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長月
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九月最後の月曜日である今日は、先週の土曜日に行った文化祭の代休だ。
「今日はアンタをいいところに連れていってやるよ」
「いい処ですか? それは楽しみですね」
フフフ、と青い双眸を細めて笑う男を眺めながら、黒いTシャツの上に青いチェックのシャツを羽織る。
カラーヒヨコの一件やペットカフェの文字を見た時の発言から、動物好きだと判明した男を動物園に連れて行こうと考えたのだ。
月曜休みの公共施設が多い中で、この街にある動物園は火曜に休み、月曜は営業にして集客アップを図っているらしい。
「んー、秋の香りだな」
動物園にはバスで行くので、最寄りのバス停に向かって歩いていると、プーンと漂ってきた花の香り。
小学生の頃は、トイレの匂いがする、と眉を顰めていたこの香りも、いい香りだから芳香剤に使われているんだと気付いて、汚い匂いのレッテルは外された。
香りは知っているが、名前も、どんな形の花なのかも知らないのだが。
「秋の香り、ですか? ああ、金木犀ですね」
男が、バス停のある大通りに出る十字路の角の家の塀から顔を覗かせている小さな橙色の花を、指差した。
鼻を近付けると、さっきから漂っていた香りの濃縮版のような匂いがした。
これが、あの香りの花なのか。
「アンタ、匂いが分かるのか?」
「いいえ。今の僕にあるのは視覚と聴覚だけですから」
寂しそうに眉を下げた男は、橙色の小さな花弁が散らばる地面に視線を落とした。
「見えて聞こえるなら充分じゃないか。分からない感覚は俺が教えてやるよ。さぁ、早く行かないとバスが来ちまう」
嗅覚も味覚も触覚も取り戻したいのならば、さっさと成仏して輪廻転生すればいいじゃないか、と口が滑りそうになったが、成仏して欲しいのかとかなんとか言い返され、また喧嘩になると嫌なのでやめた。
男が自分から、もっと楽しめるように生身の体が欲しい、と願わないと成仏も輪廻転生も出来ないのだと思う。
男がそう思えるように、楽しいことをたくさんするだけだ。
「いい処とは此処ですか?」
バスを降り、動物達の絵が描かれた門の前に立つと、男が不思議そうに訊ねてきた。
「動物、好きだろ?」
「嫌いではありませんが……」
なんだか、奥歯に物が挟まったような言い方だ。
動物好きだと思ったのは、俺の勘違いだったのか?
「嫌なら、他のところに行くか?」
「嫌ではありません。拓也と一緒なら何処に行っても構いません」
「じゃあ、行ってもいいんだな?」
「はい」
ほっと胸を撫で下ろしてチケットを買いに向かう俺の後を、何故か艶っぽい顔をして意味深に笑う男が付いてくる。
一昨年開園三十周年を迎えたらしい動物園は、昔ながらの何の変哲もない動物園だった。
園内には、ベビーカーを押した若いママのグループや、年配の夫婦が数組いるだけで、人出の多かっただろう土日の疲れを癒すように、動物達は客を無視して寛いでいる。
「何が見たい?」
入口でもらったパンフレットを広げて、載せられている園内の地図を見る。
「此方から順に回っていきましょうか」
園内には8の字で道が通っていて、道なりに進めば全ての動物が見られるようになっている。
門を入って右側から回ることにした俺達は、キリンやシマウマ、ゾウ等がいるアフリカゾーンを目指して歩き出す。
サバンナを意識したのだろうか、草の生えた広い地面を取り囲む檻の中には、群れをなしたシマウマがのんびり草を啄み、その奥にはこんもり葉の茂った木に首を伸ばすキリンの姿がある。
柵に仕切られた向こう側には、木陰で休むサイがいる。
何種類もの動物がいるサバンナ風の檻の隣には、プールが設けられたカバの檻があった。
コンクリートの地面の上にはカバの姿がないのでプールの中を覗くと、濁った水からちょこんと出た背中だけが見えた。
息継ぎをする時に顔が見えるだろう、と暫く待ってみたが、一向に浮き上がる気配がないので諦めて次の檻に進む。
次に現れたのはゾウの檻で、一匹のアフリカゾウが悠々と檻の中を歩き回っている。
「ゾウしゃん、みじゅ! みじゅ!」
ゾウの檻にへばりついている三歳位の男の子が、ゾウに向かって叫んでいる。
ゾウの檻には、『水や泥をかけることがあるので注意!』と書かれた看板が掲げられている。
男の子は隣にいる母親に看板を読んでもらい、水を掛けて欲しい、とゾウに訴えているようだ。
ゾウの檻の中には濁った水が入った小さなプールがある。
掛けられるとしたら、あの汚い水ってことだよな? それは勘弁だな。
そんなことを思いながらプールを見ていると、ゾウがそこに鼻を突っ込んだ。
まさか、と思った瞬間、ビシャ、と頭に冷たいものが浴びせられた。
「おにぃちゃんだけぇずるうぃー!」
耳を劈くような泣き声に、我に返る。
泣き叫んでいるのは、ゾウに水を掛けてくれと懇願していた男の子で、ゾウが俺にだけ水をぶっ掛けたのが気に入らないと暴れている。
