吉野の山の桜閑話 -冥府庁異聞-

秋初夏生

文字の大きさ
6 / 8

第五話:境界に咲く桜

しおりを挟む
 気がつくと、神崎は一本桜の幹にもたれかかっていた。
 脚がふらつく。地面が引力を増したように、身体が沈み込む。

(……え?)

 ぼやけた視界の端で、自分の腕に“何か”が触れた。

 ——枝。
 細くしなやかな桜の枝が、するすると這い寄り、腕に、肩に、背に絡みつく。

 それはまるで、生きているかのようだった。

「……おかえり」

 そんなふうに語りかけるように、枝は優しく、しかし決して逃がさぬように神崎を包み込む。

 ——「来てくれて、うれしい」

 耳元で、女の声が囁いた。

 淡く、あたたかく、そして胸の奥をかき乱すような切なさを孕んだ声。

(……誰?)

 瞼が落ちる。枝に抱かれる感触が、あまりにも柔らかくて、心まで沈んでいく。

 まるで、春の午後のまどろみに誘われるようだった。

(この感じ……知ってる。子どもの頃……)

 誰にも言えなかった、記憶の奥に沈んだ情景。

 あのときも、たしかに、こんなふうに——

(……眠ってしまって、いいのかもしれない)

 その瞬間、ふっと、全身から力が抜けた。

 だが—— 

「神崎!!」

 夜の静けさを裂くような声が、山の中に響き渡った。


 ———


 襖の向こうに、気配がなかった。
 目を覚ましたアイリは、静かに呼吸を整えながら、確信する。

 異変がある。

 すぐに布団を抜け出し、隣室との襖を開け放った。
 そこに、もぬけの殻となった部屋があった。

 布団は乱れておらず、無理に攫われたような痕跡もない。だが、ただの外出とも思えない、微かな違和感が残る。

(……気づけなかった)

 旅館の和室。襖一枚を隔てて眠っていたというのに。

 アイリは眉を寄せたまま、部屋を見渡す。

(やはり、あのときの話……もっとちゃんと聞いておくべきだった)

 以前、神崎がぽつりと語った幼い頃の記憶——気づいたら桜の木の下で眠っていたという、あの出来事。

 そのときも、人ならぬ存在に誘われたのではないか。いや、もしかすると、あの時点で既に“選ばれていた”のでは?

 神崎には、何かを惹きつける体質がある。今までも、たびたび「説明のつかない事態」に巻き込まれてきた。

 もしも、今回の連続行方不明事件が、彼の過去と繋がっているとしたら?

 冷たい汗が、背筋を伝って落ちた。

(まさか……)

 その時にはもう、身体が動いていた。

 旅館を飛び出し、夜の山道を駆け抜ける。

 向かう先は、一本桜のもと——迷う必要はなかった。行くべき場所は、最初から決まっていた。

 夜風が肌を刺す。月明かりに照らされた桜の枝が、どこか冷たく揺れていた。

 そして、目に飛び込んできた光景に、心が凍りつく。

 あの木の下で、神崎が倒れている。

 その身体を、無数の枝が、まるで恋人を抱くように優しく、しかし逃がさぬように絡め取っていた。

「……神崎!!」

 地を蹴って駆け寄り、肩を揺さぶる。

 反応はない。けれど、かすかに呼吸はある。

「こんな……」

 怒りと焦りと、どうしようもない恐れが喉の奥にせり上がる。

「お前が、こんなところで捕まってどうする!」

 枝に手を伸ばし、引き剥がそうとする。

 だがそれは、神崎を守るように絡みつき、まるで意志を持つもののように離れようとしない。

「ふざけるな……!」

 顔をしかめ、力を込める。

 ——それでも、届かない。

 だから、声を張り上げた。

「私はお前を、こんなところで失う気はない!」

 それは、普段の彼女が決して見せない、“誰かを強く想う”叫びだった。

 その響きに呼応するように。

 神崎のまぶたが、かすかに震えた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

冷遇妃マリアベルの監視報告書

Mag_Mel
ファンタジー
シルフィード王国に敗戦国ソラリから献上されたのは、"太陽の姫"と讃えられた妹ではなく、悪女と噂される姉、マリアベル。 第一王子の四番目の妃として迎えられた彼女は、王宮の片隅に追いやられ、嘲笑と陰湿な仕打ちに晒され続けていた。 そんな折、「王家の影」は第三王子セドリックよりマリアベルの監視業務を命じられる。年若い影が記す報告書には、ただ静かに耐え続け、死を待つかのように振舞うひとりの女の姿があった。 王位継承争いと策謀が渦巻く王宮で、冷遇妃の運命は思わぬ方向へと狂い始める――。 (小説家になろう様にも投稿しています)

