LIFE ~にじいろのうた~

左藤 友大

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第二話 涙の雨とガジュマルの精霊

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兄ちゃんが楽しそうに鍵盤を弾いている。
ぼくは、兄ちゃんの膝の上に乗って奏でる鍵盤の音を聞いて楽しんでいた。兄ちゃんは慣れた手つきで鍵盤を弾き曲を奏で歌う。
ぼくも兄ちゃんと一緒に笑顔で歌う。電子ピアノはリビングにあってキッチンにはお母さんがいた。お母さんは優しい目で歌っているぼくと兄ちゃんを見守っている。
兄ちゃんが弾いているのは、昔の曲だ。とても素敵なメロディで力強くて優しい音を鳴らしている。これは昔、歯科医を務めながらアーティスト活動をしていたグループの歌だとぼくは聞いている。あまり昔の曲は知らないけど、ぼくはこの曲が好きだ。
兄ちゃんの夢はシンガーソングライターだ。普通の会社で働いている。ぼくが生まれた時は路上や地下ライブ、YouTubeで歌っていたらしい。ぼくはまだ兄ちゃんのライブを見たことはない。
シンガーソングライターになるのが兄ちゃんの夢だ。そして、この曲は兄ちゃんの十八番だ。
兄ちゃんの影響でぼくも音楽と歌が好きだ。悲しい時も必ず兄ちゃんが歌うとぼくもつられて歌う。こうして自分の好きな歌を歌えるのは家しかないのだ。だって、今は戦争中で海外の歌は厳禁され戦時歌謡と軍国歌謡を歌を歌わなければならない。もちろん、ジャズやフォークソングなどが禁止になり日本の有名なアーティスト達は軍と兵士に向けた歌や日本が勝利するよう作られた曲しか歌わなくなったのだ。そうしなければ、反逆罪として捕まってしまうらしい。
勝手で迷惑なことだ。おかげで路上や地下ライブの使用は禁止してしまい、いくつかの地下ライブ施設は倒産することになってしまった。
兄ちゃんも路上や地下ライブができなくなって、なかなか人前で歌う機会がなくなってしまった。でも、こうして兄ちゃんと一緒に歌えるのは僕の幸せでもあって、家で好きな歌を歌えるのが兄ちゃんの幸せでもある。いつ見ても歌っている姿の兄ちゃんはかっこいい。
ぼくも歌を歌うの好きだから歌手になろうかなと思った。兄弟揃ってのアーティスト。悪くない気がする。
ぼくと兄ちゃんの合唱が終わるとお母さんが夕飯ができたよと教えてくれた。それを聞いてぼくと兄ちゃんは真っ先に食卓の方へ行った。
戦争中でも家族の幸せは変わらなかった。しかし、ぼくと兄ちゃんがお母さんと一緒に夕食を取るのは今日で最後だった。明日からお母さんは戦地へ行って負傷した兵隊さん達の手当てをしなければならなかった。
お母さんと最後の夕食を取ったのは2083年5月10日だ。

         *

ぼくは目を開けた。お母さんと過ごした最後の日の夢を見て目覚めたのだ。
部屋は真っ暗で時計の針は夜中の1時25分指していた。家族の夢はお母さんと兄ちゃんと三人での最後の晩餐をする夢を見た。
お母さんとの思い出はお父さんより大体憶えてはいる。お母さんは救命医だった。いつも忙しく患者の命を多く救ってきた。でも戦争の時、お母さんは赤十字団戦地出張班のメンバーに選ばれ戦地へ行かなけれないけなかった。兄ちゃんは反対していたが、お母さんは『危険な戦地でも命をかけてお国を守ってくれている兵隊さん達を助けるのが医者としての役目』と言い出発の日を迎えた。
その頃のぼくは、お母さんが言っていることはほとんど理解できなかった。
戦地へ出発する日、お母さんは兄ちゃんに『虹を頼むね』と言い次はぼくを強く抱きしめながら『虹、お兄ちゃんをよろしくね』と言った。そして、『必ず生きて帰るからね』と言い残し船で戦地へ向かった。戦時中は、旅客機用の飛行機だと狙われて攻撃されると恐れ敵に発見しにくい船で戦地へ行くよう政府が手筈を取っていたのだ。
