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第1章

その23 愚かでも愛すべき人間達を救うために。香織は反撃する

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「わたしが、わからないの? クイブロ。婚姻の誓いの杯を交わした伴侶なのに」
 くすっと、少女は笑った。
 大輪の花が咲いたような美しい少女が、そこにいた。 

「お、おまえ、カルナック!? うそだろ!? だって……」

(カルナックは紛れもなく男の子だったはずだ)

 クイブロは驚きのあまり、何がどうなっているのか、わからない。

「嘘なんてつく理由はないでしょ?」
 倒れたままだったクイブロを抱き起こして、頬にキスをする。
 そして、クイブロの右手に手を添えて持ち上げさせ、何も着ていない素肌のままの、胸のふくらみに触れさせた。
 クイブロの顔が真っ赤になる。

「え、ええええ!? ほ、ほんとに、か、か、カルナック……なのか? こんな……!?」

 身体が思うに任せないことをクイブロはたまらなくもどかしく感じた。
 若い女性の胸に触るとか、こんな経験は生まれて初めてだというのに、指一本も自由に動かせない。

「何を遠慮しているの? 伴侶でしょ?」

 美少女は、不思議そうな顔をした。

「セラニスは催眠術が得意なの。本当は、麻痺なんてしてないわ。動かせるのよ。さあ、やってみて」

「う、動かしたい、けど」

 柔らかくて、なめらかな、すべすべの素肌の感触は、あった。
 手が動かせたら……。
 腕に、指先に。力をこめてみる。

「ううっ……ちくしょうっ。動かない」

「いいのよ大丈夫。わたしが絶対に、なんとかしてあげる」
 クイブロを抱きすくめて、頬を寄せる、美少女。
 
 カントゥータも、ローサもびっくりしていたが、もっと驚いていたのは、コマラパだったろう。
 美少女は、彼が前世で死別した娘、香織の姿そのものだった。

「か、香織? 香織(かおり)なのか?」

「ああ、パパ? やっぱり?」
 少女は振り向いて微笑み、
「ちょっと待っててね」とクイブロの頬にキスをして。
 カントゥータにクイブロを預けて離れる。

 艶やかな長い黒髪は、ゆるく三つ編みにされて腰まで届いている。
 瞳は水精石アクアラの淡い青。
 透き通るように白い肌には何も纏っていない。
 身体は細くしなやかで、先ほどクイブロの手を取って触れさせていた胸のふくらみは、見た目の年齢相応の存在感があったが、少女は何一つ隠そうともせずにいた。

 重さを持たない妖精のように、ふわりと床に降り立つ。
 あどけなく、なおかつ妖艶に、微笑んで。
 
「やっぱりパパ! サンタクロースみたいな、おひげが似てる気がしてた。それに、妙にストイックなところ。囲碁が好きとか、頑固なのに優柔不断だとか、前世のパパみたいだなって」

 ほんの少し前まで七歳にもならないような幼い子ども、カルナックだった、並河香織は、思い出したように、くすくす笑っていた。
 それはなぜか、セラニス・アレム・ダルの姿に、どこか似ていた。

「ねえパパ? あの飛行機、太西洋に落ちたでしょ。私の忠告に従っておけばよかったって、思ったでしょ? たぶん、死ぬ直前までくらいには」

 呪いと後悔に彩られた言葉を、美しい少女は、きらめくような声で、紡ぐ。
 それは愛娘が前世で死に別れた父親に向ける、情愛に満ちあふれた言葉とは、とうてい思えず。

 コマラパ……前世で香織の父親だった泰三は、背筋の凍るような戦慄を覚えた。

「……ああ。ああ、香織。思ったとも、何度も悔やんだよ」

「そうよ。私の言葉を聞き入れていれば、パパは、飛行機事故なんかで死なないですんだのにね。……そうしたら、私も『闇の魔女』には、ならなかった」

「魔女? 香織、それはどういうことだ?」

「ママもパパも死んで独りになってから、今まで会ったこともなかった親戚たちや、結婚詐欺師や、数え切れないくらい、頭のおかしい人間達が湧いて出たの。身を守るために、私は強くなるしかなかった」

「香織!」

「心配ないわパパ。みんな、破滅させてやったから」
 こともなげに香織は笑う。
「呪われた骨董品を押しつけたり、冤罪をでっちあげたり。ああ、それから忘れてはいけないわ、パパが死んだ原因になった旅行会社に莫大な負債を作らせて潰したりしたの」
 たのしげに笑い声をたてた。
「あとは退屈しのぎに世界を恐慌に陥れたりしてみた。けれど、どんなにしても虚しかった。あとは魔法を探求して暮らしたわ。死者を蘇らせる方法とか。人の心を操るとかね。おかしいの。みんな、面白いほど私の思ったとおりに動いて」

