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第2話:魂の代償
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零の指がフェンスを強く握りしめ、身体がゆっくりと持ち上がった。膝がフェンスの基部に乗り、片足を外側へ。
風が激しく吹きつけ、長い黒髪を乱れさせ、涙を乾かす。心の中で、声が響き始めた。
小さな、しかし抑えきれない疑問の渦。
(なぜ、自分だけ……?)
いつもそうだった。クラスで目立たない存在。誰にも迷惑をかけていないはず。
ただ静かに生きているだけなのに、なぜ凛花たちは自分を選んだのか。なぜ毎日のように痛めつけ、笑うのか。
他の子たちは普通に笑い、話しているのに。自分だけが、ゴミのように扱われる。
(私が、何をしたの……?)
思い出そうとしても、何もない。小学校の頃から、地味で友達が少なかった。
でも、それがいじめの理由?
そんなことで、こんな目に遭うなんて。
昨日腕を掴まれ、今日額を擦りつけられ、髪を抜かれ、血を流した。
何も悪いことをしていないのに。
ただ存在しているだけで罪なのか。
家族にさえ負担をかけたくないと思って、黙っていたのに。
誰も助けてくれない。
誰も見てくれない。
風が耳元で唸る。
夕陽の赤い光が、フェンスの向こうの虚空を照らす。
零の心に、じわりと熱いものが広がり始めた。
それは、悲しみから生まれた、別の感情。
(……なんで、こいつらだけが、幸せそうに生きてるの?)
凛花の派手な笑顔。美月の冷たい視線。愛華の偽りの優しさ。
あいつらは、毎日楽しそうに学校に来て、友達に囲まれ、先生に褒められる。
自分を踏みつけながら。
自分を壊しながら。
(私が、何もしていないなら……あいつらだって、何もしていないのに、なぜ?)
疑問が、怒りに変わる。小さな火が、胸の奥で燃え始めた。
(あいつらに、同じ痛みを……)
想像が膨らむ。
凛花の金髪を掴んで引きずり、美月の眼鏡を砕き、愛華の微笑みを歪ませる。
あいつらが泣き叫ぶ姿。
あいつらが、血を流し、震える姿。
自分が味わった屈辱を、倍返しで。
(同じ目に、遭わせたい……)
感情が、急速に膨張する。
今まで抑えていたものが、堰を切ったように溢れ出す。
復讐
それが、頭の中を支配した。
死ぬなら、それだけを。
死ぬ前に、それだけを。
零のもう片方の足が、フェンスを越えた。
身体が外側に傾く。
虚空が、すぐそこに広がる。
三人の笑い声が、背後で響く。
「飛びなよ、天崎さん。誰も悲しまないよ?」
零の唇が、動いた。小さな声で、しかしはっきりと。
風に乗り、虚空へ向けて。
「復讐を完遂できるなら……魂を捧げる」
その言葉が、零の口から零れた瞬間――
身体が、重力に引かれるように落ち始めた。
フェンスから手が離れ、黒髪が風に舞う。
視界が回転し、夕陽が遠ざかる。
落下の感覚が、全身を包む。
零の瞳に、最後に映ったのは、赤く染まった空。
そして、心の奥底で、何かが応えたような、かすかな響き。
風の咆哮が耳を塞ぎ、視界は急速に回転する。
地面が近づく。
衝撃の予感が、全身を凍らせる。
だが――その瞬間、世界が止まった。
落下の感覚が、突然消えた。
零の周囲は、闇に包まれていた。
無重力のような浮遊感。
空気は重く、冷たく、腐った果実のような甘い匂いが混じる。
足元に、何もない。
ただの虚空。
零の長い黒髪が、ゆっくりと広がるように浮かぶ。
「……ここは……?」
零の声が、虚ろに響く。
死んだのか?
それとも、夢か?
心臓の鼓動が、まだ聞こえる。
痛みも、涙の跡も、残っている。
突然、闇の奥から、光が漏れた。
赤い、妖しい輝き。
それは、ゆっくりと形を成していく。
玉座のような黒い影。
その上に、座る存在。
角が二本、曲がって生えた頭部。
背中から広がる、黒い蝙蝠のような翼。
肌は灰色がかった黒く、瞳は赤く輝き、唇に愉悦の笑みが浮かぶ。
黒いローブが、優雅に体を覆い、長い爪の指先が玉座の肘掛けを叩いている。
中性的な美しさを持つ、異形の者。
「ふふ……面白い願いだね、人間の子よ」
声は、響くように低く、しかし甘い。
男か女か、判別しにくい。
零の身体が、勝手にその存在の方へ引き寄せられる。
虚空に足場が生まれ、零は膝をついて立った。
「……あなたは、誰……?」
零の声が震える。
恐怖と、かすかな希望が混じる。
存在は、ゆっくりと翼を広げた。
風が起き、零の髪を揺らす。
「私は、名など持たぬ者。ただの影。願いを聞き、代償を取る存在さ。君の言葉が、私を呼んだんだよ。『復讐を完遂できるなら魂を捧げる』……だったね?」
零の瞳が、見開く。
あの、落下の瞬間の呟き。
聞かれていたのか。
いや、それ以前に――これは、現実か?