それから一ヶ月後、お母さんの戦死報告が届いた。お母さんが行った戦地にはA国の兵士がいて日本軍はほとんど全滅し敗北したと聞く。お母さんは敵兵に撃たれて死んだらしい。
ぼくはそう思い返しながらもベッドから降りた。喉がカラカラだったので下の台所へ行って水でも飲もうと思ったのだ。

台所に着いたぼくは食器棚からコップを出し冷蔵庫を開けて紙パックの蓋が開いているオレンジジュースを注ぎ飲んで一息ついた。
昔の夢を見たせいかお母さんと兄ちゃんと一緒に夜ご飯を食べたことが懐かしく思えた。あの頃は本当によかった。そう思いながらもぼくは飲み干したコップを台所の流し台に置き再び自分の部屋へ戻る。
部屋に着きベッドに横たわる。初めて祖父母の家で寝る時は東京にいた頃に住んでいた家とは違ってなかなか寝つけなかった。今はもう普通に寝られる。
横わたっているぼくは生前のお母さんと兄ちゃんの顔を再び思い出した時、目から一滴の粒を流した。
これは悲しい粒ではない。会いたいという強い想いによってできた粒だ。とぼくは思い再び眠りについた。

今日の天気は曇り。厚い鼠色の雲が空を覆って薄暗い。今は6月で梅雨の時期なのでもしかすると、雨が降るかもしれない。
暗雲の下に佇む学校の校庭には生徒の影が見えない。生徒達は今、授業中なのだ。
授業中でありながらもぼくは、一人教室に残った。教室にはぼく以外の子は誰もいない。みんなは音楽の授業で音楽室へ行っているのだ。でも、ぼくだけは違う。ぼくは一人静かに漢字の書き取りをしている。音楽の授業だけは参加しないことにしている。それはなぜなのか。知っているとおり、ぼくは音楽や歌が嫌い。単なる普通の嫌いではなく音楽や歌を聞くと死んだ家族を思い出してしまうからだ。2年生の時、音楽室で歌の練習をした時、フラッシュバックのように兄ちゃんとお母さんの生前の姿、そして兄ちゃんの死に顔を思い出してしまい気持ち悪くなり最悪なことに頭痛しそのうえ嘔吐したことがある。家族の死による心の傷が大きかったせいだろう。
それからは、音楽の授業だけは受けないことになった。でも、音楽の授業に参加しない代わりにぼくだけ自習時間をもらうことになった。クラスのみんなは『羽藤くんだけ音楽の授業をサボるなんてズルい』とかいろいろ陰口を叩かれたりはするが、ぼくはそんなの気にしない。
ぼくの心の傷は、治しようがないんだもの。
一人教室に残って漢字の書き取りしていると教室の引き戸が開く音が聞こえた。
そして、机に座っているぼくに声をかけて来た。
「羽藤くん」
ぼくは顔を上げた。担任の福原先生だ。半袖のワイシャツを着て黒ズボンを履いている福原先生は優しい顔でぼくに話しかけてくれた。
「教室で一人いて淋しくないかい?」
そう訊ねられてぼくは素っ気なく答えた。
「淋しくはないです」
しかし、福原先生はまたぼくに訊ねた。話し相手がいないぼくを気にかけてくれているのだろう。
「何か困っている事とかないか?昨日は、田内にいじめられていたそうだけど」
「気にしていません。もう慣れているので。それと困っていることはありません」
すぐ返答しぼくは書き取りの続きをした。福原先生は「そうか」と言った。
そろそろ教室に出て行くかなとぼくは思ったが、福原先生はまだぼくの側にいた。隣から椅子が動く音が聞こえた。福原先生が椅子を動かし座ろうとしているのだろう。
「そろそろ、みんなと一緒に音楽の授業に参加したらどうだい?」
ぼくは口を開かず手だけ動かして聞き流した。
「音楽の井口先生。羽藤くんのこと心配してくれているよ。みんなも羽藤くんと一緒に音楽の授業を受けたいはず」
一緒に受けたい?ぼくと?