泣きたいのは俺の方だよ……。
濡れた俺がここにいると、いつまで経っても男の子の癇癪が収まらないと思い、顔の滴を拭いながら先へ進む。
「今日はアンタをいいところに連れていってやるよ」
「いい処ですか? それは楽しみですね」
フフフ、と青い双眸を細めて笑う男を眺めながら、黒いTシャツの上に青いチェックのシャツを羽織る。
カラーヒヨコの一件やペットカフェの文字を見た時の発言から、動物好きだと判明した男を動物園に連れて行こうと考えたのだ。
月曜休みの公共施設が多い中で、この街にある動物園は火曜に休み、月曜は営業にして集客アップを図っているらしい。
「んー、秋の香りだな」
動物園にはバスで行くので、最寄りのバス停に向かって歩いていると、プーンと漂ってきた花の香り。
小学生の頃は、トイレの匂いがする、と眉を顰めていたこの香りも、いい香りだから芳香剤に使われているんだと気付いて、汚い匂いのレッテルは外された。
香りは知っているが、名前も、どんな形の花なのかも知らないのだが。
「秋の香り、ですか? ああ、金木犀ですね」
男が、バス停のある大通りに出る十字路の角の家の塀から顔を覗かせている小さな橙色の花を、指差した。
鼻を近付けると、さっきから漂っていた香りの濃縮版のような匂いがした。
これが、あの香りの花なのか。
「アンタ、匂いが分かるのか?」
「いいえ。今の僕にあるのは視覚と聴覚だけですから」
寂しそうに眉を下げた男は、橙色の小さな花弁が散らばる地面に視線を落とした。
「見えて聞こえるなら充分じゃないか。分からない感覚は俺が教えてやるよ。さぁ、早く行かないとバスが来ちまう」
嗅覚も味覚も触覚も取り戻したいのならば、さっさと成仏して輪廻転生すればいいじゃないか、と口が滑りそうになったが、成仏して欲しいのかとかなんとか言い返され、また喧嘩になると嫌なのでやめた。
男が自分から、もっと楽しめるように生身の体が欲しい、と願わないと成仏も輪廻転生も出来ないのだと思う。
男がそう思えるように、楽しいことをたくさんするだけだ。
「いい処とは此処ですか?」
バスを降り、動物達の絵が描かれた門の前に立つと、男が不思議そうに訊ねてきた。
「動物、好きだろ?」
「嫌いではありませんが……」
なんだか、奥歯に物が挟まったような言い方だ。
動物好きだと思ったのは、俺の勘違いだったのか?
「嫌なら、他のところに行くか?」
「嫌ではありません。拓也と一緒なら何処に行っても構いません」
「じゃあ、行ってもいいんだな?」
「はい」
ほっと胸を撫で下ろしてチケットを買いに向かう俺の後を、何故か艶っぽい顔をして意味深に笑う男が付いてくる。
一昨年開園三十周年を迎えたらしい動物園は、昔ながらの何の変哲もない動物園だった。
園内には、ベビーカーを押した若いママのグループや、年配の夫婦が数組いるだけで、人出の多かっただろう土日の疲れを癒すように、動物達は客を無視して寛いでいる。
「何が見たい?」
入口でもらったパンフレットを広げて、載せられている園内の地図を見る。
「此方から順に回っていきましょうか」
園内には8の字で道が通っていて、道なりに進めば全ての動物が見られるようになっている。
門を入って右側から回ることにした俺達は、キリンやシマウマ、ゾウ等がいるアフリカゾーンを目指して歩き出す。
サバンナを意識したのだろうか、草の生えた広い地面を取り囲む檻の中には、群れをなしたシマウマがのんびり草を啄み、その奥にはこんもり葉の茂った木に首を伸ばすキリンの姿がある。
柵に仕切られた向こう側には、木陰で休むサイがいる。
何種類もの動物がいるサバンナ風の檻の隣には、プールが設けられたカバの檻があった。
コンクリートの地面の上にはカバの姿がないのでプールの中を覗くと、濁った水からちょこんと出た背中だけが見えた。
息継ぎをする時に顔が見えるだろう、と暫く待ってみたが、一向に浮き上がる気配がないので諦めて次の檻に進む。
次に現れたのはゾウの檻で、一匹のアフリカゾウが悠々と檻の中を歩き回っている。
「ゾウしゃん、みじゅ! みじゅ!」
ゾウの檻にへばりついている三歳位の男の子が、ゾウに向かって叫んでいる。
ゾウの檻には、『水や泥をかけることがあるので注意!』と書かれた看板が掲げられている。
男の子は隣にいる母親に看板を読んでもらい、水を掛けて欲しい、とゾウに訴えているようだ。
ゾウの檻の中には濁った水が入った小さなプールがある。
掛けられるとしたら、あの汚い水ってことだよな? それは勘弁だな。
そんなことを思いながらプールを見ていると、ゾウがそこに鼻を突っ込んだ。
まさか、と思った瞬間、ビシャ、と頭に冷たいものが浴びせられた。
「おにぃちゃんだけぇずるうぃー!」
耳を劈くような泣き声に、我に返る。
泣き叫んでいるのは、ゾウに水を掛けてくれと懇願していた男の子で、ゾウが俺にだけ水をぶっ掛けたのが気に入らないと暴れている。
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