先生、教えて。

オトバタケ

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「おい、今のは何の話だ?」

 梅田先生に続いて部屋に入っていこうする克己の腕を掴んで問いただすと、振り返った顰めっ面が観念したかのように深い息を吐いた。

「お前は直人の大事な先生だし、知る権利はあるな」

 覚悟は出来ているな、と問うような眼差しに、ごくりと唾を飲み込む。
 立ち去る気配がなくなったので掴んでいた手を離すと、壁にもたれ掛かって腕組みをした克己が、もう一度深く息を吐いて口を開いた。

「舞子さんは、二十七年前に一度死んでるんだ」
「ほぇ?」

 克己の放った言葉の意味が分からずに、素っ頓狂な声が漏れてしまった。
 夫人は死んでいる? では、あの夫人は何者なんだ?
 混乱しているのが顔に表れてしまったのか、ニヤリと口角を上げた克己。

「舞子さんが二十五歳、直人が三歳の時だ。書斎で遊んでいた直人の上に本棚が倒れてきた。それを庇った舞子さんは死んじまった。心臓が止まっての死じゃねぇけどな。脳死ってやつだ」
「脳死……」

 臓器移植のニュースなどで耳にする言葉だ。脳が死んでしまうと、生き返ることはないのではないか?
 益々混乱していく俺に構うことなく、克己は話を続ける。

「国重の親父さんが変わりもんの研究者だってのは知ってんだろ? 変人だけど天才の親父さんは舞子さんを生き返らせようと特殊な装置に舞子さんを入れて脳を甦らせる研究を始めた。先生も五十二の舞子さんがあんなに若いのはおかしいと思っただろ? 舞子さんは二十五ん時の姿のままだからな」

 確かに、夫人の容姿には疑問を抱いたことはあった。
 若作りなのだと思っていたものが、本当に若い年相応の姿だっただなんて。

「親父さんの研究はなかなか成功しなかった。親父さん譲りの、否、それ以上の頭脳を持っていた直人も一緒に研究をするようになったが、舞子さんを甦らせることなく親父さんは死んじまった」

 家族三人で過ごす日々を夢見て父親と共に研究を続けていた直人のショックを思うと、胸がぎゅっと締め付けられた。

「親父さんがいなくなった後の直人は研究の鬼になった。で、一年前にやっと研究は成功した。だが、舞子さんの脳を甦らせるのに必要だったのは直人の記憶だ。下手すりゃ舞子さんの記憶も失っちまうってんのに、直人は舞子さんに自分の記憶を移した。めでたく舞子さんは甦り、直人は舞子さんが死んじまった後の記憶を失した」

 自分の記憶を失ってでも甦らせたいほど直人は母親を愛していた。
 だが、失っても構わないくらいの記憶しかなかったとも捉えられる。
 その記憶の中には俺との出会いも入っていたが、直人にとってはそれも他のいらない記憶の一部なのだったと分かり、心臓を鋭利なナイフで刺されたような痛みが走った。

「親父さんと共に二十六年掛けて成功させた研究だが、それも今日で駄目になる」
「駄目?」
「そうだ。二十六年も特殊な装置で眠らされていた舞子さんの体はもう限界がきてる。今度こそ安らかに眠って親父さんの元に行きたいって舞子さんは望んでる。でもその前に、直人がくれた記憶を返したいんだそうだ」

 直人が、大人の男に戻るということか?

「舞子さんに移した記憶とこの一年の舞子さんの記憶は戻るはずだ。だがな、今のガキんちょ直人の記憶が残るかは分かんねぇんだ」

 俺を求めてくれ、結婚して繋がった記憶を失ってしまうかもしれないのか?

「もう舞子さんは長くはもたない。オレも準備を始めるな」

 求め続けていたヒーローではないが、温かく包んでくれる無垢な天使を失うかもしれないという恐怖で立ち尽くす俺を残し、克己は直人達のいる部屋に入っていった。

 今の直人が消えてしまったら、直人にとって俺は覚えている価値もない偶々助けた汚ならしい青年になってしまう。
 助けたこと自体覚えていなくて、初対面の知らない男だと思われるかもしれない。
 一度受け入れてもらっているから、温かな腕の中の心地好さを知ってしまったから、他人行儀な直人に耐えられる自信がない。
 そんな直人と顔を合わせるくらいなら、甘く幸せな記憶を抱いて一人で生きていった方がいい。

 掴んだと思っていた明るく温かな光を、冷たく不気味な闇が一瞬で飲み込んでいき、俺をその中に取り込もうと襲いかかってくる。
 死よりも恐ろしい絶望を運んでくる死神の如きその闇に追い付かれないよう、二階に駆け上がる。
 鞄を掴むと、一生直人と共に暮らしていこうと思っていた国重邸から逃げ出した。
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