいながらも、

「幕府の動向には目を光らせておいてください。我らの存在が彼らに見つかったら面倒です」

「はいはい、恋人同士の睦言のようにすべてはひそかに。百両のご助力、助かりますわ。夏のニワカ、ぜひとも見に来てくださいね」

 女将の手に百両がのっている。白蓮教は地域の互助会にもなっていて、困っているときは金を融通し合うのだという。
 教徒になったことで信用されたのだ、と考えるのは甘い。間者への礼金および活動資金の度合いが大きいだろう。

「ちょっと待て。いま一度確かめさせてくんないか」

 大女が女将の足下に真鍮しんちゅうの板を置いた。

「あんた、もとはキリシタンだろう。これを踏んづけてみてくれねえか」

 踏み絵。
 耶蘇教を捨て、白蓮教徒に生まれかわったことを確かめたいのだ。

 なんのためらいもなく、女将は絵を踏んだ。
 信者の顔はみな一様に上気して、てらてらと輝いた。一言で表せば、歓喜。

 目の前で繰り広げられている光景は、痺れ薬がもたらした幻ではないかとお照は何遍も目を擦った。
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