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第1話:屋上の淵
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朝の薄暗い光が、カーテンの隙間から細く差し込んでいた。雀の鳴く声も聞こえる。
天崎零は、ベッドの上でゆっくりと目を開けた。
まぶたが重い。いつものように、身体の芯まで疲れが染みついている感覚。昨夜もほとんど眠れなかった。枕元に置いたスマホの画面を見ると、時刻は6時42分。いつもより少し遅い。
「もう朝か……」
小さく呟いて、零は上体を起こした。制服のブラウスは昨日のまま、シワだらけで床に投げ出されている。
それを拾い上げて広げると、左の袖口に小さな血痕が残っていた。
昨日、クラスメイトの一人、佐倉凛花に腕を強く抓られてできたものだ。痛みはもうほとんど引いているけれど、紫色の痣がまだくっきりと残っていた。
着替えてから部屋を出て一階に降りる。特に家族の気配はない。
父は朝6時前に工場へ、母はパートの早朝シフトで7時前にはもう家を出ている。兄弟は元からいない。
冷蔵庫には昨夜の残りのおにぎりと、メモ書きがマグネットで貼ってある。
『零、ご飯は自分で温めてね。夕飯は冷凍したハンバーグあるから』
零はメモを一瞥しただけで、冷蔵庫の扉を閉めた。
お腹は空いているのに、何も食べたくない。喉が渇いているだけだ。シンクで水を汲んで一気に飲み干すと、胃が冷たく締め付けられるような感覚がした。
洗面所で顔を洗う。歯を磨く。
鏡に映る自分の顔は、いつもより更に血色が悪い。だからと言って休むわけにはいかない。休んでしまえば学校から親に連絡が行ってしまうから。
長い前髪が目にかかり、表情がほとんど見えない。わざとそうしている。目が合えば、また何か言われるから。
歯を磨きながら、ふと左腕の痣に視線が落ちた。
指でそっと押すと、鈍い痛みが走る。昨日、凛花が笑いながら言った言葉が頭の中で反響する。
「ねえ天崎さんさ、ほんと空気みたいだよね。居るか居ないか分かんないしさ。それならいっそ、消えちゃえば?」
そのあと、藤堂美月が静かにスマホで写真を撮り、黒崎愛華がにこやかに「みんなで共有しよっか」と笑った。
零は何も言い返せなかった。ただ俯いて、震える肩を抑えることしか出来なかった。
歯磨きを終え、乱暴にタオルで顔を拭く。鞄の中身を確認する。教科書、ノート、筆箱。
そして一番下に、昨日捨てきれなかった小さなカッターナイフが入っている。
昨夜、風呂場で刃を腕に当てた瞬間、手が震えて落としてしまった。あの時、結局何もできなかった自分が、情けなくてたまらない。
「……今日こそ」
呟きはすぐに消えた。そんな勇気など、本当はない。ただ、そう言ってみることで、少しだけ心が落ち着く気がした。
玄関で靴を履く。古びたローファーの先が擦り切れている。母に「新しいの買ってあげる」と言われたけど断った。どうせ、また汚されるだけだから。
ドアノブに手をかける。外の空気が冷たい。冬の朝の匂いと、遠くで鳴る踏切の音。零は深く息を吸って、ゆっくり吐き出した。
「……行ってきます」
誰もいない家に向かって、小さく呟く。返事はない。当たり前だ。零は静かにドアを閉め、鍵をかけた。
そして、いつものようにうつむきながら、ゆっくりと坂道を下り始めた。
学校までの道のりが、今日も果てしなく長く感じる。
学校の正門をくぐった瞬間、零の足がわずかに止まった。朝の喧騒の中、制服姿の生徒たちが行き交う中でも、あの三人の存在は異様に目立つ。
校舎の玄関脇、屋根付きの駐輪場と昇降口の間の死角。そこに、まるで王座にでも座るように三人が陣取っていた。
佐倉凛花が真ん中。
金髪を派手に巻き、短くしたスカートから伸びる長い脚を組んで、スマホを弄りながら笑っている。
隣に藤堂美月が控えめに立ち、眼鏡の奥からこちらをじっと見つめている。