「君の苦痛、よくわかるよ。積み重なるいじめ。無視、暴行、屈辱……。あの三人に、すべてを返したいんだろう? プライドを砕き、肉体を壊し、精神を粉々にする。完璧な復讐を」
存在の赤い瞳が、零を覗き込む。
愉悦の笑みが、深くなる。
「私は、それを手助けしてあげる。君に、神格を与えるよ。異空間を操り、加害者たちを拉致し、思うがままに裁く力を。君の想像を超えた、冷徹な執行者になれるさ」
零の心が、ざわつく。
復讐。
同じ目に遭わせる。
凛花の金髪を血で染め、美月の体を異形に変え、愛華の四肢を切り落とす。
想像するだけで、胸の奥が熱くなる。
これまで抑えていた感情が、爆発しそう。
「でも……どうして、そんなことを?」
零の問いかけに、存在はくすくすと笑った。
長い爪の指を、零の頬に伸ばす。
冷たい感触が、肌を撫でる。
「代償さ。君の言葉通り――魂を、貰うよ。復讐が完遂された瞬間、君の魂は私のものになる。永遠に、虚空で彷徨うことさ。痛みもなく、喜びもなく。ただの虚無。……それでいいかい?」
零の息が、止まる。
魂を捧げる。
死ぬ以上の代償。
永遠の虚無。
だが――今、死のうとしていた自分に、何の迷いがある?
あいつらを、壊したい。
それだけが、生きる意味だった。
「……いいよ。それで、構わない」
零の声は、はっきりしていた。
瞳に、赤い光が宿る。
存在の笑みが、最大に広がる。
「ふふふ……契約、成立だ」
存在の指が、零の額に触れる。
熱い痛みが、走る。
黒い霧のようなオーラが、零の体を包む。
髪が長く伸び、漆黒に輝き、瞳が赤く変わる。
肌が不自然に白くなり、黒いドレス風の神官服が現れる。
零の唇に、冷たい微笑みが浮かぶ。
虚空が、ゆっくりと崩れていく。
契約は、成立した。
復讐の幕が、開く。
ネオンが金髪を派手に照らし、短いスカートの下から伸びる脚が、通りすがりの男たちの視線を集める。スマホを片手に、友達とのグループチャットが鳴り続けている。
「今日の天崎さん、マジで死にそうな顔してたよね~笑」
そんなメッセージに、凛花はクスクスと笑いながらスタンプを連打した。
今夜はカラオケで盛り上がり、クラブの入り口でナンパされ、適当にあしらってから、深夜のファミレスでデザートを平らげた。
時計はもう午前1時を回っている。
「はー、疲れたけど楽しかった♡」
そう呟きながら、タクシーを拾う。
家に着いたのは午前2時近く。
玄関の鍵を開け、靴を脱ぎ捨ててリビングを横切り、自分の部屋へ。
母はもう寝ている。父は単身赴任中だ。
誰も咎めない。
凛花はベッドに倒れ込み、制服のままスマホを握った。
藤堂美月は、一人で帰路についていた。
イヤホンから流れる暗い音楽に合わせて、足音を刻む。
今日は凛花たちと別れた後、いつものようにコンビニでアイスコーヒーを買い、公園のベンチで1時間ほどぼんやりと座っていた。
零の土下座の動画を、繰り返し再生しながら。
額を擦りつける音、嗚咽の声、血の滲んだ床。
美月は無表情のまま、画面を見つめていた。
「……面白い♡」
小さく呟いて、動画を保存フォルダにしまう。
家に着いたのは午前1時半。
実家は古いアパートの3階。階段を上り、鍵を開ける。
父は夜勤、母はもう寝室にいる。
美月は制服を脱ぎ捨て、パジャマに着替えると、ベッドに潜り込んだ。
眼鏡を外し、枕元のスマホを手に取る。
黒崎愛華は、優等生の仮面を被ったまま、夜道を歩いていた。
部活の後輩たちとカフェでおしゃべりをしてから、遅くなった。