そう思ったぼくは手を動かしながら返答した。
「誰も思っていませんよ。みんなは、ぼくのことをバカにしているだけです。ぼくはみんなに面白がられるユーレイみたいな奴ですから」
マイナス発言をするぼくに福原先生は黙ってくれなかった。
「そんなことはないよ。みんな、羽藤くんと音楽の授業を受けたがっているはずだ。きみは大人しすぎるが本当は良い子だということは、みんなも分かってくれているはず。この世に一人で生きる人間なんていないんだよ。羽藤くんが東京に住んでいた頃だってたくさん友達がいたんだろ?一人で悩んだり苦しんだって何も変わらないんだ。一人だけでも友達を作ればきっと、羽藤くんが知っている世界とは少し違う新しい世界が見えるかもしれない。それに」
福原先生は話すのを止めない。
「過去に囚われては進歩もしないよ。先生も静岡に住んでいる従兄弟が戦地で死んだんだ。従兄弟が死んだことはもちろん、先生だって悲しかったさ。でも、いつまでも死んだ人のことを思いつめないで前へ進まなくちゃいけない。きっと、天国にいる羽藤くんのお兄さんとお母さん、お父さんは悲しみに慕っているきみを見て心配しているはず。家族の為にも未来に向かって元気に生きなきゃ。胸を張って未来へ歩み進むきみを見せたら、天国のお兄さん達は喜ぶと思うな」
福原先生の前向きな言葉にぼくは不愉快になった。ぼくのことを励ましてくれているみたいだけど、ぼくがそう簡単に前向きになれるのかと疑ってしまう。ぼくは先生とは少し違って心の傷が大きい。そう簡単には治らないと・・・・思う。
気にかけてくれるのは嬉しいが、ほっといてくれと心のどこかでそう囁いていた。
ぼくは黙りこくったまま手だけ動かした。一応、耳を傾けているつもりだ。それに、福原先生は今、どんな表情しているのか分からない。優しい声で話しかけてくれたからきっと、優しい顔をしているだろう。
時折り、こうして福原先生自ら話しかけてくることが何度かある。きっと、3年、4年生の頃に担任をしていた先生がぼくのことを教えたのだろう。そして、福原先生は話しかければきっと、心を開いてくれると考えたのだろう。
でも、先生。ぼくはそうやすやすと心を開いてくれる甘ちゃんじゃないんだ。先生には悪いけど、はっきり言って無理だ。
「無理とは言わない。もし、音楽の授業に参加したいと思ったら自分から井口先生に教えるんだよ。井口先生もきみが音楽の授業に参加してくれたらきっと喜ぶよ」
先生。それは永遠にない。
「家族の死を乗り越えればきっと新しい世界が─」
「先生」
ぼくが呼ぶと福原先生は話すを止めた。
そして、ぼくは福原先生にこう言う─
「いつも気づかってくれてありがとうございます。でも、もうぼくのことを気にしなくても大丈夫です」

三時間目の終了を知らせるチャイムが鳴った後、音楽室に行っていた生徒達がぞろぞろと教室に入って来た。
ぼくは漢字の書き取り使った漢字ノートと漢字ドリルを引き出しにしまい次の授業に使う教科書とノートを取り出した。
外は相変わらず暗くどんよりとした暗雲が広がっている。ぼくは引き出しにしまっていたスマホを取り出しパスコードを入力しホーム画面を開いた。ホーム画面にある「Twitter」のアプリを開き溜まったタイムラインを順追って眺めた。
そして、虫眼鏡を表した検索マークをタップすると今日のトレンドニュースがズラッと縦一列に並んでいた。そのトレンドニュースのメニューに「I国 VS R国」と書かれてある一部を見つけタップした。
