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長月
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「はぁー」
次の猛獣ゾーンとの間に設けられた、子供向けの遊具が置かれた小さな公園のベンチに座り、空を仰ぐ。
服は肩の辺りが濡れただけで済んだが、髪は風呂上がりのような状態だ。
匂いを確かめてみたが、幸い鼻がもげるような悪臭は漂ってはいない。
「拓也の顔にぶちまけるなんて、許しがたい男ですね」
ハンカチでゴシゴシ髪を拭く俺の隣に、腕を組んで座っている男が憤慨している。
「あのゾウ、雄だったのか。俺の何が気に入らなかったんだろう?」
「逆ですよ。気に入ったから顔に吐き出したんです」
気に入ったなら水なんて掛けないだろうと思ったが、ゾウの気持ちは分かっています、と確信している様子の男に、そんなもんなのかなと納得することにする。
気に入ったから掛けられたなら、まだ許せるし虚しくもないからな。
「さぁ、行くぞ」
「まだ行ってはいけません」
ベンチから立ち上がろうとすると、男が俺のシャツを引っ張るように手を伸ばしてきて強い口調で言った。
「そんな姿を他人の目に晒すわけにはいけません。髪が乾くまで此処に居ましょう」
男が、まだ半渇きの俺の髪を見つめてきて、ふぅっと溜め息をつく。
「みすぼらしい濡れ鼠だって言いたいのか?」
濡れたくて濡れたんじゃないのに馬鹿にされる筋合いなどない、と男を睨み付けると、呆れたような顔をされて、また溜め息をつかれた。
「違いますよ。濡れた拓也を見て、濡れていいのは僕だけです」
「はぁ? 意味が分からないこと言うな」
実体のない男が、どうやって濡れるというんだ?
意味が分からなすぎて考えるのも馬鹿らしくなり、ベンチの背凭れで背中をストレッチするように伸ばして空を仰ぐ。
ぽかぽかの陽射しが降り注ぐそこで、髪が乾くまでうつらうつらしていた。
髪が渇き、向かった猛獣ゾーンで寝ていて微動だにしないライオンやトラを見て、右側の8の字の円の最後にあるモンキーゾーンに向かう。
猿山を見て、聞き慣れない片仮名の小さなサルを何種類か見た後、チンパンジーの檻に向かう。
檻の中には三匹のチンパンジーがいて、二匹は木にぶら下げられたタイヤで遊んでいたが、一匹は接着剤でくっ付けられたように床に座り込み、こちらをじっと見つめていた。
物悲し気な瞳と目が合い、動けなくなってしまう。
「逃げ出したいのですね」
男もあのチンパンジーの瞳に気付いたようで、憐れだ、と言うような顰めっ面で檻の中を見ている。
「逃げるって自然界にか?」
「そうですよ。こんな窮屈な処で飼われ生かされるのではなく、自由な地で自ら生きるのです」
カラーヒヨコの時もそんなことを言っていたし、どうして人に飼われることをそんなに嫌うのだろう?
「だいたい動物園生まれで自然を知らないから、窮屈だとか逃げ出したいとか思ってないんじゃないか?」
「もっと自由で魅力的な場所があるのを知らず護られて暮らすのと、死と隣り合わせでも自由な広い世界で自分らしく暮らすのと、どちらが幸せなのでしょうね」
チンパンジーと同じ物悲しい目をして聞いてくる男は、狭い世界に縛り付けられた暮らしをしていたのだろうか?