そして少し後ろに、黒崎愛華が優しげな微笑みを浮かべて立っていた。まるで、獲物が網にかかったのを確認する猟師のようだ。
「あー、来た来た」
凛花が最初に声を上げた。甘ったるく、しかし底冷えする声。
「遅刻ギリじゃん、天崎さん。ほんと時間守れないよねぇ。ゴミクズってそういうもん?」
零は視線を地面に落としたまま、足を動かそうとした。
ただ通り過ぎる。それだけができればいい。
だが、次の瞬間――
「待てよ」
愛華の声が、柔らかく、しかし鋭く響いた。
零の肩に、細い指がそっと置かれる。優しげな感触とは裏腹に、爪が制服の生地越しに食い込む。
「天崎さん、朝からそんな暗い顔してると、みんな心配しちゃうよ?」
愛華はそう言いながら、零の顎を優しくつかんで顔を上げさせた。大きな黒目が、零の目を覗き込む。
「ねえ、ちゃんと挨拶しよう?」
零の唇が震えた。
「……おはよう、ございます」
声は小さく、掠れている。
それでも凛花は満足げに笑った。
「ははっ、聞こえねーよ。もう一回、ちゃんと声出して」
美月が無表情のまま、スマホを構える。録音か、撮影か。どちらでも零にとっては同じだ。
零は喉を詰まらせながら、もう一度繰り返した。
「……おはようございます」
今度は少しだけ声が大きくなった。
凛花が手を叩いて喜ぶ。
「やっと聞こえたー! でもさ、もっと可愛く言えないの? ほら、愛華みたいにさ、『おはようございまーす♡』って感じで」
愛華がくすくすと笑いながら、零の頬を軽く撫でる。
「天崎さん、できるよね? やってみて」
零の目尻に、じわりと涙が滲んだ。でも、拒否などできない。
ここで逆らえば、もっと酷いことになる。それを零は知っている。
「……おはよう、ございま……す」
声が震え、語尾が消えかけた。
凛花が盛大にため息をつく。
「ダッサ。マジでキモいんだけど。……もういいや、トイレ行こっか。天崎さん、ちょっとお掃除手伝ってほしいんだよね」
そう言って、凛花は零の腕を掴んだ。痣の上を、わざと強く。
零は小さく呻き声を漏らしたが、三人は気にせず歩き出した。
愛華が零のもう片方の腕を取り、美月が後ろから背中を押す。逃げ場はない。
女子トイレの個室へ連れ込まれるまでの数分間、廊下ですれ違う生徒たちは誰も目を合わせなかった。
見なかったことにする。それが、この学校の暗黙のルールだ。
個室のドアが閉まり、カチリと鍵がかかる音。狭い空間に、四人の息遣いが響く。
凛花が零の胸倉を掴み、壁に押し付けた。背中にタイルの冷たさが突き刺さる。
「さてと。昨日さ、天崎さんのせいで私、先生にちょっと注意されちゃったんだよね。宿題写させてくれなかったから」
零は首を振ろうとしたが、凛花の掌が頬を叩く。
パチン、と乾いた音。零の長い前髪を乱暴に掴み、顔を上げさせる。
目の前には、凛花の歪んだ笑顔。
「ほら、謝って。『ごめんなさい、凛花様。私のせいです』って」
零の唇が動く。声が出ない。
すると、美月が静かに呟いた。
「……言わないなら、写真、拡散しちゃうよ。昨日のやつ。腕の傷とか、泣いてる顔とか」
愛華が優しく、しかし冷たく付け加える。
「零ちゃんの家族にも、見せちゃおうかな。お母さん、びっくりするよね」
零の瞳から、ぽろりと涙が零れた。
「……ごめん、なさい……凛花、様……私の、せいです……」
声は途切れ途切れで、嗚咽に変わっていく。
凛花が満足げに笑う。
「よーし、いい子♪ じゃあ、ご褒美に……今日は特別に、ちゃんと掃除させてあげるね」
そう言って、凛花はスカートのポケットから小さなゴミ袋を取り出した。中には、朝食べたらしいガムの包み紙や、ティッシュのクシャクシャになった塊が入っている。
それを、零の目の前に突きつける。
「口で、全部取って。ちゃんと飲み込んでね。じゃないと――」
凛花の指が、零の首筋をなぞる。爪が、薄く皮膚を裂いた。細い血の線が、ゆっくりと浮かび上がる。
零は震えながら、ゆっくりと口を開いた。