映ったのは、I国現地で起きている戦争の動画だった。音声はオフになっていて聞こえないが町の中からたくさんの爆煙が上り住民達が逃げている映像がアップされている。第三次世界大戦が終わったとしてもテロや各地で起きている止まない戦争があったりしている。
この映像を観ると気がめいってしまい、人間は本当にバカな生き物だと思ってしまう。ぼくもそのバカの一人。
耐え難いほどの惨劇な映像なのでぼくは画面を検索メニューに戻した。あの惨劇な映像を観てぼくは溜息をついた。嫌な物を見てしまったと。
気を取り直して検索欄を開こうとした時、ひょいっとぼくの手からスマホが消えた。顔を上げるとぼくのスマホを取り上げたのは田内だった。
またかと思いぼくはスマホを取り返そうとする。
「返せよ」
ぼくは席を立ちスマホを奪い返そうとしたら田内がぼくのスマホを取らせないかのように焦らした。
「お前。また音楽の授業をサボったよな」
また文句を言うのか。ぼくは嫌々になりながら小太り野郎の口から出る憎たらしい言葉を聞いた。
「みんな言ってるぞ。お前だけ参加しないなんてずるいって」
一瞬、胸がチクリとした。やっぱり、みんなはそう思っているんだと。
それに、周りを見なくても分かる。みんながぼく達を注目して見ていることを。
「もしかして、お前のお兄ちゃんが死んだから授業に出られないのか?」
水上の言葉にぼくは口を閉ざした。
「やっぱな。前に職員室で聞いたんだ。図星か」
ぼくは口を噤むだけしかできなかった。
「やっぱ、お兄ちゃんが恋しかったのか~」
半分ふざけ口調で喋る小佐田に田内は強く言い放った。
「いい加減、死んだ兄貴のことなんて忘れろ。兄貴はもういねぇんだから」
兄ちゃんはいない。確かにそうだ。でも、忘れろなんて─
「・・・・・スマホ返せよ」
とにかく、ぼくはスマホを返して欲しかった。
しかし、そう簡単には返してくれない。
「じゃあ、音楽の授業をサボった罰として昼休み、みんなの前で尻踊りをやってそれから来年までおれの犬になれ」
その言葉にぼくは口を噤み俯いた。
クラスのみんなは黙ったままこちらを見ているに違いない。
三人は容赦なくぼくに言葉を投げかけてきた。
「じゃないと、このスマホを投げ捨てる」
「田内くんの言うことを聞いた方がいいぜ」
「お前は根暗よりおもしろい奴の方がお似合いなんだよ」
ぼくは黙ったまま言い返せなかった。言い返せない分、怒りが込み上げてきて拳を強く握り小刻みに震わせる。
「やっぱ、兄貴がいないと何もできないんだな」
「こうちゃん。田内くんの言うことを聞きなちゃい」
「死人がちゅきなんですってか?」
鼻笑い交じりのからかいに俯いているぼくは眉間を寄せた。
周りはからかっているぼくの様子を見ておもしろがっているに違いない。静かな教室からクスクスと笑う声が聞こえてくる。悪ガキ三人組のからかいと周りから聞こえるクラスの笑う声。からかう声と笑いの声がぼくの頭の中を渦巻くように流れる。ぼくはこの耳障りで嫌な声に溺れてしまいそうで耐え難くなった。容赦なく襲う周りからの笑い声がぼくを笑い者へと引きずり込もうとする。
頭がおかしくなりそうだ。ぼくはどうしても耐え難いこの耳障りな笑い声を消したかった。だが、次第に笑い声が大きくなりぼくの神経を蝕んでいく。
怒りのボルテージが上がったぼくは我慢の限界で凄まじい大声で「うるせえ!!!」と叫びながら机を倒した。
あまりの怒りの大声にからかっていた悪ガキ三人組を含め周りからの笑い声が消え沈黙となった。
怒鳴り声を上げたぼくが田内達を睨むと彼らは驚いた顔をしながら口を開けていた。ぼくはどんな顔をして彼らを睨んでいるのか分からないが、とにかくすごい顔をしているのは確かだろう。
