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六十一、 入信の思惑
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「では同志のみなさま、ごきげんよう」
女将とお照は白蓮教徒の隠れ家をあとにした。入信しなかったお照に不信感を露わにした信者がいたが、
「この娘は味方になりこそすれ、敵にはならぬと、わたくしに降りたミロクブツがおっしゃっていました。セイホウミロクを守る兵士の生まれ変わりなのです」
それを聞いた信者は、お照にも抱拳の礼をとった。握った右拳を左掌で包む抱拳の礼。かの国の武術界では相手に敬意を示す挨拶だそうで、武力と知性を表し、平和への願いがこもっていると聞いたお照は見よう見まねで抱拳を返していた。
外に出てみると、太陽は西に傾き、吉原のある東の方角はすでに暗くなりかけていた。暗闇に向かって進まなければならないと思うと、気が滅入る。
「あら、雨が上がったのね。よかったわ」
ところが女将は雨上がりの清浄な空気を歓迎した。
温操舵手が護衛に送らせると申し出たが、護衛はすでにいるので、と女将は丁重に断った。
駕籠かきを待たせていた場所にはすでにその姿はなかった。さすがに待ちきれなかったのだろう。
田圃の中を女将とお照はふたりきりで歩いていた。
「ここは吉原からそれほど離れてはいませんわね」
「はい、徒歩でも四半刻はかからないかと」
女将の口調は変わっていない。
村境を越え、振り返って誰もついてきていないことを確かめると、やっと肩から力が抜けた。
「女将さん、いったいどうしちまったんです」
「あら、びっくりさせてしまったかしら。心配しないでちょうだい。わたくしはいままでどおりですよ」
「邪教に入信したんですよ。白蓮教とかいう、聞いたこともない異国の宗教に。しかも間者になれだなんて。受けるほうがどうかしてます」
「おかげでニワカができるじゃないの」
女将はうふふと楽しそうに笑う。
「まさか、お金のために入信したんですか」
「お照さんを不安にさせて申し訳ないと思っているわ。でもシビレグスリを飲まされて眠ってしまったお照さんをカツいで逃げ出すのはわたくしには無理」
「あ……」
そうだった。おのれがへまをしたのだ。
「わたしのために、女将が……身をていして……」
もし女将が入信希望者を装わなかったら、怪しい女たちだと思われて、いまごろはお歯黒どぶに浮かんでいたかもしれないのだ。
お歯黒どぶに捨てられていたあの女は清国から逃れてきた白蓮教徒だったのだとわかると、いまさらにぞっとした。
おのれの軽挙が女将を危険にさらしたのだと悟って、膝が震える。
「お照さんは悪くないわ。わたくしがうっかりしていたのよ。入口にミが掛かっていたでしょ。あれはビャクレンキョウの集会の暗号なの」
女将は逃亡の途中で清国にも立ち寄り、清の皇帝と語らったことがあるのだという。皇帝は白蓮教徒による『革命』を阻止したいと考えてのことだったらしい。
「箕を見たときにはもうわかっていたのですか」
「カクシンはなかったわ。だからカンウとかソンゴクウとか、ビャクレンキョウが好んでいるカミの名を上げてハンノウを見ていたんですの。顔色が変わったから、アタリだと喜んでいたのだけれど、彼らを警戒させてしまったわね。だからお照さんがシビレグスリを飲まされたのはわたくしの勇み足のせいなのよ、ごめんなさいね」
下手な受け答えをしたら、自分たちもお歯黒どぶに浮いていたかもしれないのだ。身がすくむお照に比べて、しかし女将は平然としているように見えた。
「……あの、もしかして……本心から入信を望んでいたのでしょうか」
「そう見えたかしら」
「はい。だって弥勒菩薩が憑依して、刀槍不入の体になっていたじゃないですか」
温操舵手の大刀を砕いたほど女将の体は硬く強くなった。不死身になった姿を他ならぬお照は目撃していたのだ。
「ああ、これね」女将は帯の中から鉄砲を取り出した。「タマやカヤクがなくても役に立ってくれたわね」
「……そんなことだろうとは思ってました……」
「ダメよ、カンタンに信じちゃ。お照さんまで入信すると言い出したらどうしようかとハラハラしていたのよ」
「じゃあ、全部演技だったのですか。棄教までして」
「キキョウ?」
「耶蘇教の踏み絵をさせられたじゃないですか」
「踏めと言われたので踏みましたわ。なんのことだかよくわからなかったのだけれど」
「真鍮の板に耶蘇教の神様が打ち出されていませんでしたか?」
「……そう言われれば、幼いジェズュ・クリ(キリスト)を抱いたラ・ビェルジュ(聖母マリア)のようでしたわね。潰れていてよくわかりませんでしたわ」
だからなのかと納得しかけたところに、
「それでも踏んづけますわよ。グーゾースーハイはラ・ビーブル(聖書)で禁止されていますもの。もちろん、フランスでは宗教画も盛んですし、教会には美しいレターブル(祭壇画)もありますけれど、神聖視するのは愚かですわ。ふふ、ラ・ビーブルは人の生きる道に必ず表玄関と勝手口の両方を用意してくださってるのよ。正反対のことをツゴウよくあてはめることができるものなのです。もっとも、歌麿が描いた浮世絵なら踏むのはためらうでしょうけど」