「香織……? な、なにを言ってるんだ? おまえは」
 それでは、まるで。
 まるで……セラニスと……

『あっははははははは!』
 突然、セラニスが声をあげて笑い出した。

『なんだ、それって、ところどころよくわかんない言葉が出てきたけど、やってること、ぼくとたいして変わらないじゃないか。魔女、カオリ』

 並河香織は、コマラパから視線を移し、セラニスの前に、一歩進み出る。

「そうね、わたしは自ら望んで闇の魔女になった。世界を呪った。そこまでは、あなたと似たようなもの。だけど、わたしには、心を通わせた、愛する人がいたの。だから、愛を知らないあなたとは違う。哀れな月の子、セラニス・アレム・ダル」

 セラニスは、むっとしたような表情になった。

『哀れみを受けるとはね。だけど、きみ。この世では両親に恵まれなかったよね。酷い目に遭わされて、壊された魂の一番底には、闇の魔女が潜んでいた。そんなきみこそ、ぼくの器に相応しい。どうしてこんなに、きみという器が欲しくてたまらなかったのか、やっとわかったよ』

「それは褒め言葉と受け取っておくわ」
 艶然と、闇の魔女は微笑む。

「でも、あなたの誘いはお断り。わたしは、この世界セレナンを愛している。助けてくれた精霊に生かされて、愛されて、守られてきた。そしてこの世でも、光を見つけたから」

『光? 愛? なにそれ』
 セラニスは首を傾げる。
 まるで寄る辺ない幼児のように。

「あなたはレニウス・レギオンに、自分が不幸な子どもだと教えてくれたから、助言してあげる。いつか見つかるといいわね。あなたにも、あなただけの光が」

『黙っていれば良い気になって。ぼくにだって愛するものはいたんだ。地球が滅亡した時に、道連れになって消滅してしまったけどね。おまえたち、愚かな人間のせいで!』

 ふいにセラニスは激高する。
 押さえていた憤りが噴き出したかのようだ。

『何度繰り返したって無駄。人間なんか滅びればいい』

 断定した後で、ふとセラニスは考え込む。

『……いいや、違うな。そんなことも、もう、どうでもいいや。ただ、ぼくを楽しませてくれれば』
 そしてまた、くすくすと笑い出す。

『ぼくは、退屈してるんだ。愚にもつかない人間たち。せいぜいあがいて、憎み合い殺し合ってよ。それが人間ってものの本性なんだろう? ねえ。レニ。きみも本当は、こっち側の存在だろ? おいでよ。なんで、人間なんかに執着するのさ』

「あなたには、わからないわ」

 並河香織は、毅然として立っていた。

「だけど、これだけは言っておくわ。わたしは世界と約束して、この世界に転生したの。そうよ、あなたの言う通り、何度でも世界を滅びに向かわせるような愚かな人間たちの社会に」

 一瞬、目を伏せた後で、強い意志をうかがわせる目で、地上に投げかけられた『魔月』の幻影を、睨みつけた。

「ここには、未だ存在していない概念を持ち込むために。愚かでも愛すべき人間達を、救うために」

『……ばかばかしい。できるものなら、やってみれば?』

「それは挑戦かしら?」
 並河香織は、上体を屈め、セラニスの顔を下から見上げる。
 まともに目が合って、セラニスは僅かにひるんだ。

『挑戦者は、きみのほうだろ』
 セラニスは、ぼそっと呟いて顔を背けた。

「ふふふ。あなたはラスボスには物足りないけど、まあいいわ。覚悟しなさい。クイブロを傷つけたことを、心の底から後悔させてあげる!」

 美しくも凄惨な微笑みを浮かべて。並河香織は、立っていた。

「か、香織! なんて格好だ! 服を着なさい!」
 コマラパは、ここに至って、ようやく、カルナックが纏っていた、精霊の森で造られた純白の長衣を投げかけることができた。

「あらパパ。どうして?」

「どうしてもこうしても! 若い娘が、はしたない!」

「そういうこと気にする?」
 と言いつつ、差し出された衣を、頭から被る。

 衣が造られた時よりも身長が伸びているにもかかわらず、精霊の造った衣は、足首まですっかり覆い隠す。

 しかしながら、彼女が羽織ったとたんに、長衣は、瞬時に真っ黒に染まった。

 まるで虚空の真の闇さながら。
 光を吸い込んで外へは逃がさない漆黒の闇のごとくに。

「あらま。でもまあ、わたしに似合いの色ね」
 闇の魔女カオリは。
 衣の裾を持ち上げて、微笑みながら、くるりと回った。


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