ぼくは田内達と周りのみんなに向けて怒り任せで怒声を上げた。
「そんなにぼくを貶(けな)しておもしろいか!?なあ!?なんなんだよお前らは!!!お前らのことなんか最初からこれっぽっちも友達とかクラスメイトなんて思ってないからな!!!ぼくのこと何も知らないくせにへらへらと言いやがって!!!死人を想う気持ちを持って何が悪い?!家族が死んでいるのに大笑いしてそんなに楽しいか?!ユーレイでも空気でもなんでもいいから、もう二度とぼくに話しかけるな!!!」
教室の外から「なんだ?なんだ?」「どうした?」とうちのクラスを覗く子達の声がぞくぞくと聞こえた。どうやら、ぼくの怒声は隣クラスまで聞こえたらしい。でも、ぼくはそんなことを気にせず今まで黙っていた本音をぶちまけた。
ぼくは田内に取られたスマホを勢いよく奪い返し机を倒したまま落ちた教科書とノート、引き出しに入っている物を全部出してランドセルに入れた。そして、ランドセルを背負い急ぎ足で教室に出る。教室からぼくを呼び止める声が聞こえたような気がしたがそんなの無視した。

1階の下駄箱へと階段を使って降りた。ぼくは居ても嫌になるだけの学校を早く出たい気持ちが強かった。そして、怒りと苦しさが混じった感情を抱きながら1階へ目指す。
すると、後ろから「羽藤くん!」とぼくを呼ぶ声が聞こえた。でも、ぼくは早く学校を出て行きたいことで頭が一杯だった。足を止める暇なんてない。もうすぐ、1階に着こうとした途端、後ろからぼくの腕を引っ張ってきた。
「待てよ」
この声は田内でも水上でも小佐田でもない。邑上爽馬くんだ。
「羽藤くん。あいつらのことなんて気にしなくても─」
言いかけた途端にぼくは腕を振り払った。今はほっといてほしい。それしか思わなかった。
しかし、ぼくは心許ないことを彼に言った。
「・・・・・・・ぼくは、きみとは違う。同情なんか・・・買わなくていいから」
そう言い残しぼくは1階へ降りた。

校舎を出た時、外は雨が降っていた。
しかし、ぼくは傘を持たずそのまま外に出た。雨はとても降っていて冷たかった。
校門を出ていつも通っている道を一人で歩くぼくは雨に打たれ濡れながらも歩いた。
今頃、教室ではぼくを怒らせて学校を出て行ったことでざわついているのだろう。先生がぼくを笑った奴らに怒号を上げているだろう。クラスのみんなは今更、ぼくを怒らせたことを後悔しているだろう。
でも、そんなに気にする必要はない。どうでもいいことだ。他の奴らなんか知ったこっちゃない。先生に叱られて可哀想にも思えない。気の毒とは思えない。いい気味とは思えない。
髪や服は雨に濡らされてベッタリしていた。ぼくの指先に雨の雫がポトポトと零れ落ちる。腕と足、肌は雨の水が流れ靴下は濡れてベタつき靴は水浸しになった。
雨が降る中、ぼくは悔しさと苦しみと悲しみが込み上げてきて雨の雫と一緒に目から涙の粒が出て濡れた頬に伝った。雨音と交わりながらぼくは口を大きく開けて声を上げながら泣いた。両親に会いたい気持ち、最愛の兄に会いたい気持ち、そして自分はどうしたらいいのか分からなく募りに募って悪ガキ三人組にいじめられてもクラスのみんなから白い目線を送られてもずっと我慢してきた気持ちが一気に爆発したかのように雨音と共に顔を上げて泣き叫び続けながら歩いた。ぼくは泣いて泣いて泣き続けた。今まで、泣いたことなんてなかったが今回は異常に泣いた。
誰もいないこの道でぼくはただ一人、雨の音に負けないぐらい泣いた。

道路には車が通りぼくはバスに乗らず学校から歩いて与那覇前浜に着いていた。