「愛華先輩、今日も綺麗です♡」
そんな言葉に、にこやかに微笑んで返す。
誰も知らない。
その笑顔の下で、零の震える肩を思い浮かべていることを。
家に着いたのは午前2時を少し過ぎた頃。
玄関で靴を揃え、静かに部屋へ。
母が起きてきて「おかえり」と声をかけるが、愛華は「ただいま、お母さん。おやすみ」と柔らかく返してドアを閉めた。
制服をハンガーにかけ、パジャマに着替える。
ベッドに腰を下ろし、スマホの画面を点ける。
グループ通話の招待が、すでに待っていた。
三人の画面が、同時に繋がった。
時刻は午前2時28分。
「はーい、みんな起きてるー?」
凛花の声が、最初に響く。
画面越しに、金髪を乱したままの顔が映る。ベッドに寝転がり、枕を抱えている。
「ん……起きてる」
美月の声は低く、抑揚がない。
眼鏡をかけ直し、暗い部屋で画面の光だけが顔を照らす。
「ふふ、お疲れさま♡ 今日も楽しかったね」
愛華の声は、いつもの優しいトーン。
髪をほどき、柔らかい笑みを浮かべている。
「マジで天崎さんの顔、最高だったよね。土下座のとこ、もう一回見よっか?」
凛花が動画を共有画面に投げる。
三人の画面に、同じ映像が映し出される。
零の額がコンクリートに擦りつけられる音。
小さく漏れる嗚咽。
「ははっ、ここ! 血出てるじゃん。キモすぎて笑える」
凛花が声を上げて笑う。
「髪、抜いたとこもいいよね。抜くたびにビクッてなるの、可愛かった」
美月が淡々と呟く。
指先で画面をスクロールし、零の苦痛に歪む顔を拡大する。
「天崎さん、明日も学校来るのかな? 来なかったら、ちょっと寂しいかも」
愛華がくすくすと笑う。
三人は、互いの顔を見ながら、夜遅くまで話し続けた。
零の弱さ、零の涙、零の血。
それらを、まるでお気に入りのおもちゃのように語り合う。
時計の針は、午前3時を過ぎていく。
外は静かで、誰も知らない。
三人の部屋で、暗い笑い声だけが、細く響き続けていた。
風が激しく吹きつけ、長い黒髪を乱れさせ、涙を乾かす。心の中で、声が響き始めた。
小さな、しかし抑えきれない疑問の渦。
(なぜ、自分だけ……?)
いつもそうだった。クラスで目立たない存在。誰にも迷惑をかけていないはず。
ただ静かに生きているだけなのに、なぜ凛花たちは自分を選んだのか。なぜ毎日のように痛めつけ、笑うのか。
他の子たちは普通に笑い、話しているのに。自分だけが、ゴミのように扱われる。
(私が、何をしたの……?)
思い出そうとしても、何もない。小学校の頃から、地味で友達が少なかった。
でも、それがいじめの理由?
そんなことで、こんな目に遭うなんて。
昨日腕を掴まれ、今日額を擦りつけられ、髪を抜かれ、血を流した。
何も悪いことをしていないのに。
ただ存在しているだけで罪なのか。
家族にさえ負担をかけたくないと思って、黙っていたのに。
誰も助けてくれない。
誰も見てくれない。
風が耳元で唸る。
夕陽の赤い光が、フェンスの向こうの虚空を照らす。
零の心に、じわりと熱いものが広がり始めた。
それは、悲しみから生まれた、別の感情。
(……なんで、こいつらだけが、幸せそうに生きてるの?)
凛花の派手な笑顔。美月の冷たい視線。愛華の偽りの優しさ。
あいつらは、毎日楽しそうに学校に来て、友達に囲まれ、先生に褒められる。
自分を踏みつけながら。
自分を壊しながら。
(私が、何もしていないなら……あいつらだって、何もしていないのに、なぜ?)