個室の中に、嗚咽と、湿った音だけが響き始めた。
ドアの外からは、何事もなかったかのように、朝のチャイムが鳴り響く。
零の長い黒髪が、便器の縁に触れ、汚れた水滴で濡れていく。
誰も、助けには来ない。
いつもの、朝の始まりだった。
放課後のチャイムが鳴ってから、零の時間は止まったように長く感じた。
教室の掃除当番を終え、鞄を肩にかけた瞬間、廊下の角から三人の影が現れた。
いつもより早い。いつもより、目がギラギラしている。
「天崎さん、待ってたよぉ」
凛花の声が、甘くねっとりと絡みつく。
零は足を止めた。逃げられない。逃げても、すぐに捕まる。それを何度も経験している。
美月が無言で零の鞄を奪い取り、愛華が後ろから両腕を優しく、しかし確実に押さえつけた。
そのまま、三人に囲まれる形で屋上への階段を上らされる。
誰もいない。放課後の校舎は静かで、足音だけが反響する。
屋上へ続く鉄扉の前で、凛花が立ち止まった。
鍵はいつも通り、開けっ放し。
「今日は特別サービス。屋上で遊ぼうよ、天崎さん」
扉が開く。冷たい風が一気に吹き込み、零の長い前髪を乱暴に揺らす。
屋上は、夕陽が血のように赤く染まっていた。
フェンスの向こうに広がる街並みは、遠く小さく、まるで別世界のようだ。
三人は零を中央に引きずり出し、コンクリートの床に膝をつかせた。
「ほら、土下座してよ。今日一日、私たちに迷惑かけたお詫び」
凛花の声に、零は反射的に頭を下げた。
額が床に触れる。冷たい。汚い。埃とタバコの匂いがする。
だが、それで終わるはずがなかった。
凛花が零の髪を掴み、強引に顔を上げさせる。
「土下座って、もっとちゃんとしないと意味ないじゃん。額、ちゃんと床に擦りつけて」
零は震えながら、額を床に押し付けた。
ゴリゴリと皮膚が擦れる音。すぐに血が滲む。
「もっと、もっと強く!」
凛花の足が、零の背中に乗る。
体重が一気にのしかかり、零の息が詰まる。
肋骨が軋む音が、自分でも聞こえた。
美月が静かにスマホを構え、動画を撮り始める。
愛華は優しい声で囁く。
「天崎さん、痛い? でもこれ、全部天崎さんが悪いんだよね。目立たないでいればよかったのに、存在してるだけで私たちをイラつかせるんだもん」
凛花の足が離れ、次に腹部へ蹴りが入る。鈍い衝撃。零は咳き込みながら、胃液を吐いた。
黄色い液体がコンクリートに広がる。
「汚ねぇな、マジで」
凛花が吐き捨て、零の顔を踏みつける。靴底が頬に食い込み、皮膚が裂ける。血の味が口の中に広がった。
美月が近づき、零の制服の襟を掴んで引き起こす。
そして、眼鏡の奥から冷たい目で零を見つめながら、ゆっくりと髪を一本一本引き抜き始めた。
痛みは細かく、じわじわと神経を焼く。
零は声を殺して泣いた。叫べば、もっと酷くなる。
愛華が零の腕を掴み、フェンスの方へ引きずる。
「ねえ、天崎さん。ほんとに消えたいんでしょ? だったらさ……」
三人が一斉に笑う。
凛花が零の首を後ろから締め上げる。
息ができない。視界が白く霞む。
「ほら、飛び降りなよ。誰も止めてくれないよ? 私たち、ずっと見ててあげるから」
零の身体が、フェンスに押し付けられる。鉄の冷たさが、制服越しに骨まで染みる。
首の締め付けが緩み、零は大きく息を吸った。肺が焼けるように痛い。
三人は少し離れて、楽しげに見つめている。スマホのレンズが、零を捉えている。
零は震える手で、フェンスに指をかけた。網目が手のひらに食い込む。
鉄の錆びた匂い。風が髪を激しく揺らす。視界の端で、夕陽が沈みかけている。
赤い光が、零の血に濡れた頬を照らす。
「……もう、いい……」
小さな呟きが、風に溶ける。零の指が、フェンスを強く握りしめた。身体がゆっくりと持ち上がる。
膝がフェンスの基部に乗り、片足を外側へ。三人の笑い声が、遠く聞こえる。
「やっとかよ。遅ぇんだよ、天崎さん」
零の瞳に、涙が一筋、落ちた。
それは、夕陽に赤く染まって、地面に消えた。