さっきまで大泣きしていたのが、今では泣き止み落ち着いていたが、心は沈んだままま。それに、泣き腫れた目でバスに乗るのはさすがに嫌で雨の中、家まで自分の足で歩いたのだ。
しかし、四時間目と給食や昼休みはもちろん、午後の授業に参加しないで学校に飛び出したのできっと、先生は家に連絡したかもしれないと思うと帰りづらくなった。雨に濡れた髪を揺らし水浸しになった靴をビチャビチャと音を立てながら歩いた。体と頭は重く心が沈んでいて元気も出ない。しばらくは、家に帰れないしどうしようと思った時、ぼくの頭の中から一つだけ思い浮かんでいた。
しばらくの間は、あそこでいよう。
そう思いぼくは重い体と濡れた髪の毛を揺らしながら足を運ばせた。

ぼくはとても大きな広場に着いた。広場には雨で濡れた緑一面の芝生がある。建物はないが、普通の広場としては十分足りるぐらいの広さだ。
昔はここにリゾートホテルがあったと聞いたことがある。でも、20か24年前ぐらいの時に無くなり今はみんなの広場として扱われている。
時々、ここにキッチンカーが来て家族連れや友達連れが買って食べたりすることもある。
今は雨が降っていて人影がない。ぼくはこの開放感がある広場でゆっくり過ごすのが好きなのだ。そして、ここにはぼくのお気に入りの場所がある。今、ぼくはそこに目指している。
ここ広場には大きなガジュマルの木が立っているのだ。いつから立っているのかは知らないが、ぼくはそのガジュマルの木の下で過ごすことが何より好きだ。あそこはとても落ち着くし絡み合った太い枝や垂れ下がった気根があって生命力を感じるのだ。
雨に濡れた体でぼくはガジュマルの木へ目指す。しばらく歩くと緑いっぱいで太い大木を持つ大きなガジュマルの木が見えた。とても大きいし雨宿りには持ってこいだ。しばらく、あのガジュマルの木の下で雨宿りしよう。
ぼくはガジュマルの木の下に入り濡れた背負っていたランドセルを芝生の上に置き腰を下ろしてガジュマルの木の大木に背を付けた。
ガジュマルの木の外から見える景色と振り続く雨を見つめながらぼくは足を伸ばしポケットに入っていたスマホを見た。
スマホ画面に着信が着ている。相手はおばあちゃんからだ。電話が鳴っていたのを気づかなかったが、今は電話する気はない。顔を上げたぼくは複雑に絡み合いしっかりと整ったたくさんのガジュマルの木の枝と木の葉を見た。いつ見ても本当にすごい木だ。初めてガジュマルの木を見た時は感動したものだ。
昔、死んだ兄ちゃんから聞いたことがある。
お母さんの故郷にはガジュマルっていう大きな木がある。その木には〝キジムナー〟っていうガジュマルの木に宿る精霊、つまり妖怪がいる。と
キジムナーってどんな妖怪なんだろうとスマホで検索してみたがいろんな姿があった。毛むくじゃらで体が丸く目はギョロっとしてギザギザの歯を持つ口に小さな足と手がある。そして、もう一つは髪が赤く人間の子供に非常によく似ている姿をしている。宮古島を含め沖縄にいる伝説の生き物だ。そして、人間と友達になれるタイプだと聞く。そしてそして、魚の左目が大好物だ。
ぼくがガジュマルの木の枝や気根を見上げていると一瞬、小さな影が見えた。ぼくはその影に気づいた。
小さな影の正体は赤い長髪をした人間の子供だ。ぼくはその長い赤髪の子供を見て自然に口角を上げ「こんにちは」と挨拶をした。
長い赤髪の小さな子供は一旦、木の枝の上に顔を隠した。しばらくすると、小さな子供がガジュマルの木の上から降りてきた。