疑問が、怒りに変わる。小さな火が、胸の奥で燃え始めた。
(あいつらに、同じ痛みを……)
想像が膨らむ。
凛花の金髪を掴んで引きずり、美月の眼鏡を砕き、愛華の微笑みを歪ませる。
あいつらが泣き叫ぶ姿。
あいつらが、血を流し、震える姿。
自分が味わった屈辱を、倍返しで。
(同じ目に、遭わせたい……)
感情が、急速に膨張する。
今まで抑えていたものが、堰を切ったように溢れ出す。
復讐
それが、頭の中を支配した。
死ぬなら、それだけを。
死ぬ前に、それだけを。
零のもう片方の足が、フェンスを越えた。
身体が外側に傾く。
虚空が、すぐそこに広がる。
三人の笑い声が、背後で響く。
「飛びなよ、天崎さん。誰も悲しまないよ?」
零の唇が、動いた。小さな声で、しかしはっきりと。
風に乗り、虚空へ向けて。
「復讐を完遂できるなら……魂を捧げる」
その言葉が、零の口から零れた瞬間――
身体が、重力に引かれるように落ち始めた。
フェンスから手が離れ、黒髪が風に舞う。
視界が回転し、夕陽が遠ざかる。
落下の感覚が、全身を包む。
零の瞳に、最後に映ったのは、赤く染まった空。
そして、心の奥底で、何かが応えたような、かすかな響き。
風の咆哮が耳を塞ぎ、視界は急速に回転する。
地面が近づく。
衝撃の予感が、全身を凍らせる。
だが――その瞬間、世界が止まった。
落下の感覚が、突然消えた。
零の周囲は、闇に包まれていた。
無重力のような浮遊感。
空気は重く、冷たく、腐った果実のような甘い匂いが混じる。
足元に、何もない。
ただの虚空。
零の長い黒髪が、ゆっくりと広がるように浮かぶ。
「……ここは……?」
零の声が、虚ろに響く。
死んだのか?
それとも、夢か?
心臓の鼓動が、まだ聞こえる。
痛みも、涙の跡も、残っている。
突然、闇の奥から、光が漏れた。
赤い、妖しい輝き。
それは、ゆっくりと形を成していく。
玉座のような黒い影。
その上に、座る存在。
角が二本、曲がって生えた頭部。
背中から広がる、黒い蝙蝠のような翼。
肌は灰色がかった黒く、瞳は赤く輝き、唇に愉悦の笑みが浮かぶ。
黒いローブが、優雅に体を覆い、長い爪の指先が玉座の肘掛けを叩いている。
中性的な美しさを持つ、異形の者。
「ふふ……面白い願いだね、人間の子よ」
声は、響くように低く、しかし甘い。
男か女か、判別しにくい。
零の身体が、勝手にその存在の方へ引き寄せられる。
虚空に足場が生まれ、零は膝をついて立った。
「……あなたは、誰……?」
零の声が震える。
恐怖と、かすかな希望が混じる。
存在は、ゆっくりと翼を広げた。
風が起き、零の髪を揺らす。
「私は、名など持たぬ者。ただの影。願いを聞き、代償を取る存在さ。君の言葉が、私を呼んだんだよ。『復讐を完遂できるなら魂を捧げる』……だったね?」
零の瞳が、見開く。
あの、落下の瞬間の呟き。
聞かれていたのか。
いや、それ以前に――これは、現実か?
「君の苦痛、よくわかるよ。積み重なるいじめ。無視、暴行、屈辱……。あの三人に、すべてを返したいんだろう? プライドを砕き、肉体を壊し、精神を粉々にする。完璧な復讐を」
存在の赤い瞳が、零を覗き込む。
愉悦の笑みが、深くなる。
「私は、それを手助けしてあげる。君に、神格を与えるよ。異空間を操り、加害者たちを拉致し、思うがままに裁く力を。君の想像を超えた、冷徹な執行者になれるさ」
零の心が、ざわつく。
復讐。
同じ目に遭わせる。
凛花の金髪を血で染め、美月の体を異形に変え、愛華の四肢を切り落とす。
想像するだけで、胸の奥が熱くなる。
これまで抑えていた感情が、爆発しそう。
「でも……どうして、そんなことを?」
零の問いかけに、存在はくすくすと笑った。
長い爪の指を、零の頬に伸ばす。
冷たい感触が、肌を撫でる。
「代償さ。君の言葉通り――魂を、貰うよ。復讐が完遂された瞬間、君の魂は私のものになる。永遠に、虚空で彷徨うことさ。痛みもなく、喜びもなく。ただの虚無。……それでいいかい?」
零の息が、止まる。
魂を捧げる。
死ぬ以上の代償。
永遠の虚無。
だが――今、死のうとしていた自分に、何の迷いがある?