もう一歩。
もう一歩で、すべてが終わる。
零は深く息を吸い、目を閉じた。
――その瞬間、胸の奥で何かが、ぱきんと音を立てて壊れた。
天崎零は、ベッドの上でゆっくりと目を開けた。
まぶたが重い。いつものように、身体の芯まで疲れが染みついている感覚。昨夜もほとんど眠れなかった。枕元に置いたスマホの画面を見ると、時刻は6時42分。いつもより少し遅い。
「もう朝か……」
小さく呟いて、零は上体を起こした。制服のブラウスは昨日のまま、シワだらけで床に投げ出されている。
それを拾い上げて広げると、左の袖口に小さな血痕が残っていた。
昨日、クラスメイトの一人、佐倉凛花に腕を強く抓られてできたものだ。痛みはもうほとんど引いているけれど、紫色の痣がまだくっきりと残っていた。
着替えてから部屋を出て一階に降りる。特に家族の気配はない。
父は朝6時前に工場へ、母はパートの早朝シフトで7時前にはもう家を出ている。兄弟は元からいない。
冷蔵庫には昨夜の残りのおにぎりと、メモ書きがマグネットで貼ってある。
『零、ご飯は自分で温めてね。夕飯は冷凍したハンバーグあるから』
零はメモを一瞥しただけで、冷蔵庫の扉を閉めた。
お腹は空いているのに、何も食べたくない。喉が渇いているだけだ。シンクで水を汲んで一気に飲み干すと、胃が冷たく締め付けられるような感覚がした。
洗面所で顔を洗う。歯を磨く。
鏡に映る自分の顔は、いつもより更に血色が悪い。だからと言って休むわけにはいかない。休んでしまえば学校から親に連絡が行ってしまうから。
長い前髪が目にかかり、表情がほとんど見えない。わざとそうしている。目が合えば、また何か言われるから。
歯を磨きながら、ふと左腕の痣に視線が落ちた。
指でそっと押すと、鈍い痛みが走る。昨日、凛花が笑いながら言った言葉が頭の中で反響する。
「ねえ天崎さんさ、ほんと空気みたいだよね。居るか居ないか分かんないしさ。それならいっそ、消えちゃえば?」
そのあと、藤堂美月が静かにスマホで写真を撮り、黒崎愛華がにこやかに「みんなで共有しよっか」と笑った。
零は何も言い返せなかった。ただ俯いて、震える肩を抑えることしか出来なかった。
歯磨きを終え、乱暴にタオルで顔を拭く。鞄の中身を確認する。教科書、ノート、筆箱。
そして一番下に、昨日捨てきれなかった小さなカッターナイフが入っている。
昨夜、風呂場で刃を腕に当てた瞬間、手が震えて落としてしまった。あの時、結局何もできなかった自分が、情けなくてたまらない。
「……今日こそ」
呟きはすぐに消えた。そんな勇気など、本当はない。ただ、そう言ってみることで、少しだけ心が落ち着く気がした。
玄関で靴を履く。古びたローファーの先が擦り切れている。母に「新しいの買ってあげる」と言われたけど断った。どうせ、また汚されるだけだから。
ドアノブに手をかける。外の空気が冷たい。冬の朝の匂いと、遠くで鳴る踏切の音。零は深く息を吸って、ゆっくり吐き出した。
「……行ってきます」
誰もいない家に向かって、小さく呟く。返事はない。当たり前だ。零は静かにドアを閉め、鍵をかけた。
そして、いつものようにうつむきながら、ゆっくりと坂道を下り始めた。
学校までの道のりが、今日も果てしなく長く感じる。
学校の正門をくぐった瞬間、零の足がわずかに止まった。朝の喧騒の中、制服姿の生徒たちが行き交う中でも、あの三人の存在は異様に目立つ。
校舎の玄関脇、屋根付きの駐輪場と昇降口の間の死角。そこに、まるで王座にでも座るように三人が陣取っていた。
佐倉凛花が真ん中。
金髪を派手に巻き、短くしたスカートから伸びる長い脚を組んで、スマホを弄りながら笑っている。
隣に藤堂美月が控えめに立ち、眼鏡の奥からこちらをじっと見つめている。
そして少し後ろに、黒崎愛華が優しげな微笑みを浮かべて立っていた。まるで、獲物が網にかかったのを確認する猟師のようだ。
「あー、来た来た」
凛花が最初に声を上げた。甘ったるく、しかし底冷えする声。