そう。赤く染まった長髪で人間の子供の姿をした小さな生き物の正体はガジュマルの木の宿る精霊、そして妖怪キジムナーだ。ぼくはキジムナーの姿を見ることができる。そして、彼らはぼくの友達だ。
キジムナーの姿を初めて見たのは昨年の夏。ガジュマルの木陰で本を読みながらくつろいでいた時に突然、キジムナーの姿が見えて友達になったのだ。そして、キジムナーは人間の言葉が喋れる。彼らは長年、このガジュマルの木からぼくら人間を見守ってくれている。ぼくみたいな子供にはキジムナーの姿が見えるみたいだ。
小さな人間の子供の体を持つキジムナーはぼくのランドセルの上に立ってぼくの様子を窺っていた。もしかすると、ぼくの目が泣き腫れているのに気づいたのかもしれない。
「どうした?目が腫れてるぞ?」
そう訊ねられ雨でビショビショに濡れているぼくは笑顔を作った。
「なんでもない。ちょっと、嫌なことがあっただけだよ」
そう軽く伝えるとぼくはキジムナーに訊ねた。
「今日はみんないるの?」
ランドセルの上に立つキジムナーが顔を見上げてながら宮古島方言で「かま」と答えた。かまは標準語で「そうだ」という意味。
ぼくは上を見上げてながら「上にいるんだね」と言った。
キジムナーは「そうだ」と頷いた。
ぼくはそっと手を差し伸べた。キジムナーは迷うことなくランドセルからぼくの掌(てのひら)に飛び移った。
掌の上に乗っているキジムナーに顔を近づかせてぼくは今日の出来事を話した。
「きみとこうして話していると本当に嫌なことを忘れられるよ。今日、音楽の授業があってぼくだけサボってずるいって言われたんだ」
ぼくは田内達に音楽の授業に出なかったことをずる呼ばわりされたことをキジムナーに話した。
キジムナーはぼくの話をちゃんと耳を傾けて聞いてくれた。そして、ぼくは話を続けた。
「ぼくが音楽が嫌いになった理由は、きみもみんなも知ってるよね。いざ、音楽や歌を聞いてしまうとどうしてもあの時を思い出しちゃうんだ。そしたら、頭が痛くなって吐き気もするんだ。それなのに、田内達はぼくの気持ちを知らないで罰としておれの犬になれとかみんなの前で尻踊りしろって言われるし、しかも兄ちゃん達を笑い者のネタにしたんだ。それで、我慢できなくて怒って四時間目が始まる前に学校を出てったんだ」
元気がない声でキジムナーに話すと彼は掌の上で胡坐(あぐら)をかきながら腕を組んでぼくの話をしっかりと聞いた。
小さな体で可愛い姿をしながらもキジムナーは真面目な顔をしてぼくにこう言った。
「そうだったのか。きみがあざさんとやーでぃを亡くしてはつんだらーさかもしれないが、いつまでも落ち込んでちゃ仕方がない。そろそろ立ち直った方がいいぞ」
福原先生と似たことを言ってる。
「んきゃーんのことは忘れろとは言わん。ただ、オラは虹にパニパニ出して欲しい」
パニパニ。標準語で元気という意味だ。
キジムナーはぼくのことを心配してくれているのだ。気持ちはありがたいが、家族や兄の死で心の傷を負いすぐ元気になれとか立ち直れとか言われてもすぐにはできない。
「ありがとう。嬉しいけど、そう簡単に元気が出て立ち直れたら今頃、根暗で田内達にいじめられなかったしユーレイだなんて変なあだ名はつかないよ」
立ち直るなんて無理だ。一生、心の傷と悲しみを抱えたまま一生過ごすとぼくは思った。
すると、キジムナーがある提案を出した。
「自分の好きなことをすればいいんじゃない?」
自分の好きなこと。好きなことと言われてもとぼくは困った。
好きなこと・・・ではなく、好きだったことは分かる。それは、歌だ。
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