完結 愚王の側妃として嫁ぐはずの姉が逃げました

らむ
恋愛
とある国に食欲に色欲に娯楽に遊び呆け果てには金にもがめついと噂の、見た目も醜い王がいる。 そんな愚王の側妃として嫁ぐのは姉のはずだったのに、失踪したために代わりに嫁ぐことになった妹の私。 しかしいざ対面してみると、なんだか噂とは違うような… 完結決定済み

15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~

深冬 芽以
恋愛
 交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。  2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。  愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。 「その時計、気に入ってるのね」 「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」 『お揃いで』ね?  夫は知らない。  私が知っていることを。  結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?  私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?  今も私を好きですか?  後悔していませんか?  私は今もあなたが好きです。  だから、ずっと、後悔しているの……。  妻になり、強くなった。  母になり、逞しくなった。  だけど、傷つかないわけじゃない。

行き場を失った恋の終わらせ方

当麻月菜
恋愛
「君との婚約を白紙に戻してほしい」  自分の全てだったアイザックから別れを切り出されたエステルは、どうしてもこの恋を終わらすことができなかった。  避け続ける彼を求めて、復縁を願って、あの日聞けなかった答えを得るために、エステルは王城の夜会に出席する。    しかしやっと再会できた、そこには見たくない現実が待っていて……  恋の終わりを見届ける貴族青年と、行き場を失った恋の中をさ迷う令嬢の終わりと始まりの物語。 ※他のサイトにも重複投稿しています。

降っても晴れても

凛子
恋愛
もう、限界なんです……

【bl】砕かれた誇り

perari
BL
アルファの幼馴染と淫らに絡んだあと、彼は医者を呼んで、私の印を消させた。 「来月結婚するんだ。君に誤解はさせたくない。」 「あいつは嫉妬深い。泣かせるわけにはいかない。」 「君ももう年頃の残り物のオメガだろ? 俺の印をつけたまま、他のアルファとお見合いするなんてありえない。」 彼は冷たく、けれどどこか薄情な笑みを浮かべながら、一枚の小切手を私に投げ渡す。 「長い間、俺に従ってきたんだから、君を傷つけたりはしない。」 「結婚の日には招待状を送る。必ず来て、席につけよ。」 --- いくつかのコメントを拝見し、大変申し訳なく思っております。 私は現在日本語を勉強しており、この文章はAI作品ではありませんが、 一部に翻訳ソフトを使用しています。 もし読んでくださる中で日本語のおかしな点をご指摘いただけましたら、 本当にありがたく思います。

【完結】「別れようって言っただけなのに。」そう言われましてももう遅いですよ。

まりぃべる
恋愛
「俺たちもう終わりだ。別れよう。」 そう言われたので、その通りにしたまでですが何か? 自分の言葉には、責任を持たなければいけませんわよ。 ☆★ 感想を下さった方ありがとうございますm(__)m とても、嬉しいです。

愛されないと吹っ切れたら騎士の旦那様が豹変しました

蜂蜜あやね
恋愛
隣国オデッセアから嫁いできたマリーは次期公爵レオンの妻となる。初夜は真っ暗闇の中で。 そしてその初夜以降レオンはマリーを1年半もの長い間抱くこともしなかった。 どんなに求めても無視され続ける日々についにマリーの糸はプツリと切れる。 離縁するならレオンの方から、私の方からは離縁は絶対にしない。負けたくない! 夫を諦めて吹っ切れた妻と妻のもう一つの姿に惹かれていく夫の遠回り恋愛(結婚)ストーリー ※本作には、性的行為やそれに準ずる描写、ならびに一部に性加害的・非合意的と受け取れる表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。 ※ムーンライトノベルズでも投稿している同一作品です。

処理中です...