半分は意味がわからなかったが、女将が白蓮教に心から帰依したわけではないことはわかった。
ほっと安堵しながらも、刀槍不入が幻とわかって、わずかに落胆するお照だった。
女将とお照は白蓮教徒の隠れ家をあとにした。入信しなかったお照に不信感を露わにした信者がいたが、
「この娘は味方になりこそすれ、敵にはならぬと、わたくしに降りたミロクブツがおっしゃっていました。セイホウミロクを守る兵士の生まれ変わりなのです」
それを聞いた信者は、お照にも抱拳の礼をとった。握った右拳を左掌で包む抱拳の礼。かの国の武術界では相手に敬意を示す挨拶だそうで、武力と知性を表し、平和への願いがこもっていると聞いたお照は見よう見まねで抱拳を返していた。
外に出てみると、太陽は西に傾き、吉原のある東の方角はすでに暗くなりかけていた。暗闇に向かって進まなければならないと思うと、気が滅入る。
「あら、雨が上がったのね。よかったわ」
ところが女将は雨上がりの清浄な空気を歓迎した。
温操舵手が護衛に送らせると申し出たが、護衛はすでにいるので、と女将は丁重に断った。
駕籠かきを待たせていた場所にはすでにその姿はなかった。さすがに待ちきれなかったのだろう。
田圃の中を女将とお照はふたりきりで歩いていた。
「ここは吉原からそれほど離れてはいませんわね」
「はい、徒歩でも四半刻はかからないかと」
女将の口調は変わっていない。
村境を越え、振り返って誰もついてきていないことを確かめると、やっと肩から力が抜けた。
「女将さん、いったいどうしちまったんです」
「あら、びっくりさせてしまったかしら。心配しないでちょうだい。わたくしはいままでどおりですよ」
「邪教に入信したんですよ。白蓮教とかいう、聞いたこともない異国の宗教に。しかも間者になれだなんて。受けるほうがどうかしてます」
「おかげでニワカができるじゃないの」
女将はうふふと楽しそうに笑う。
「まさか、お金のために入信したんですか」
「お照さんを不安にさせて申し訳ないと思っているわ。でもシビレグスリを飲まされて眠ってしまったお照さんをカツいで逃げ出すのはわたくしには無理」
「あ……」
そうだった。おのれがへまをしたのだ。
「わたしのために、女将が……身をていして……」
もし女将が入信希望者を装わなかったら、怪しい女たちだと思われて、いまごろはお歯黒どぶに浮かんでいたかもしれないのだ。
お歯黒どぶに捨てられていたあの女は清国から逃れてきた白蓮教徒だったのだとわかると、いまさらにぞっとした。
おのれの軽挙が女将を危険にさらしたのだと悟って、膝が震える。
「お照さんは悪くないわ。わたくしがうっかりしていたのよ。入口にミが掛かっていたでしょ。あれはビャクレンキョウの集会の暗号なの」
女将は逃亡の途中で清国にも立ち寄り、清の皇帝と語らったことがあるのだという。皇帝は白蓮教徒による『革命』を阻止したいと考えてのことだったらしい。
「箕を見たときにはもうわかっていたのですか」
「カクシンはなかったわ。だからカンウとかソンゴクウとか、ビャクレンキョウが好んでいるカミの名を上げてハンノウを見ていたんですの。顔色が変わったから、アタリだと喜んでいたのだけれど、彼らを警戒させてしまったわね。だからお照さんがシビレグスリを飲まされたのはわたくしの勇み足のせいなのよ、ごめんなさいね」
下手な受け答えをしたら、自分たちもお歯黒どぶに浮いていたかもしれないのだ。身がすくむお照に比べて、しかし女将は平然としているように見えた。
「……あの、もしかして……本心から入信を望んでいたのでしょうか」
「そう見えたかしら」
「はい。だって弥勒菩薩が憑依して、刀槍不入の体になっていたじゃないですか」
温操舵手の大刀を砕いたほど女将の体は硬く強くなった。不死身になった姿を他ならぬお照は目撃していたのだ。
「ああ、これね」女将は帯の中から鉄砲を取り出した。「タマやカヤクがなくても役に立ってくれたわね」
「……そんなことだろうとは思ってました……」
「ダメよ、カンタンに信じちゃ。お照さんまで入信すると言い出したらどうしようかとハラハラしていたのよ」
「じゃあ、全部演技だったのですか。棄教までして」
「キキョウ?」
「耶蘇教の踏み絵をさせられたじゃないですか」
「踏めと言われたので踏みましたわ。なんのことだかよくわからなかったのだけれど」
「真鍮の板に耶蘇教の神様が打ち出されていませんでしたか?」
「……そう言われれば、幼いジェズュ・クリ(キリスト)を抱いたラ・ビェルジュ(聖母マリア)のようでしたわね。潰れていてよくわかりませんでしたわ」
だからなのかと納得しかけたところに、
「それでも踏んづけますわよ。グーゾースーハイはラ・ビーブル(聖書)で禁止されていますもの。もちろん、フランスでは宗教画も盛んですし、教会には美しいレターブル(祭壇画)もありますけれど、神聖視するのは愚かですわ。ふふ、ラ・ビーブルは人の生きる道に必ず表玄関と勝手口の両方を用意してくださってるのよ。正反対のことをツゴウよくあてはめることができるものなのです。もっとも、歌麿が描いた浮世絵なら踏むのはためらうでしょうけど」
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