あいつらを、壊したい。
それだけが、生きる意味だった。
「……いいよ。それで、構わない」
零の声は、はっきりしていた。
瞳に、赤い光が宿る。
存在の笑みが、最大に広がる。
「ふふふ……契約、成立だ」
存在の指が、零の額に触れる。
熱い痛みが、走る。
黒い霧のようなオーラが、零の体を包む。
髪が長く伸び、漆黒に輝き、瞳が赤く変わる。
肌が不自然に白くなり、黒いドレス風の神官服が現れる。
零の唇に、冷たい微笑みが浮かぶ。
虚空が、ゆっくりと崩れていく。
契約は、成立した。
復讐の幕が、開く。
ネオンが金髪を派手に照らし、短いスカートの下から伸びる脚が、通りすがりの男たちの視線を集める。スマホを片手に、友達とのグループチャットが鳴り続けている。
「今日の天崎さん、マジで死にそうな顔してたよね~笑」
そんなメッセージに、凛花はクスクスと笑いながらスタンプを連打した。
今夜はカラオケで盛り上がり、クラブの入り口でナンパされ、適当にあしらってから、深夜のファミレスでデザートを平らげた。
時計はもう午前1時を回っている。
「はー、疲れたけど楽しかった♡」
そう呟きながら、タクシーを拾う。
家に着いたのは午前2時近く。
玄関の鍵を開け、靴を脱ぎ捨ててリビングを横切り、自分の部屋へ。
母はもう寝ている。父は単身赴任中だ。
誰も咎めない。
凛花はベッドに倒れ込み、制服のままスマホを握った。
藤堂美月は、一人で帰路についていた。
イヤホンから流れる暗い音楽に合わせて、足音を刻む。
今日は凛花たちと別れた後、いつものようにコンビニでアイスコーヒーを買い、公園のベンチで1時間ほどぼんやりと座っていた。
零の土下座の動画を、繰り返し再生しながら。
額を擦りつける音、嗚咽の声、血の滲んだ床。
美月は無表情のまま、画面を見つめていた。
「……面白い♡」
小さく呟いて、動画を保存フォルダにしまう。
家に着いたのは午前1時半。
実家は古いアパートの3階。階段を上り、鍵を開ける。
父は夜勤、母はもう寝室にいる。
美月は制服を脱ぎ捨て、パジャマに着替えると、ベッドに潜り込んだ。
眼鏡を外し、枕元のスマホを手に取る。
黒崎愛華は、優等生の仮面を被ったまま、夜道を歩いていた。
部活の後輩たちとカフェでおしゃべりをしてから、遅くなった。
「愛華先輩、今日も綺麗です♡」
そんな言葉に、にこやかに微笑んで返す。
誰も知らない。
その笑顔の下で、零の震える肩を思い浮かべていることを。
家に着いたのは午前2時を少し過ぎた頃。
玄関で靴を揃え、静かに部屋へ。
母が起きてきて「おかえり」と声をかけるが、愛華は「ただいま、お母さん。おやすみ」と柔らかく返してドアを閉めた。
制服をハンガーにかけ、パジャマに着替える。
ベッドに腰を下ろし、スマホの画面を点ける。
グループ通話の招待が、すでに待っていた。
三人の画面が、同時に繋がった。
時刻は午前2時28分。
「はーい、みんな起きてるー?」
凛花の声が、最初に響く。
画面越しに、金髪を乱したままの顔が映る。ベッドに寝転がり、枕を抱えている。
「ん……起きてる」
美月の声は低く、抑揚がない。
眼鏡をかけ直し、暗い部屋で画面の光だけが顔を照らす。
「ふふ、お疲れさま♡ 今日も楽しかったね」
愛華の声は、いつもの優しいトーン。
髪をほどき、柔らかい笑みを浮かべている。
「マジで天崎さんの顔、最高だったよね。土下座のとこ、もう一回見よっか?」
凛花が動画を共有画面に投げる。
三人の画面に、同じ映像が映し出される。
零の額がコンクリートに擦りつけられる音。
小さく漏れる嗚咽。
「ははっ、ここ! 血出てるじゃん。キモすぎて笑える」
凛花が声を上げて笑う。
「髪、抜いたとこもいいよね。抜くたびにビクッてなるの、可愛かった」
美月が淡々と呟く。
指先で画面をスクロールし、零の苦痛に歪む顔を拡大する。
「天崎さん、明日も学校来るのかな? 来なかったら、ちょっと寂しいかも」
愛華がくすくすと笑う。
三人は、互いの顔を見ながら、夜遅くまで話し続けた。
零の弱さ、零の涙、零の血。
それらを、まるでお気に入りのおもちゃのように語り合う。
時計の針は、午前3時を過ぎていく。
外は静かで、誰も知らない。
三人の部屋で、暗い笑い声だけが、細く響き続けていた。
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