「遅刻ギリじゃん、天崎さん。ほんと時間守れないよねぇ。ゴミクズってそういうもん?」
零は視線を地面に落としたまま、足を動かそうとした。
ただ通り過ぎる。それだけができればいい。
だが、次の瞬間――
「待てよ」
愛華の声が、柔らかく、しかし鋭く響いた。
零の肩に、細い指がそっと置かれる。優しげな感触とは裏腹に、爪が制服の生地越しに食い込む。
「天崎さん、朝からそんな暗い顔してると、みんな心配しちゃうよ?」
愛華はそう言いながら、零の顎を優しくつかんで顔を上げさせた。大きな黒目が、零の目を覗き込む。
「ねえ、ちゃんと挨拶しよう?」
零の唇が震えた。
「……おはよう、ございます」
声は小さく、掠れている。
それでも凛花は満足げに笑った。
「ははっ、聞こえねーよ。もう一回、ちゃんと声出して」
美月が無表情のまま、スマホを構える。録音か、撮影か。どちらでも零にとっては同じだ。
零は喉を詰まらせながら、もう一度繰り返した。
「……おはようございます」
今度は少しだけ声が大きくなった。
凛花が手を叩いて喜ぶ。
「やっと聞こえたー! でもさ、もっと可愛く言えないの? ほら、愛華みたいにさ、『おはようございまーす♡』って感じで」
愛華がくすくすと笑いながら、零の頬を軽く撫でる。
「天崎さん、できるよね? やってみて」
零の目尻に、じわりと涙が滲んだ。でも、拒否などできない。
ここで逆らえば、もっと酷いことになる。それを零は知っている。
「……おはよう、ございま……す」
声が震え、語尾が消えかけた。
凛花が盛大にため息をつく。
「ダッサ。マジでキモいんだけど。……もういいや、トイレ行こっか。天崎さん、ちょっとお掃除手伝ってほしいんだよね」
そう言って、凛花は零の腕を掴んだ。痣の上を、わざと強く。
零は小さく呻き声を漏らしたが、三人は気にせず歩き出した。
愛華が零のもう片方の腕を取り、美月が後ろから背中を押す。逃げ場はない。
女子トイレの個室へ連れ込まれるまでの数分間、廊下ですれ違う生徒たちは誰も目を合わせなかった。
見なかったことにする。それが、この学校の暗黙のルールだ。
個室のドアが閉まり、カチリと鍵がかかる音。狭い空間に、四人の息遣いが響く。
凛花が零の胸倉を掴み、壁に押し付けた。背中にタイルの冷たさが突き刺さる。
「さてと。昨日さ、天崎さんのせいで私、先生にちょっと注意されちゃったんだよね。宿題写させてくれなかったから」
零は首を振ろうとしたが、凛花の掌が頬を叩く。
パチン、と乾いた音。零の長い前髪を乱暴に掴み、顔を上げさせる。
目の前には、凛花の歪んだ笑顔。
「ほら、謝って。『ごめんなさい、凛花様。私のせいです』って」
零の唇が動く。声が出ない。
すると、美月が静かに呟いた。
「……言わないなら、写真、拡散しちゃうよ。昨日のやつ。腕の傷とか、泣いてる顔とか」
愛華が優しく、しかし冷たく付け加える。
「零ちゃんの家族にも、見せちゃおうかな。お母さん、びっくりするよね」
零の瞳から、ぽろりと涙が零れた。
「……ごめん、なさい……凛花、様……私の、せいです……」
声は途切れ途切れで、嗚咽に変わっていく。
凛花が満足げに笑う。
「よーし、いい子♪ じゃあ、ご褒美に……今日は特別に、ちゃんと掃除させてあげるね」
そう言って、凛花はスカートのポケットから小さなゴミ袋を取り出した。中には、朝食べたらしいガムの包み紙や、ティッシュのクシャクシャになった塊が入っている。
それを、零の目の前に突きつける。
「口で、全部取って。ちゃんと飲み込んでね。じゃないと――」
凛花の指が、零の首筋をなぞる。爪が、薄く皮膚を裂いた。細い血の線が、ゆっくりと浮かび上がる。
零は震えながら、ゆっくりと口を開いた。
個室の中に、嗚咽と、湿った音だけが響き始めた。
ドアの外からは、何事もなかったかのように、朝のチャイムが鳴り響く。
零の長い黒髪が、便器の縁に触れ、汚れた水滴で濡れていく。