「知らないで護られて暮らすのも幸せ、知って自分らしく暮らすのも幸せ、なんじゃないか?」
「では、知っているのに護られて暮らすのは?」
「不幸かもな。知っていて逃げ出したいと思っているのに、何もせずに護られ続けていることが」
「環境ではなく、不満があるのにその環境を受け入れてしまっている心が不幸だと?」
「まぁな。でも、あのチンパンジーは不幸ってわけじゃないみたいだぞ。他の二匹に仲間に入れてもらえず物悲し気にこっちを見てただけみたいだ。ほら、仲間に入れてもらえて嬉しそうな顔してる」
微動だにせずこちらを見つめていたチンパンジーが、タイヤで遊んでいた二匹のチンパンジーと仲良く木登りをして遊んでいる檻の中を指差す。
「動物園の動物達はみんな幸せなはずだ。だから安心しろ」
自然界の動物達と違って動ける範囲は限られているが、餌の心配も身を護る心配もせず、のんびり暮らしている。
見られるのが嫌な動物達を無理矢理見ているなんて胸が痛むので、そう思いたい。
次の猛獣ゾーンとの間に設けられた、子供向けの遊具が置かれた小さな公園のベンチに座り、空を仰ぐ。
服は肩の辺りが濡れただけで済んだが、髪は風呂上がりのような状態だ。
匂いを確かめてみたが、幸い鼻がもげるような悪臭は漂ってはいない。
「拓也の顔にぶちまけるなんて、許しがたい男ですね」
ハンカチでゴシゴシ髪を拭く俺の隣に、腕を組んで座っている男が憤慨している。
「あのゾウ、雄だったのか。俺の何が気に入らなかったんだろう?」
「逆ですよ。気に入ったから顔に吐き出したんです」
気に入ったなら水なんて掛けないだろうと思ったが、ゾウの気持ちは分かっています、と確信している様子の男に、そんなもんなのかなと納得することにする。
気に入ったから掛けられたなら、まだ許せるし虚しくもないからな。
「さぁ、行くぞ」
「まだ行ってはいけません」
ベンチから立ち上がろうとすると、男が俺のシャツを引っ張るように手を伸ばしてきて強い口調で言った。
「そんな姿を他人の目に晒すわけにはいけません。髪が乾くまで此処に居ましょう」
男が、まだ半渇きの俺の髪を見つめてきて、ふぅっと溜め息をつく。
「みすぼらしい濡れ鼠だって言いたいのか?」
濡れたくて濡れたんじゃないのに馬鹿にされる筋合いなどない、と男を睨み付けると、呆れたような顔をされて、また溜め息をつかれた。
「違いますよ。濡れた拓也を見て、濡れていいのは僕だけです」
「はぁ? 意味が分からないこと言うな」
実体のない男が、どうやって濡れるというんだ?
意味が分からなすぎて考えるのも馬鹿らしくなり、ベンチの背凭れで背中をストレッチするように伸ばして空を仰ぐ。
ぽかぽかの陽射しが降り注ぐそこで、髪が乾くまでうつらうつらしていた。
髪が渇き、向かった猛獣ゾーンで寝ていて微動だにしないライオンやトラを見て、右側の8の字の円の最後にあるモンキーゾーンに向かう。
猿山を見て、聞き慣れない片仮名の小さなサルを何種類か見た後、チンパンジーの檻に向かう。
檻の中には三匹のチンパンジーがいて、二匹は木にぶら下げられたタイヤで遊んでいたが、一匹は接着剤でくっ付けられたように床に座り込み、こちらをじっと見つめていた。
物悲し気な瞳と目が合い、動けなくなってしまう。
「逃げ出したいのですね」
男もあのチンパンジーの瞳に気付いたようで、憐れだ、と言うような顰めっ面で檻の中を見ている。
「逃げるって自然界にか?」
「そうですよ。こんな窮屈な処で飼われ生かされるのではなく、自由な地で自ら生きるのです」
カラーヒヨコの時もそんなことを言っていたし、どうして人に飼われることをそんなに嫌うのだろう?
「だいたい動物園生まれで自然を知らないから、窮屈だとか逃げ出したいとか思ってないんじゃないか?」
「もっと自由で魅力的な場所があるのを知らず護られて暮らすのと、死と隣り合わせでも自由な広い世界で自分らしく暮らすのと、どちらが幸せなのでしょうね」
チンパンジーと同じ物悲しい目をして聞いてくる男は、狭い世界に縛り付けられた暮らしをしていたのだろうか?
「知らないで護られて暮らすのも幸せ、知って自分らしく暮らすのも幸せ、なんじゃないか?」
「では、知っているのに護られて暮らすのは?」
「不幸かもな。知っていて逃げ出したいと思っているのに、何もせずに護られ続けていることが」
「環境ではなく、不満があるのにその環境を受け入れてしまっている心が不幸だと?」
「まぁな。でも、あのチンパンジーは不幸ってわけじゃないみたいだぞ。他の二匹に仲間に入れてもらえず物悲し気にこっちを見てただけみたいだ。ほら、仲間に入れてもらえて嬉しそうな顔してる」
微動だにせずこちらを見つめていたチンパンジーが、タイヤで遊んでいた二匹のチンパンジーと仲良く木登りをして遊んでいる檻の中を指差す。
「動物園の動物達はみんな幸せなはずだ。だから安心しろ」
自然界の動物達と違って動ける範囲は限られているが、餌の心配も身を護る心配もせず、のんびり暮らしている。
見られるのが嫌な動物達を無理矢理見ているなんて胸が痛むので、そう思いたい。
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