誰も、助けには来ない。
いつもの、朝の始まりだった。
放課後のチャイムが鳴ってから、零の時間は止まったように長く感じた。
教室の掃除当番を終え、鞄を肩にかけた瞬間、廊下の角から三人の影が現れた。
いつもより早い。いつもより、目がギラギラしている。
「天崎さん、待ってたよぉ」
凛花の声が、甘くねっとりと絡みつく。
零は足を止めた。逃げられない。逃げても、すぐに捕まる。それを何度も経験している。
美月が無言で零の鞄を奪い取り、愛華が後ろから両腕を優しく、しかし確実に押さえつけた。
そのまま、三人に囲まれる形で屋上への階段を上らされる。
誰もいない。放課後の校舎は静かで、足音だけが反響する。
屋上へ続く鉄扉の前で、凛花が立ち止まった。
鍵はいつも通り、開けっ放し。
「今日は特別サービス。屋上で遊ぼうよ、天崎さん」
扉が開く。冷たい風が一気に吹き込み、零の長い前髪を乱暴に揺らす。
屋上は、夕陽が血のように赤く染まっていた。
フェンスの向こうに広がる街並みは、遠く小さく、まるで別世界のようだ。
三人は零を中央に引きずり出し、コンクリートの床に膝をつかせた。
「ほら、土下座してよ。今日一日、私たちに迷惑かけたお詫び」
凛花の声に、零は反射的に頭を下げた。
額が床に触れる。冷たい。汚い。埃とタバコの匂いがする。
だが、それで終わるはずがなかった。
凛花が零の髪を掴み、強引に顔を上げさせる。
「土下座って、もっとちゃんとしないと意味ないじゃん。額、ちゃんと床に擦りつけて」
零は震えながら、額を床に押し付けた。
ゴリゴリと皮膚が擦れる音。すぐに血が滲む。
「もっと、もっと強く!」
凛花の足が、零の背中に乗る。
体重が一気にのしかかり、零の息が詰まる。
肋骨が軋む音が、自分でも聞こえた。
美月が静かにスマホを構え、動画を撮り始める。
愛華は優しい声で囁く。
「天崎さん、痛い? でもこれ、全部天崎さんが悪いんだよね。目立たないでいればよかったのに、存在してるだけで私たちをイラつかせるんだもん」
凛花の足が離れ、次に腹部へ蹴りが入る。鈍い衝撃。零は咳き込みながら、胃液を吐いた。
黄色い液体がコンクリートに広がる。
「汚ねぇな、マジで」
凛花が吐き捨て、零の顔を踏みつける。靴底が頬に食い込み、皮膚が裂ける。血の味が口の中に広がった。
美月が近づき、零の制服の襟を掴んで引き起こす。
そして、眼鏡の奥から冷たい目で零を見つめながら、ゆっくりと髪を一本一本引き抜き始めた。
痛みは細かく、じわじわと神経を焼く。
零は声を殺して泣いた。叫べば、もっと酷くなる。
愛華が零の腕を掴み、フェンスの方へ引きずる。
「ねえ、天崎さん。ほんとに消えたいんでしょ? だったらさ……」
三人が一斉に笑う。
凛花が零の首を後ろから締め上げる。
息ができない。視界が白く霞む。
「ほら、飛び降りなよ。誰も止めてくれないよ? 私たち、ずっと見ててあげるから」
零の身体が、フェンスに押し付けられる。鉄の冷たさが、制服越しに骨まで染みる。
首の締め付けが緩み、零は大きく息を吸った。肺が焼けるように痛い。
三人は少し離れて、楽しげに見つめている。スマホのレンズが、零を捉えている。
零は震える手で、フェンスに指をかけた。網目が手のひらに食い込む。
鉄の錆びた匂い。風が髪を激しく揺らす。視界の端で、夕陽が沈みかけている。
赤い光が、零の血に濡れた頬を照らす。
「……もう、いい……」
小さな呟きが、風に溶ける。零の指が、フェンスを強く握りしめた。身体がゆっくりと持ち上がる。
膝がフェンスの基部に乗り、片足を外側へ。三人の笑い声が、遠く聞こえる。
「やっとかよ。遅ぇんだよ、天崎さん」
零の瞳に、涙が一筋、落ちた。
それは、夕陽に赤く染まって、地面に消えた。
もう一歩。
もう一歩で、すべてが終わる。
零は深く息を吸い、目を閉じた。
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